星空(2010.5.24日作)
わたしがまだ小さく 祖母と二人で
九十九里の海辺に近い村に暮らしていた
この国がまだ 貧しかった頃
星空は 限りなく美しかった
冬の夜
祖母が農作業の手伝いをしていた家で
貰い湯をして我が家へ帰る夜道
見上げる
寒さに凍て付き 冴え渡る空には
大小様々
数限りない星の瞬きがあり
無数の星の群れの中を横切って
白い粉(こ)を流したように広がる
星の帯 銀河が蒼黒の天体を
一杯に覆っていた
まだ 都会にネオンサインの光りも乏しく
家々の座敷に電燈を燈すになって
それ程に歳月を経ていない頃
湯上りあとの手拭がたちまち凍り付く
霜の降りた枯れ草の中の小道を歩きながら
「あれがサンチョウレイ(三ツ星)」
「あれがヒシャクボシ(北斗七星)」
星の並んだ形を指差して 祖母が
教えてくれた 遠い昔の記憶
今のわたしは 祖母のあの頃の年齢を生きている
祖母と暮らした村を離れて
都会の夜を生きる今
わたしの眼に映るのは
祖母と二人で眼にした あの夜空の
星の瞬きとは異なる
地上に溢れる幾千万もの光りの瞬き
人の手によって生み出された光りの帯
すでに 祖母は遠い昔に逝き その姿の
次第にわたしの
記憶の中から薄れてゆきつつあるように
あの星空もまた
遠い記憶の彼方へと押し流されて行く
永遠に変わらぬもの
常に換わりゆくもの
蒼黒の天体は都会の夜を生きる
わたしの頭上に今も
変わる事なく開けていても
あの星空は地上に溢れる光りにさまたげら
見る事は出来ない
--遠い国の何処か
見知らぬ土地の何処かへ行けば 見る事が
出来るのか ?ーー
永遠に変わらぬもの
常に変わりゆくもの
延々と続く人の営みが
なにかを生み なにかを壊し
わたし自身の肉体も
老いた
あの夜空にきらめく
無数の星の瞬き
遠い国の
見知らぬ土地の何処かで
ふたたび
あの輝きに出会えたとしても
わたし自身に過ぎた歳月
この国の上に流れ この国の形を変えた
歳月は
戻らない
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心の中の深い川(3)
有吉が由紀子の何処に興味を持ったのかは分からなかった。有吉が二度三度と来て、その都度、顔を合わせるうちに由紀子の身辺に話題が及んだ。
由紀子は当時、学校に通い、洋裁を勉強していた。バーに勤めたのは、生活費と将来、店を持つ為の資金を稼ぐ為だった。由紀子、二十四歳の時だった。
由紀子には始め、一流デザイナーを目指すなどという大それた気持ちはなかった。店を持つ事によって、自分一人が生きてゆければ、というだけのささやかな願いからだった。中学を卒業してからの、十数種類に及ぶ職業の遍歴。人生は厭世の色で塗り潰されていた。 孤独、翳り 性格の暗さは、由紀子を一層、不遇へ追い遣るようだった。打ち解けない性格ゆえの同僚達との行き違い。寡黙から来る度重なる盗みの疑い。訪れる人もない部屋での、生死をさ迷うような肺炎による無断欠席の果ての解雇。死にたいと思った事は、幾度となくあった。だが、それは、今に始まった事ではなかった。不遇な幼女時代から由紀子の心の奥に根差していたものだった。母の死に於ける、息を引き取る間際の苦しみ悶える姿。それが唯一、由紀子を死の誘惑から遠ざけるものだったのだ。
そんな由紀子が、漫然とパン屋の店員でいる事に不安を覚えたのは、二十二歳の時だった。その店で由紀子は最年長者だった。
当時の由紀子には、頼るものなど、何もなかった。次々と襲い来る運命の変転。それによる人間への不信、幼い由紀子の心の裡にはそれらのものが火傷のよう染み付いていた。当然ながらに、結婚への夢など、抱けるはずのものではなかった。技術を身に付ける事。それが唯一、自分が生きてゆくのに必要な事のように思えた。
