遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 255 新宿物語(5) ナイフ(2)純愛 他 演技の見本帳 映画 東京暮色

2019-08-10 17:33:22 | つぶやき
          演技の見本帳 映画 東京暮色(2019.8.2日作)

   久し振りに再見した映画
   小津安二郎監督
   東京暮色 昭和三十二年製作
   まず 出演者の豪華さに圧倒される
   小津組の常連 原節子 笠智衆
   他に
   杉村春子 山田五十鈴 浦辺粂子 
   長岡輝子 有馬稲子 山村聰 
   宮口精二 中村伸郎 信欣三
   名だたる名優たち
   脇役陣も 藤原釜足 田中春男 高橋貞二 始め
   演技巧者揃いの多士済々
   作品は例によっての小津調 端正な画面 と
   静かな語り口のストーリーが展開される
   眼を奪われるのは 名だたる名優たちの演技
   まずは冒頭 飲み屋の女将
   浦辺粂子が見せる 常連客の上客 と
   一見の客とに対する対応 応答 その
   微妙な差異 ちょっと見には分かり得ない
   演技の揺らめきとも 受け取られ兼ねない
   態度の違いによる 見事な演じ分け 更に
   杉村春子による例の 飄々とした演技
   その中 見せ場は
   トイレに向かい走る時の 後ろ姿の絶妙さ
   言いようのない可笑しさに 思わず
   吹き出したくなるーーこれも小津調のユーモアーか
   作品の中心になるのは 笠智衆 と
   原節子 有馬稲子姉妹との親子関係 この中
   原節子が父 笠智衆に向き合う様々なシーンに於ける 演技
   ためらい 戸惑い 喜び 哀しみ 他 怒り 各場面で見せる
   正面 クローズアップ あるいは 背中で見せる表情 その
   美しさ 切なさ 哀しさ 困惑 等々
   見事の一言に尽きる 背中の演技は
   山田五十鈴も見せる それでも この作品の圧巻は
   ラストシーン近く 汽車の窓から顔を出し 混雑する
   駅のホームに娘の原節子の姿を探し求める かつて
   二人の娘を捨て 他の男へ走った母
   山田五十鈴が見せる 眼の演技
   期待と不安のない交ぜになった微妙な
   眼球の動きと 輝き その変化が主人公の内面
   気持ちの全てを表現し し尽くす 結局
   娘の原節子は現れない 発車を知らせる汽笛と共に
   北海道へ旅立つ連れの男 中村伸郎との 何気ない遣り取り
   その中で見せる 寂しさの演技もまた 見事の一言
   千九百五十七年 既に五十年以上も前に制作された
   この作品に満ち溢れる名優たちの豊かな演技
   今日現在 この国 日本の映画 演劇界に於いて
   これだけの演技を見せてくれる俳優 役者達は
   存在するのだろうか NHK大河ドラマに代表される
   ーーもっとも 大河ドラマは見た事もなく 数秒の
     コマーシャルの中でのみの知識ではあるがーー 
   大声で怒鳴り散らし 大げさな表情 身振り で 表現するだけの
   大味な演技が幅を利かせる昨今 いったい それは
   時代と共に進化した結果なのか それとも
   退化した事による 結果 なのか ?


          -----------


 (5)

