ケンのブログ

日々の雑感や日記

親の意見となすびの花は

2018年08月19日 | 日記
山口県で2才の男の子の行方がわからなくなって
ボランティアのおじいさんがそれを発見して
親元に無事届けたというニュースがここ連日
新聞やネットに載っている。
それは子供の無事を知った親のかたは大変な喜びと
感動だと思う。
直接関係のない第三者にとっても。
この話に思いをめぐらしていてふっとイエスの言葉が
心に浮かんだ。
親心を語ったイエスの言葉。
こんな内容の言葉だ。
あなたが羊飼いだったとする
羊を百ぴき飼っていたとする
そのうちの一匹が行方不明になってしまった。
そのときあなたはその行方不明になった一匹を
必死になって探すだろう。
そしてその一匹が見つかったとき
あなたは残っている99匹のためではなく
その見つかった一匹のために喜ぶだろう。
天の神の親心とはそういうものである。

とこんな内容の言葉だ。
今回山口県で見つかった一人の子の無事にイエスの
この言葉をかぶせて思いを巡らせてみると
本当に聖書という書物を通して私たち
人類に長年伝わっている言葉は奥が深いし
見事に的を射ているなあとしみじみと思う。
本当に親心というものはそういうものだと思う。
こういう山口県のような出来事があったときに
私たちはそういうことを思い出してみるべきだと思う。
金光さんの本をぱらぱらとめくっていると
神は氏子をたすけたい一心であるから
私たちの身に無駄なことはひとつもなさらないという趣旨のことが書いてある。
そのように信じていきたいものだとしみじみと思う。
僕の故郷の盆踊り郡上節の歌詞に
親の意見となすびの花は千にひとつの無駄はない
という下りがある。
七五調の歌詞だ。
親の意見に千にひとつの無駄はないといっても
私たちは一般にある程度の年齢になれば親と
意見が合わないことはいくらでもある。
僕がとっている全国紙の人生相談のコーナーを
読んでいても、親が口出ししてきて困る
という投書がかなり頻繁にある。
ただ、その親をもっと広い意味にとって
天の親という風に解釈すれば
結局、親の意見に無駄はないということになるのだと思う。

例えばお念仏について書いてある書物を読むと
他力本願、自力本願というように分類して書いてあることが多い。
僕自身、他力本願と自力本願の区別はつかないし
そういう議論はお念仏を学問的に分類整理する方の仕事だと
基本的には思っている。

神様というのはどこか天とかそういう私たちの
外にいて私たちを守り導いてくださるのか
それとも私たちのなかにいるのか。
これもどちらが正解というものではなく
両方の考え方、信じかたがあるのだと思う。

基本的に神という概念のない仏教と
それのあるキリスト教と実質的な内容にほとんど差がないように、、、。

ただ、ルカによる福音書に書いてあるように
神はあそこにある、ここにあるというものではなく
私たちのただ中にある
という考え方は大切だと思う。

自分の身に起きること自分が出会うこと
そしてそれに対する自分の判断
そういうものは短い時間でみると無駄なこともあるかもしれないけれど
長い目で見れば決して無駄はないと信じていきたいと思う。