田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『女王蜂』

2020-06-09 07:11:56 | 映画いろいろ

『女王蜂』(78)(1990.2.3.)

 大道寺家の美しい娘・智子(中井貴恵)は、故郷の天城・月琴の里を離れ、京都へ行くことが決まっていた。そんな折「智子に群がる男の命は脅かされるであろう」という警告状が届き、求婚者が次々と殺されていく。

 最近、改めて市川崑の多種多様な映画作りに注目し始め、そのターニングポイントになったであろう、この金田一耕助シリーズを見直してみる必要があると思っていた。

 ところで、この映画には前3作の犯人たちが総登場し、見方によっては市川はこの映画で終わりにしたかったのでは? という推測も成り立つのだが、この後、もう一本『病院坂の首縊りの家』(79)を撮っている。確かに、この映画では金田一に対する収拾がついていない気もする。

 それにしても、おどろおどろしい殺人が頻発し、しかも金田一は、名探偵と言われる割にはそれを全く阻止できないという妙なキャラクターなのに、見終わった後は、もの悲しさや金田一の温かさが心に残るのは何故なのだろう。

 それは、市川の語り口のうまさや映像美、そして単純な探偵推理物では終わらせまいとする奥行きの広さにあると思われる。それが、救いや哀感のある見事なラストシーンによって、全てをチャラにしてしまうという、シリーズ共通の流れにもつながるのだ。

 先日、同じく市川が夏目漱石の『こころ』(55)を映画化したものを見たのだが、その際、心理的な三角関係劇の処理の仕方が、案外この映画と似ていることに気付いた。映画監督の視点は昔も今もそうは変わらないということか。

市川崑は文芸映画の監督でもあった
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/1c70eff55ee456f1dbeebf39ec5e6913

『犬神家の一族』(06)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/3033ad2cec53eb56caddd62e47b2c6fc

『悪魔の手毬唄』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/ec9fb83472c55e021cdef8deab2dde79

『獄門島』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/eb3c5f7a42c20f26773af1eda96edeb7

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