無神論(2022.12.2日作)
神は人の心を支える柱
苦しみ多い
この世界を生きるため 人が
想像し
創造した存在
天地創造神
絶対的有能神など
存在しない
人は 人の心を支えるために
想像し
神を創造した
この世は無
無の上に人が世界を築いた
この世の総ては 人の心
人の心により 成り立っている
人 無くして この世は無い
人が至上 人間至上主義
人の心が 何よりも 大切
人の心を傷付けるな !
人の心を超える神など
存在しない
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私は居ない
Ⅰ
私は父というものを知らない。
父が死んだのは私が一歳か二歳の頃に違いない。
母はその点に関して何も話してくれなかった。
「あなたが、ほんのまだ赤ちゃんの頃よ」
と言うだけであった。
私もまた物心付く頃から不在の父に関して、あえて深く知ろうとしなかった。
私には縁のない遠い事のような気がした。
それでいて私は、街の人込みの中ですれ違った人や、電車の中などで向かい合いの席に座っている人の上に、ふと、父の面影を見る事があった。
父の顔は私には親しかった。
父が鼻の下によく似合う髭をたくわえていた事、品良く禿げ上がった額をしていた事、どこか厳しさを感じさせる眼差しをしていた事などをよく知っていた。
無論、私が実際に父の顔を見たからではなかった。
私の記憶の中に父の顔を刻み込んでいたのは、取りも直さず、母の居間の、柱時計のわきの鴨居に掛かっているかなり大きく、鮮明な写真のせいだった。
現在、私は既に三十歳を過ぎている。
生活は物心付く頃からずっと母と二人だけであった。
その生活を寂しいと思った事は一度もなかった。
また、見た事のない父を恋しいと思った事もなかった。
家庭は裕福だった。私が物心付いた頃から既にずっと、変わらずに二人のお手伝いさんが居て、母や私の身の回りの世話などをしてくれていた。人は何度か変わっていたが。
母と私は仲が良かった。親子というよりは小学生の頃から既に、友達のような感覚で物事が進められて来た。
何処か、のほほんとしていて冗談好きな母で、少しも母親らしくなかった。
無論、教育に関してもそうだった。うるさく言われた事は一度もなかった。
お手伝いさんにもまた、そうだった。使用人と主人というよりは、親戚、姉妹でもあるかのようにざっくばらんで、お互いに少しも取り繕うところがなかった。
要するに母は天真爛漫、快活で少しも気取りがなかった。私や若い二人のお手伝いさんに囲まれている事で、自身も常に若さを目差しているような所があって、身に付ける衣服などでも、ともすれば歳には似合わない派手なものを選びがちであった。
「これ、どう ?」
衣装道楽の母は、季節ごとに必要もないようなものまで、何着も買い込んだ。
「なんだか、まるでチンドン屋だなあ」
私が言うと、お手伝いの一人が、
「赤ちゃんの洋服みたいだわ」
と評した。
「でも、奥様は若く見えるから、似合うと思うわ。ちょっとお祭り提灯のようなところもあるけど」
と、別のお手伝いが慰めとも付かない言い訳をしたりした。
母は、それですっかり意気消沈してしまって、暫くは見るのも嫌だと言って、何日も箪笥の中に掛けたままにして置くのだったが、何日かするとまた気を取り直して引っ張り出し、
「せっかく買ったものだから、着てみるわ」
と言って、改めて身に着けたりした。
総てがそんなふうだった。何事にもまとまりがなかった。それでいて一家が穏やかに過ごせていたのは、母の他人に対する優しさと思い遣りの心があったからに他ならなかった。当然、お手伝いさんに対してもそうだった。
私の家は祖父の親という人が大分苦労をして、莫大な財産を造ったという事で、経済的には父が居なく、母が遊んで暮らしていても困るような事は何一つなかった。
父も祖父の親という人が創った会社の社長だったという事だったが、その会社も父の死と共に人手に渡り、今では横川産業という名前もなくなっていた。
それでもとにかく、膨大な資産が残されたお蔭で私と母は気ままに遊んで暮らしてゆけるという恵まれた境遇にあった。
私自身、金銭的に何不自由なく暮らして来たせいで、随分、気ままに好き勝手な生き方をして来た。
大学時代には文学に興味を持ち、仲間達と同人雑誌を出したりするようになっていた。
その費用の半分以上を私が受け持った。
