「淋しいのはお前だけじゃない」(82)(1982.6.4.)
「港町純情シネマ」の名コンビ、脚本・市川森一、主演・西田敏行の復活である。前作は映画に対する思い入れやパロディに満ちあふれていたが、今回は旅芸人あるいは大衆演劇に対するものになっている。
相変わらず見事な味を出す沼田薫役の西田敏行をはじめ、多彩な出演者が楽しませてくれるし、いかにも現代的なサラ金地獄を描きながら、どのように大衆演劇への思いを絡めていくのか、とても興味深いものがある。
最終回(1982.8.27.)
最近、唯一見続けていたドラマが終わってしまった。旅芸人あるいは大衆演劇に対する思い入れに、サラ金地獄という現代的な悲劇を盛り込み、現実と夢の世界が交錯する市川森一独自の世界が展開していく。
前作の映画同様、毎回、実に見事にドラマと大衆演劇を組み合わせるものだから、見ているわれわれはあぜんとするばかり。
タイトル通りに、ただ借金に追われているというつながりだけの、バラバラな者たちが、寄り集まって、助け合いながら、連帯感を持つまでになっていくところが実にいい。
仕事や生活に追われ、生きがいなど考えられない現代人の典型を描きながら、その一方で、夢のような役者としての生活を描くという展開が功を奏している。
山田太一ほどリアルではなく、倉本聰ほどの癖もないが、市川森一の独特の世界も、彼らに勝るとも劣らない。
現代は、人間らしく生きるにはあまりにもつらい世の中。従って、誰もが多かれ少なかれ寂しい思いをしているはずだ。それでも生きていかねばならないのだから、なるほど、淋しいのは俺だけじゃないか。
「サンキュー先生」(80~81)(1980.9.8.)
金八先生(武田鉄矢)、熱中先生(水谷豊)に続いて、西田敏行のサンキュー(産休)石松鈍器先生が登場。とにかくこの人が出てくると、何ともいえないいい雰囲気が醸し出され、ドラマの内容よりもこの人の個性に圧倒される。
まだ始まったばかりなので、今後の展開は分からないが、今の小学生はこんなに陰険ないじめ方をするのかと目を疑ってしまう。恐らく、この陰険ないじめっ子たちがサンキュー先生によって変わっていくのだろう。
あのニヒルな成田三樹夫が「探偵物語」にも増して三枚目ぶりを披露している。脚本・池田一朗。
最終回(1981.3.23.)
短い間だったが、西田敏行演じる石松鈍器先生に、いろいろなことを教えられた。あの陰険だったデブの近藤をはじめとする生徒たちが変化していく姿は、ドラマの中だけで終わってほしくない。校内暴力など、こんな教師がいれば起こり得ないと思うからだ。生徒と本気でぶつかり、悩みながらともに成長していく。それが教師本来の姿ではないのか。
きっと今の教師たちは、このドラマの校長(藤岡琢也)や教頭(成田三樹夫)のような態度で生徒たちと接しているのではないのか。石松先生のような教師が珍しいもの、ドラマの中でのこととしか映らないようでは、いつまでたっても校内暴力などなくなりはしないだろう。
「港町純情シネマ」(80)(1980.5.28.)
市川森一脚本の何とも楽しみなドラマが始まった。毎回ドラマの中に、照れも恥じらいもなく堂々と映画のパロディがあふれる(『地獄の黙示録』『トム・ホーン』『影武者』『復活の日』…)。
出演者は、主人公・猿田禄郎役の西田敏行、父親役の室田日出男、妹役の森下愛子の珍妙な親子、木の実ナナのホステス、岸部一徳のキャバレーの店長兼痴漢、柴俊夫のやくざ、伊藤蘭のモギリ嬢、北林谷栄のいつものおばあちゃん、原保美の映画狂のセールスマン…。
皆適役であり、妙演を披露する。これからどんなパロディが飛び出すのか、楽しみで仕方がない。
【後記】室田日出男が今度は大麻で捕まった。前の「祭りばやしが聞こえる」や「黄金の日日」のように、このドラマからも消されてしまうのだろう。何とも残念だ。
「池中玄太80キロ」(80)(1980.5.26.)
西田敏行主演のアットホームコメディ。編集長役の長門裕之や同僚カメラマン役の三浦洋一、坂口良子らとのコミカルなやり取りや、血のつながらない子どもたちとのちぐはぐさが、何ともいえないいい味になっている。
毎回、後半にちょっとホロリとさせる場面が用意されており、その辺りに、かつて石立鉄男主演の一連のホームドラマを手掛けた松木ひろしの脚本のうまさが出ている。
「池中玄太80キロパートⅡ」(81)(1981.8.29.)