由紀子は自分の好みと共に、洋裁への夢を膨らませるようになっていた。
一枚のブラウスを縫い、ささやかな報酬を手にする。月々、何枚かのブラウスを縫う事によって、自分が生きて行くのに必要なものが得られるような気がした。
幸い、様々な職業の遍歴の中でも、それだけが唯一、自分の頼りとするものと思い、せっせと蓄えて来たい幾ばくかの貯金があった。その金を頼りに、パン屋の店員も辞め、洋裁学校に入学した。その後は、眼に付いたスナックの女性募集に応募した。昼の学校通いと、夜の仕事で生活費を手にするには好都合に思えた。
銀座のバー「ゆめぞの」には、一年程してから移った。新聞のホステス募集広告を眼にしたあとだった。洋裁学校入学と共に手元の貯金の少なくなっている事に不安を覚えると共に、将来、店を構える時の必要資金を考えての事だった。
「ゆめぞの」で得られるものは、由紀子の想像をはるかに超えるものがあった。
その生活に馴れて来ると由紀子は、次第に、自分でも思い掛けない程の心の落ち着きを得るようにもなっていた。心と生活のゆとりが、今までになく由紀子を柔らか味のある人間に変えていた。由紀子自身、自分の将来に仄かな明かりのようなものを見るようにもなっていた。
有吉が由紀子に興味を示したのも、実はその、由紀子の寡黙と翳りに他ならなかった。夢を抱いて以来の由紀子には、寡黙と翳りの上に柔らか味が加わって、不思議な魅力を醸し出すようになっていた。わざとらしく、大仰に振舞う同僚達の多い中で、由紀子の控えめなその態度は、黒い宝石のように輝いた。明るい輝きの中に隠し持った暗い輝きーー。まだ、ベテランとは言えない由紀子の新鮮さと共に、その輝きが有吉の心をくすぐったとしても不思議はなかった。
有吉は由紀子に興味を示したとしても、若い男達を真似ての物欲しげな行動に走る事はなかった。有吉にどのような下心があるのかは分からなかったが、由紀子が有吉の眼鏡に適ったという事実には変わりはなかった。
「わたしが力になれるような事があったら、相談に来なさい」
有吉は言った。
有吉はその時には、由紀子の生活も、持つ夢をも知っていた。
由紀子にもまた、ある料亭での食事の後、酔った有吉に介抱を求められた時に、それを厭う気持ちはなかった。愛情とは言えないまでも、有吉の気持ちに尽くす心があった。"初めて" の不安も妨げにはならなかった。
由紀子は洋裁学校を卒業すると間もなく、六本木に店を構えた。バーの仲間達の誰も知らなかった。立場上、有吉が表面に出る事はなかった。
志村とは個人的な付き合いの他に、仕事の上でも重要な相棒となった。B商社の女性部門への進出は、華やかな話題と共に、既成メーカーに取っての脅威ともなった。無名の西村由紀子の存在が始めて認識された。
志村は相棒としてはやかましかった。月の半分近くは海外へ出ている事が多くて、それだけに様々な情報にも精通していて、注文は厳しかった。名の売れた一流デザイナーには、さすがに遠慮するような所もあったが、まだ駆け出しとも言える由紀子には容赦がなかった。自分の意見を押し付けてくるような事もあった。感覚的にも鋭かった。しばしば、二人の間では衝突が起こった。それでも最後には結局、双方が折り合って決着が付いた。
「じゃあ、兎に角、それでやってみよう(みましょう)。納得出来ないけど」
由紀子は自分の意志によって一つのものが生み出されてゆく事に、限りない喜びを抱いた。自分が創り出すもので、世界が一つ一つ広がってゆくような気分を抱いた。志村はその良き相棒だった。自ずとその存在が由紀子の心の中に消し難く住み着くようになっていた。
有吉は、由紀子の仕事に口を出す事はなかった。小さな仕事に係わっていられる程に暇人ではなかった。
