愛しい人たち(1)(2020.2.20日作)
伊澤よし 享年九十五歳
わたしの母方の祖母
遠い昔 慶応の末
小さな山村に生まれ 十里離れた
九十九里の海に近い農村に嫁いで来た人
晩年 十年程は緑内障のために失明
暗闇の中に生き それでもわたしの母の介護の下
生涯の終わりは穏やかだった 後年 わたしは
その祖母が 祖父の再婚相手だった事を知り
ふとした 秘密を盗み見てしまったような
小さな驚きに囚われた
穏やかな人だった
運の悪い人だった
祖母の連れ合い
わたしに取っての祖父は
早くに亡くなった わたしは
その人の顔を知らない
祖母は祖父に付いては多くを語らなかった
酒のため 財産を潰し 自身も
酒のために亡くなった・・・・・・
誰からともなく聞いていた
祖父の祖先は平家方の武士だった
名字帯刀も許されて 広大な土地を持ち
にある墓地や 寺の土地も寄付した家柄だった
の人たちからは 屋号に「殿(どん)」を付けて呼ばれていた
それは わたしたちが居た頃も続いていた
堀田の殿様が下った折りには
裃(かみしも)姿で出迎え の子供たちには
学問を教えていた
それらの事はだが すべて
わたしたちが物心付いた時には
過去の栄光 過去の物語と化していた
広大な所有地
大人一人が一抱えするような大黒柱を持った
大きな家 それらは影もなく
六百坪足らずの敷地に
八畳一間 六畳一間 台所を持っただけの
小さなトタン屋根の家に変わっていた
総ての財産を酒で無くして祖父が死んだ後
祖母が一人 農家の仕事を手伝いながら
日銭を稼ぎ 建てた家だった
--わたしの母を含め 四人の子供たちは
没落した家を それぞれに離れていた
他にもいた三人の子供たちは
幼くして亡くなったーー
以来 祖母は一人で生きて来た
そんな祖母とわたしは 第二次世界大戦の末期
何年か ? あるいは何か月かを
二人だけで暮らしていた
その頃 銚子にあった母の嫁ぎ先 父の実家も苦しく
母も父を助けて働かなければならなかった
わたしの心に残る祖母の面影
その面影は多分 その時期に より強く より深く
わたしの脳裡に刻み込まれたものに違いない
愚痴を言わない人だった
芯の強い人だった
過去へのこだわり 大きな家を没落させて
祖母に苦労を強いた祖父への恨みなど
一切 口にしなかった
すべてを自分の胸に納めたまま 何も語らず
すべてを悟ったように 静かに
晩年の日々を生きていた
ーーそれにしても 祖父がそれ程までに
酒に溺れた裏には いったい
何があったのか ?
自身の生まれ 生い立ちへの
言葉には出来ない重圧 に
押し潰されでもしたのだろうか ?ーー
慶応生まれの昔の人 そのため祖母は
読み書きの出来ない人だった それでいながら
聡明な人だった 晩年 失明してからは
母と二人だけの生活を余儀なくされたが
母の外出中にも留守を誤り無く守って
その日の出来事 訪ねて来た人の誰彼を
逐一 報告した
失明する以前 母が一度
父とわたしが暮らす東京へ誘ったが
--東京大空襲で被災したわたしたち一家は
戦後しばらく 母の実家に身を寄せていたーー
祖母はその誘いを受け入れなかった
「おらあ ここで死んだ方がいい」
苦労の末に建てた家への愛着だったのか あるいは
馴れない土地 東京での生活が不安だったのか それとも
過去の栄光を胸に その栄光と共に
この地に眠る覚悟だったのか
祖母の口からは それらについても一切
語られる事はなかった
祖母の葬儀の日 かつての祖先が寄付した
墓地の一角には
杉の巨木に絡んで 白藤の大きな白い花が
幾つもの見事な房を見せ 小ぬか雨に濡れていた
祖母が横たわる白木の柩は両端を
麻ひもで吊るされ 深く掘られた
穴の中へ少しずつ
降ろされていった やがて
麻ひもが外され 柩は
穴の底に残された
遺族の手によって土が掛けられ
それから後は の人たちが手にしたシャベルで
土が掛けられた その間も
小ぬか雨は 止み間もなく降り続いていた
五月の樹々の緑がその雨に濡れていた
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サーカスの女(完)
信吉は息を呑んでいた。
女は美しかった。ドレスからむき出しの両の肩、その白い肌に触れる豊かに波打った黒い髪。細面の深い顔立ちに形の良い唇。