「帰りたくなんかないよ。家の事なんか忘れちゃったよ」
 由美子が食べていた夏みかんの半分を手にして口へ運びながら言った。
「お父さんは何をしている人 ?」
「関係ないだろう」
 俊一は夏みかんの酸っぱさに顔をしかめながら、テレビの画面に視線を向けて言った。
「俊ちゃん、ちっとも家族の事や家の事を話してくれないからさ」
 探りを入れるような由美子の口振りに、俊一は違和感を覚えた。
「家の事なんか思い出したくもないよ。家は家、俺は俺、関係ないよ」
 不機嫌に言った。
「本当に、そう思ってるの ?」
「どうしてだよ。どうして、そんな事を言うんだよ」
「俊ちゃん、あたしとよく似てると思ってさ」
 安心したように由美子は言った。
「うるさい親なんて、大っ嫌いさ」
「お父さんやお母さんがうるさいの ? それで、もう、家へは帰らないつもり ? 今みたいな生活をしていて、将来の事が心配にならない ?」
「心配なんかしてないよ。どうにか生きてゆければ、それでいいじゃないか」
「でも、もっといい生活をしたいと思わない ?」
「思わないよ。俺には今の生活が一番いいんだ。由美子はもっといい生活をしたいのかよ。誰か金持ちのパトロンでも見つけて、左うちわで暮らしたいのか」
「ううん、そうじゃないけど、俊ちゃん、もしもね。もしもよ。わたしたちに子供が出来たらどうする ? 産む方がいい ?」
「えっ ! 子供が出来たのかよう ?」
 俊一は驚いて聞いた。さすがに今、この時点では受け入れがたかった。
「そうじゃないわよ。だから、もしもって言ったでしよ」
 由美子は慌てて否定した。
「驚かすなよ」
 俊一は苦笑いと共に安堵したように言った。
「驚いた ?」
「驚いたよ。今、俺たちに子供が出来たら、どうしようかと思ってさ」
「お金もないしね」
「そうだよ」
「でも、何時かは欲しいって思わない ?」
「何時かはね。何時かは欲しいよな。それまでに一杯貯金をしなきゃあ、どうしょうもないけどな」
「部屋もこんなに狭いしね」
「うん」
「俊ちゃん、本当にあたし達の子供が欲しいって思ってるの ?」
「なんでだよ。なんでそんな疑い深い眼で見るんだよ」
 俊一を見つめる由美子の眼に見る見る間に涙が満ちて来た。それが溢れて頬を流れ落ちた。
 由美子は二度三度すすり上げてから手の甲で流れ落ちる涙を拭った。
「本当の事を言うとね、わたし、子供が出来たみたいなの。いつもと違うの。一緒に働いているお店の子に聞いたら、妊娠したんだよ、って言われちゃったの」
「本気かよ ! 嘘字じゃないだろうな。病院へ行って診て貰ったのか」
 俊一は正真正銘、息を呑んで言った。
「ううん、まだ病院へは行ってないけど・・・・。俊ちゃんがなんて言うか心配だったから」
「で、由美子はどうなんだよ。産みたいのかよ」
「俊ちゃんが産んでいいって言うんなら、わたし産むわ」
「当たり前だろう。なんで俺が駄目だって言うと思ったんだよ」
「だって、さっきも言ったでしょ。わたしたち、お金もないし、こんなちっちゃな部屋だし、どうしようもないと思ってさ。それにわたし、両親もちゃんとしていないから、子供を産んでもどうしたらいいのか分からないから、心配なんだもん」
「関係ないよ、そんな事」
「貧乏でも平気 ?」
「平気だよ。その分、一生懸命働くよ。産んでしまえば何とかなるさ」
「でも、わたし、両親が前にも言った風で、面倒見てくれる人もいないんだよ。それでも平気 ?」
「親なんか関係ないって言っただろう。俺たちは俺たちだよ。なんとかやっていけるよ」
 由美子は相変わらずすすり上げながら、手の甲で流れ落ちる頬の涙を拭っていた。
「いいか、もし、妊娠だって分かったら、絶対、無理すんなよ。その分、俺が働くからさ」
「どうして、こんな生活なのに、そんなに子供が欲しいの ?」
「そんな事、俺に分かるかよ。でも、俺と由美子との間に子供が生まれるなんて、夢みたいだと思わないか ?」
「うん、思う」
 由美子の妊娠に間違いはなかった。その瞬間から由美子は、一人の少女から大人の女に変身していた。一つ一つの身のこなしや顔の表情に、今までには見る事も出来なかった、大人の女の艶めかしさが漂うようになっていた。        
 俊一はそんな由美子の変化に眼を見張る思いだった。由美子と出会ってから九か月が過ぎていた。
 俊一は時折り、ふと、今の自分の生活が、何か別の世界の出来事ではないか、と思ったりした。一年前にはこのような生活など考えられもしなかった。考えてみた事もなかった。A大医学部を目指しての試験勉強だけが全てだった。その背後にはいつも父と母の顔があって、重苦しい荷物を背負ったような日々だった。
 それに比べて今現在の生活は、自由の花園に開放されたような毎日だった。自分を束縛するものは何もなかった。総てが自身の意志と気持ちで決定された。無論、それで生じる責任は、自分で負わなければならなかった。しかし、それさえもが今の俊一には、心地良いものに感じられて、何に対する不満もなかった。
 俊一は由美子が働けなくなった分だけ、更に働くようになった。肉体的には厳しさが一層増したが、二人の間に生まれて来る子供の顔を思い浮かべると、ひと時の辛さだと、自分を納得させる事が出来た。

 俊一は最初、まったく気にも留めなかった。高校生ぐらいの女性が、自動ドアを開けて入って来る事は極めて当たり前の事だった。
 俊一がいささかの疑念を抱いたのは、その女性がドアの向こう側にいて、一向に入って来る気配のなかった為だった。店内を覗かれているようで、いい気分ではなかった。睨み返すようにして、再び、その女性を見つめて俊一は息が詰まった。