女性にはそれほど興味はなかった。様々な事に浮気っぽく手を出してみたが、結局、落ち着いたところは文学とその同人雑誌だったのだ。そしてそれは、今も続いている。
母は初めから私に何も期待していなかった。金銭的にも恵まれていた事だし、私が面白おかしく、人生を悔いのないように生きてくれればいいとだけ、望んでいた。母の口から直接、その言葉を聞いたわけではなかったが、日頃の母の口振りから、そう察する事が出来た。もともと、気楽な母だった。
その母も一年程前に死んだ。
風邪をこじらせての肺炎による死だった。一週間程、高熱が続き、その為、体力を消耗しての、ロウソクの火が尽きるような死だった。母はその中で私に、「あなたは、わたしの本当の子ではない。深川、東陽町に居た芸者の〆香という人の子供なのよ」と、今にも消えそうな息の中で途切れ途切れに言って静かに眼を閉じた。
それが最期だった。
当然の事ながら、私にしてみれば、思いも掛けない母の言葉だった。
母は生前、何一つそのような言葉を匂わせる事もなく、それに関するような素振りを見せる事もなかった。何処か陽気で気楽な母ではあったが、紛れもなく、実の母と少しも変わらない母であった。
私はまさかという思いの混乱はしたが、苦悩する事はなかった。
何がどうあれ、私は私に違いない。
ただ、私は思わぬ母の言葉に真実を知りたいと思った。
あの冗談好きの母であったが、死の間際になって冗談を言う事などないのではないか。
あの時、母はこれまで抱えて来た胸の中の苦悩を、その弱りはてた意識の中で抱えている事が出来なくなり、思わず真実を漏らしていたのではないか。
私は一人になると、母が残していったあらゆる物に付いて丹念に調べ始めた。
生前に父が使っていたという部屋の、手の付けられないままに残されていた数々の物品に付いても細かく調べていった。
調べは数カ月続いた。
それでも、母の最期の言葉を裏付けるような証拠のものは何一つ発見されなかった。
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桂蓮様
お身体の調子の悪い中 コメント
有難う御座います どうぞ 御無理をなさいませんように
お二方共々の災難 悪い事は重なりますね
もっとも、一人が罹患すればどうしても移してしまう可能性は強くなりますよね
寒さの厳しくなる中 体調の不良は一層応えますものね
どうぞ お大事にして下さい
旧作 逍遙していて 本場のハロウィーン体験
に出合いました 初めて眼にする記事です
今の季節の行事 楽しく読ませて戴きました
なんだか 読んでいるだけで情景が浮んで来て 浮き浮きして来ます
アメリカでの楽しい年に一度の行事でしょうが
過去には日本人の少年の悲劇的な出来事がありました
楽しい行事が楽しいままに何時も 何処でも
みんながハッピーに終わって欲しいものです
楽しい季節の行事 その喜びに素直に身を委ねる
自然に逆らわない それも禅の教えの一つ
坐禅ばかりが禅ではないので それもまた良いのではないでしょうか
有難う御座いました
どうぞ御無理をなさいませんよう
お願い致します
takeziisan様
有難う御座います
寒さの増して来たこの頃 ちょっと散歩も厳しく 億
劫になりなりますね そんな中 9000歩 敬服です
まだまだお元気な証拠
過ぎ行く時の速さ・・・この間 暑い暑いと思っていたら
もう冬鳥の季節 去年も眼にした馴染の光景 正に
光陰矢の如し です
金時宿り石 支えているように見えるのは木の根 ?
林の中の小道 いいですね
思い出の旅 甦る旅の記憶は気持ちを暖かく包み込んでくれます
わたくしもテレビの画面などで過去に見た光景を眼にすると
ああ そうだったなあ などと旅の記憶を懐かしんだりしています
何にしても 人生の時を積み重ねて来た人間に取っては
思い出は心の宝物ですね
川柳 相変わらず そうだ そうだ と納得
みなさんお上手です
ハバヤマボクチ 初めて知りました
方言は相変わらず暖かい 何故 南より北の方言に暖かさを感じるのでしょうか
きっと 寒さを耐える人々の心の暖かさが含まれているのかも知れません
ドリカム わたくしは全く興味がありませんが
良いお話しを拝見出来ました 気持ちが温もります
今回も美しい写真の数々 楽しませて戴きました
毎回 わたくしの退屈な文章にお眼をお通し戴く事への感謝と共に
御礼申し上げます