口紅の赤が濡れたように光っていた。
眼にはアイシャドーと付けまつ毛。ドレスの胸元からのぞく二つの胸の隆起は、信吉の眼には眩しく大胆だった。
女は全体的にほっそりとした感じで、その白い肌が信吉には陶器の人形でもあるかのように思われた。
女は静かな微笑みと共にマイクに近寄った。
信吉はただただ、魂の抜けたように女の動きを見守っていた。ふだん見馴れた女たちとは異なる女性がそこにいた。殊に、女の何処か愁いを帯びたように見える顔立ちが信吉の胸を打った。華やかで美しく、それでいて翳りがあった。
女はやがて、アコーデオンの伴奏と共に歌い出した。細い艶やかな情感のこもった声だった。
" 赤い夕陽が砂漠の果てに
旅を行く身はラクダの背(せな)に "
その唄は信吉も知っていた。岡晴夫が歌うのを何度か聞いていた。好きな唄の一つだった。
だが信吉はその時、女の歌うその唄に、かつて聞いた事のないような感動と共に、胸に沁み入るような感覚を覚えていた。細面の何処か愁いを帯びたようにも見える美貌の女の身の上が、その唄と一つに重なってゆくように思えた。果てしない旅をゆく身・・・・・・。
" 男一匹 未練心はさらさらないが
なぜか寂しい日暮れの道よ "
「あんだ、こんなとごろ(所)にいだのが」
突然、忠助の声が聞こえた。
振り返ると忠助と高志が傍に来ていた。
「サーカスやってのが ?」
高志が言った。
「いま、入れげえ(入れ替え)だ」
春男が言った。
高志は中を覗きに行った。
すぐに戻っ来た。
「へえって(入って)みねえが ?」
信吉は言った。
「駄目だあ。おらあ、金がねえよ。すっからがんだあ。将棋ば二番やってまげ(負け)じまっただあ」
高志は言った。
「将棋ばやってだのが」
義雄が言った。
「ああ、あんチキショウ(畜生)、やげにつえだ。ちょこちょこってやって、二番まげだだ」
高志は悔しそうに言った。
「入場料、大人三十円で、子供十五円だってよ」
忠助が入り口の料金表を見て言った。
「あんつう(なんて言う)歌手だあ」
高志が櫓(やぐら)の上で歌う女性を見て言った。
「春風京子だってよ」
良二が言った。
「ふうん、聞いだ事がねえな」
高志は言ったが、それでも女の唄に聞き入るように見つめていた。
女は更に別の唄を歌っていた。
" 村の一本橋 恋の橋
渡っておいで 月の出に "
二葉あき子の唄だった。女は軽い弾むようなリズムで歌った。
その唄が終わると開幕のベルが鳴った。
呼び込みの男は一層、声を張り上げた。
「さあさあ、始まり、始まり !」
テントの中で拍手が起こった。
入り口から覗くと舞台には、一輪車に乗った男女が次々に出て来て、華やかな衣装が証明にキラキラ映えた。
「こっがらでも見えっでねえが」
高志がほくそ笑んで言った。
舞台では一輪車に乗ったピエロ達が次々に出て来ていた。すると、大きく開いていた入り口が閉ざされ、中が見えなくなった。入場者は小さな入り口からテントを押し分けるようにして入った。
「チェッ」
と春男が言った。
「ケチりやがってよう」
義雄が悔しそうに言った。
「いぐ(行く)べえや」
高志が諦めたように言って、みんなはその場を離れた。
境内の粗方のものは見ていた。陽の翳りぐわいで午後の時間が分かった。
「そろそろ、けえっべえ(帰る)が」
高志が言った。
「そうだなあ。はあ、二時ばすぎ(過ぎ)だっぺえ」
忠助が言った。
みんなはそのまま、境内へは戻らなかった。裏の道を辿って帰路に付いた。
信吉はサーカスが見たかった。夢のような女の面影と哀調を帯びた世界がまだ脳裡に残っていた。
他の者たちは信吉には無頓着だった。なんとなくふざけ合いながら畑の中の細い道を辿って歩いた。
信吉はふざけ合う他の者たちとは裏腹にだんだん無口になっていた。朝から歩き通しだった疲労のためばかりではなかった。それはみんなも同じ条件下にあった。疲労感は彼等に帰りの道が果てしなく遠いもののように感じさせていた。ただ、信吉は、そんな中でもみんなと離れて独り、サーカスの世界を頭の中に描き続けていた。華やかでいながら、何処か哀調を帯びた世界。そして、あの美しい女。
サーカスは金毘羅が終わると、今度は何処へ行くのだろう。あの女は今度はどんな所であの唄を歌うのだろう。出来ればあの女の近くにずっと居たいという思いが信吉を苦しめた。