ついに玄太が終わってしまった。最近テレビ離れのきらいがある自分にとって、唯一毎週欠かさず見ていたドラマだった。前作の気を持たせた終わり方からして、きっと続編ができるだろうとは思っていたが、まさかこれほど夢中になるとは思ってもみなかった。
とにかく西田敏行が素晴らしいのである。そのがむしゃらぶり、ユーモアとペーソス、彼の人柄もあるのだろうが、何とも温かいのである。それに加え、長門裕之、三浦洋一、坂口良子、三人の娘たちから脇の脇に至るまで、皆愛すべき人物なのだからどうしょうもない。
実際、血もつながっていない子どもを三人も実の親以上の愛情を持って育てるというストーリーは現実離れをしているのだが、その中から親子というものについて改めて考えさせられた。
特に深刻ぶるわけでもなく、笑っているうちに、ふと、こんなことは俺んちにもあるなあという感じなのである。一見、ドタバタと落ち着きのないドラマのように見えるが、テーマがしっかりしていたということなのだろう。
また、玄太が特にかっこいいわけでもなく、ドジで無類のお人好しで、今時天然記念物みたいなやつだから、どうしても毎週見守ってやりたいような気にさせられてしまったのだ。
そして、味気ない毎日を送っている自分にとって、この土曜の夜9時という時間だけは、穏やかな気分でいられたような気がする。玄太が終わって確実に楽しみが一つ減ってしまった。
『ペギー・スーの結婚』(86)(1988.1.22.)
ペギー・スー(キャスリーン・ターナー)は、高校時代に出会った夫・チャーリー(ニコラス・ケイジ)の浮気が原因で、今は別居生活を送っている。
ある日、彼女は高校の同窓会でクイーンに選ばれ、興奮のあまり卒倒、25年前にタイムスリップしてしまう。心は大人のまま高校生に戻ったペギー・スーは青春をやり直そうとするが…。
フランシス・フォード・コッポラ監督のロマンチックでハートウォームなファンタジー。モチーフはバディ・ホリーの同名曲。ジョン・バリーの音楽が美しい。ただターナーが現在と過去のペギー・スーを熱演しているが、さすがにティーンエイジャー役は少々無理があった気がする。
この映画は、コッポラ版の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)と宣伝されているが、やはりコッポラはスティーブン・スピルバーグやロバート・ゼメキスとは違うと感じた。
それは“大人の目”でタイムスリップものと取り組んでいる点で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ほど面白くはないが、その代わり心に残るものがある。
誰もが、今の記憶を持ちながらちょっと昔に戻れたら、もう少しましな人生が送れるかもしれないという、実現しない願望を抱いている。けれども、例えその願望がかなえられたとしても、人は果たしてもう一度初めから人生をやり直すのだろうか。未来を幸福にすることはできるのだろうか。この映画は、そんな疑問を問い掛ける。だから、主人公が本当にタイムスリップしたのかも曖昧に描かれている。
今の自分は、過去の積み重ねや選択によって存在しているのに、あの時ああしていれば…と悔いがちだ。だが、例え過去に戻れたとしても、結局は同じような選択をし、そう代わり映えのしない人生を送るのではないか。ならば過去は過去として、未来をより良い方向に向けていくことが大切なのではないか。それがこの映画のテーマである。
と、ここまで書いてきて、これはコッポラ自身にも当てはまるのではと思えてきた。『カンバセーション…盗聴…』(73)『ゴッドファーザー』2部作で頂点を極め、『地獄の黙示録』(79)でおかしくなり、以後は必死になって元の自分に戻ろうとあがいている姿は、この映画のペギー・スーと重なるところがあるからだ。
【今の一言】結局この後もコッポラは“完全復活”とはならなかったと思う。
社会への反逆者、民衆の代弁者として祭り上げられたジョーカー(ホアキン・フェニックス)。そんな彼の前にリー(レディー・ガガ)という謎めいた女性が現れる。ジョーカーの狂乱はリーへ、そして群衆へと伝播拡散し、世界を巻き込む新たな事件が起こる。
ジョーカーの誕生秘話を描き高い評価を得たサスペンスエンターテインメント『ジョーカー』の続編である『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が、10月11日から全国公開された。本作の日本語吹き替え版でハービー検事(ハリー・ローティー)の声を担当した山田裕貴に話を聞いた。
「ジョーカーのことを考えている時点で、もう彼の思うつぼです」https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/1450290
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/fd8e6392378e8e411537f6c9cb1afc50
「玉森くんのクズぶりがカッコいい」
「奈緒ちゃんに癒やされた」
共同通信発行の子どもと大人のウェルビーイングなくらしを応援するフリーマガジン「HABATAKE」。
7号のインタビューは、『十一人の賊軍』の鞘師里保。
「名探偵・祝左右馬の誕生」
「鈴鹿央士と松本穂香が新鮮かついいバディに」