「どうだい、たまには食事に来ないか ?」
時折、電話の掛かって来る事もあった。
由紀子の心の裡には、B商社の仕事の成功と共に、多少の野心も芽生え始めていた。経済界に著名な人物を味方に突けて置く事が不利益になるはずはなかった。
有吉とレストランのテーブルに向き合う由紀子には、自信と共に、女性としての魅力も漂うようにさえなっていた。
有吉には、自分が手を貸す女性がそのように変わってゆく姿を見る事を、秘かに喜んでいるような節もないではなかった。
志村が由紀子に仕事の相棒以外のものを求めなかった事で、由紀子が不満を覚える事はなかった。その事を格別に意識する事もない程に、二人の関係は自然だった。友人とも、恋人とも、相棒ともつかない奇妙な連帯感。事実、由紀子は志村を傍に感じているだけで 満たされた。志村の男としての部分が何処でどの様に燃焼されているのか、由紀子には分からなかったが、その事に格別の思いを抱く事もなかった。
総てが調和が取れていた。それが志村との関係の総てだった。そして、由紀子は幸福だった。一瞬一瞬がきらめきを感じさせるような時間。それが由紀子に取っては志村との時間だった。そこに不安の影の生じる事はなかった。
四
鏡の表を打つ小さな礫(つぶて)。それから生じる幾条もの鋭い亀裂。失われた世界。錯綜し、飛び交う幸福の断片。眼の前を流れて行く無色の時間。佇む由紀子。
由紀子には、何をどの様に責めたらいいのか分からない。
乾いた諦念があるだけだ。
涙さえ浮かんで来ない。
どうにもならない事だった。
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桂蓮様
コメント有難う御座います
わざわざわたくしの要望を叶えて下さって
有難う御座います
お手数をお掛けしてしまい申し訳御座いません
心底より感謝 御礼 申し上げます
そちらにお住まいの御様子
様々にお書き戴きまして
とても楽しく また 興味深く読ませて戴きました
いゃ 広大な土地 羨ましい限りですが
ご苦労も多いのですね
テレビや映画などでアメリカの家庭の様子などを
眼にしていて日頃から羨ましさばかりを
募らせていましたが、事情がよく分かりました
星空 いいですね
都会暮らしでは叶わぬ夢です
今回 冒頭に掲載した文章は以前に書いたものですが
桂連様の御文章を拝見してふと こんな文章を書いた
事があったと思い、探し出し掲載してみました
今でも桂蓮様のお住まいのような場所へ行けば
美しい星空を見る事が出来るかも知れませんが
わたくしも歳を取った今となっては
祖母と二人で見たあの冬の夜の美しい
心に沁みるような星の輝きを見た感動は
再び戻って来る事はないだろうと思っております
いろいろ有難う御座いました
これからもどうぞ くれぐれもご無理のない程度で
そちらの御様子をお伝え戴けましたら嬉しく存じます
takeziisan様
いつも有難う御座います
追想山旅 良いですね 迫力満点の写真
魅了されます
家に篭ってばかりの生活の中で
このような写真を拝見すると心底
心が洗われます いろいろお持ちの様ですので
これからも是非 掲載お願いしたく思います
ナット キング コール 懐かしいですね
この頃がわたくしなどに取っても
最良の時代だったような気がします
様々にあの頃を思い出します
読書は時代物がお好きなのでしょうか
わたくしは生憎 時代物は名だたる
名手達が多いにも係わらず全く
眼を通した事がないのです
無論 吉川英治から始まって
大仏次郎 柴田連三郎 藤沢周平 平岩弓枝
宮尾登美子 いろいろ名前ばかりは知っていますが
ーーただ現代の作家達はほとんど知りません
それだけにここに紹介戴いている本の
粗筋は妙味深く読ませて戴いております