信吉達がへ帰り着いた時には日は暮れていた。家々が暗闇の中にあった。どの家もが木の間がくれに灯りを点していた。
5
「あんだ。今頃まで遊んでいだのが。さっさとけえって(帰って)くればいいによお」
母が言った。
夕飯の支度が出来ていた。八畳の座敷に食卓が出ていた。
茶碗や煮物、お新香などが電燈の光りの下にあった。
祖母が一人、その前にちょこんとかしこまって座っていた。
「父ちゃんは ?」
信吉は釜屋から座敷に鍋や釜を運んでいる母に聞いた。
「今、風呂にへえって(入って)るよ。父ちゃんが出だら、すぐへえってしまいな」
母は言った。
「おらあ、へえんねえ。腹へった」
信吉は言った。
「昼飯も食わねえでいだのが ?」
母は言った。
「食ったよ」
信吉は言った。
縁側の踏み台へ行くと竹の皮で出来た鼻緒の下駄を取った。草履を脱いで裸足になり、井戸端へ行った。
井戸端では釣瓶で水を汲み、下駄に乗せた裸足に釣瓶からの水を浴びせ掛けて洗った。水は冷たかった。
縁側に戻ると腰を掛け、雑巾で濡れた足を拭いた。
座敷に上がると奥の間から床を取り終えた姉の道代が出て来た。
「信吉ったら、足がまだ濡れでっでねえがよお」
と言った。
信吉は取り合わなかった。
「かあちゃん、こづげえ(小遣い)ののごり、仏壇の上さ置くど」
鍋釜を運び終わって土間にいた母に言った。
「婆ちゃん、お茶ば入れでやっがい ?」
道代が祖母の耳元で言った。
「ああ、有難うよ」
祖母は言った。
風呂から上がった後の祖母は血色が良かった。皴だらけの顔がつやつやしていた。
「あじょうだった(どうだった)金毘羅は ? 人が出だがい」
母が聞いた。
「うん、いっぺえだった」
信吉は御飯を口に運びながら言ったが、怒られたように元気がなかった。
実際は、父も母も怒りはしなかった。父も母と同じように、
「いづまでほっつき歩いでっだよお」とは言ったが、それだけだった。
信吉は三杯目の御飯だった。食欲だけは旺盛だったが、気持ちは晴れなかった。
疲れもあった。体中の力が抜けていくような感覚の疲労感を覚えていた。それに、あの夢のようなサーカスの世界の余韻がまだ頭の中から消えていなかった。
だが現実は、早くもそんな夢のような世界を遠い世界のものとしていた。眼の前には何時もと変わらない世界。何時もと変わらない電燈の灯り。何時もと変わらない食卓の茶色い漆の輝き。そして、父と母、姉の道代と祖母。
信吉はそんな中で無意識のうちにサーカスの女の事を思い続けていた。
年は二十三か四だろうか。スラリとした体に、はっきりとした輪郭の細面の顔立ち。両の肩から胸元にかけての透きとおるような肌の白さ。
女は今もあの舞台で歌って居るのだろうか?
信吉は夜のサーカスの舞台を思い描いた。
「御飯は ?」
母が言った。
「いんねえ」
信吉は箸と茶碗を食卓に置いた。
「お茶が ?」
母は言った。
「いんねえ」
信吉は言った。
ラジオでは「今週の明星」が始まっていた。
テーマ曲に乗せてアナウンサーの「今宵また流れる歌の調べに乗せてお送りする今週の明星」という声が聞こえた。
信吉は食卓の前を離れた。
「すぐ風呂にへ(入)えってしまいな」
母が言った。
「へえんねえ」
信吉は言った。
「信吉はまだ、あに(なに)ば怒ごってっだや。そんなに腹ばたでるもんでねえだよ」
祖母が勘違いをして突拍子もない事を言った。
「怒ごってだねだい」
道代が祖母の耳元で言った。
祖母はその言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか、
「男の子っつうのは、気持ぢばでっかぐ持だねえどいげねえど」
と、諭すように言った。
道代はもう何も言わなかった。
「風呂さへえんねえって、おめえ、一日中歩いで来て真っ黒だっぺよお」
母は咎めるように言った。
「井戸端で足ば洗ったよお」
信吉はそう言うと、さっさと次の間に行った。
電灯を点けると寝床の前でズボンを脱ぎ、寝間着に着かえた。
「道代、煙草ば取ってくんねえが」
まだ晩酌を続けている父の声が聞こえた。
「煙草 ? 何処にあっだ(ある)がい」
姉が言った。
「仏壇の上がな」
父が言った。
信吉は布団の中に入ると、頭から掛布団を被った。いつも聞く「今週の明星」も聞きたくなかった。暗い中でただ、あのサーカスの女の事を考え続けていたかった。
完