一本の道(2018.8.3日作)
今は
小さくたっていい
キラキラ輝かなくたっていい
人の眼に触れなくたっていい
声高に叫ばなくたっていい
-----
それでも
変わる事なく
歩いて行く
一本の道
-----
それが稔りとなって
やがて
いつかは
人の心を捉えるだろう
-----
遠い 遠い
一本の道
変わる事なく
歩いて行く道
希望の道
---------ー
(4)
俊一は自分の家の事は話さなかった。父の事も母の事も、由美子が両親に憎しみを抱いているようには口に出来なかった。かと言って、両親の期待を裏切り、無断で家を出た事を後悔している訳でもなかった。心の中の空白だけが色濃く意識された。
由美子はだが、恐らく、俊一に自分と同じ境遇を重ねて見ていたのに違いなかった。夜が白み始める頃、新宿駅で別れる時には、安心し切った様子で心を寄せて来た。
「じゃあ、またね。明日来る ?」
と言った。
「うん、行くよ」
そんな事の積み重ねの末に、二人の同棲生活が始まった。
その日、俊一が仕事が終わって帰った時には、午前八時を過ぎていた。
由美子はテレビを見ながら狭い台所でテーブルに向かい、トーストと牛乳の食事をしていた。
「お帰りなさい」
俊一の顔を見ていつものように言い、すぐに言葉を継いだ。
「ねえ、昨日話していたナイフどうした ?」
「どうしたって 、どうもしないよ。まだ店が開いてなかったもん」
「何処のお店?」
「駅へ行く道の途中に金物店があるだろ」
「知らないわ」
「おれも知らなかったんだ。昨日、歩いていてなんの気なしに気が付いたんだ」
「それで、そのナイフ買うの ?」
「まだ決めてないよ」
「幾らぐらいするの ?」
「値段は見なかったけど、結構、高いと思うよ。すっごくいいナイフなんだ」
「でも、そんなナイフ、何に使うの ?」
「何に使うっていうわけじゃないけどさ、ほら、人間って、何かを見て、すっごく欲しくなる事があるだろう、あれだよ」
「女の人がネックレスなんか見て欲しくなる、あれ ?」
「うん、まあ、そういう事かな」
「そんなにいいナイフなの ?」
「そうさ、凄いナイフさ。まるで宝石みたいに輝いてるんだ」
「値段も、結構、高いんじゃないの ?」
「高いと思うよ」
「高くても買うの ?」
「分かんないけど、今日また、見てみようと思うんだ」
あのナイフが自分のものになったどんなに素晴らしいだろう、と俊一は改めて夢想した。平穏で幸福な現在の日々に、改めて、豊かな色彩が添えられるような気がした。
その日も俊一は駅へ向かう途中、金物店に立ち寄った。
ナイフはショーウインドーの中に、昨日のままに置かれていた。
誰にも買われなかった事に安堵したが、このまま飾られていたら、何時かは誰かの眼に触れて、買われてしまうに違いないと思うと、安心出来ない気がした。
周囲の商品を圧倒して豪華に輝いているナイフが、誰の眼にも留まらないでいるはずがない、と考えた。
値段の掛かれた小さな紙片は裏返しになっていて、数字は見えなかった。
俊一は心を決めると、思い切って店内に入って行った。
店の奥では、薄暗い畳二枚分ぐらいの板の間に座布団を敷いて、六十代半ばぐらいかと思われる男が鋏を研いでいた。
「すいません」
俊一が声を掛けると男は顔を上げた。
「あのう、ウインドーに飾ってあるナイフ、幾らぐらいするんですか ?」
男は品定めをするように俊一を見てから、
「ああ、あれね」
と言った。それから再び、眼鏡越しに俊一を値踏みするように見つめて、
「あれは高いよ。五万円だよ」
と、突き放すようにして言った。
若造には土台、無理な話しだと言ってるようだった。
「五万円もするんですか」
俊一もさすがに息を呑む思いで、溜め息交じりに言った。
「うん、北欧からの輸入品でね、三本あった内の残り一本なんだ」
店の男は俊一の溜め息交じりの言葉に、少しは同情するかのように静かに言った。
「あれ、取って置いてくれませんか」
俊一は思い切って言った。
店の男は何処か思い詰めたような気配のその言葉に、怪訝そうな顔をして俊一を見た。それから、
「取って置いてくれって言われてもね。そう言っておいて来ない人が幾らでもいるんでね」
店の男は渋る気配で言った。
「給料までお金がないんで、それまで三千円ぐらい内金しても駄目ですか」
男はそれで幾分、納得したようだった。
「まあ、それならいいけどね」
「明日、間違いなく三千円持って来ますから」
店の男は明日と聞いて、また渋い顔をした。
「お願いします。明日、必ず三千円持って来ますから」
「もし、明日来なかったら、約束はなかったものとするよ」
「ええ、いいです。明日の今頃、きっと来ます」
ナイフはそんな経緯(いきさつ)の末に俊一の手に入った。
ずしりとした重みと、柄と刃の接点にある、金色の金具の中央に象嵌されたサファイア色の押し釦との調和がまた、一際、見事だった。俊一は自宅に持ち帰り、初めて自分の手で触れて見た時、しばしの間、息を呑む思いで見詰めていた。
「やだ ! 人の方に向けないでよう」
由美子は、俊一が自分の目の前でナイフを手にしていた時、突然、サファイ色のボタンを押されて刃が飛び出したのを見て、思わずのけ反り、叫んでいた。
「凄いナイフだろう。かっこいいだろう」
俊一は声を弾ませ、いかにも自慢げに言った。
「その白いきれいな柄は、なんで出来てるの ?」
由美子もナイフが持つ華やかさと豪華さには魅せられたようで口にした。
「何かなあ。まさか象牙じやないだろうな。多分、何かの動物の骨だと思うよ。それに、この彫刻が凄いだろう。二匹の蛇が絡み合って、喧嘩をしてるんだ」
「五万円もしたんだもんね」
由美子も納得顔で言った。
俊一はそのナイフを外出時に持って出歩く事はしなかった。貴重品を扱うように、由美子の箪笥の鍵の掛かる抽斗へ仕舞っておいた。
仕事から帰るとまず一番に俊一のする事は、その抽斗を開け、ナイフを取り出して手にする事だった。
ナイフは紫色のビロード布を張った木箱に納まっていて、豪華な宝物の輝きを放っていた。
2
「ねえ、俊ちゃん。あんたさ、東京に家があってさ、時々でも、家に帰りたいと思う事ない ?」
由美子は休みで家にいた。
俊一が眼を醒ました時には、午後二時近かった。
台所のテーブルでテレビを見ながら夏みかんを食べていた由美子は、俊一が傍の椅子に腰を下ろすと聞いた。