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☆富岡製糸場が世界遺産に内定☆
明治生まれの建造物の内定報告なのだから感動するぞ。
ひいおばあさんたちが女工として
一生懸命働いていた職場の遺構なのであります。
仕事と職場を考える、ということで
特別バーションの就活ポインターをどうぞ。
★★★定期更新は★★★
原則週2回(水・日)+増刊で予定です。
連休も近い4月後半。
★★★☆☆☆☆★★☆☆
■明治の精神
富岡製糸場が世界遺産に内定したよ。
※※※
世界文化遺産への登録を目指している群馬県の「富岡製糸場」について、ユネスコの諮問機関は「世界遺産に登録することがふさわしい」とする勧告をまとめ、ことし6月にも世界遺産に登録される見通しとなりました。
富岡製糸場は明治5年、日本で最初の官営の製糸場として建てられました。
当時、明治政府は「殖産興業」を目指す国家プロジェクトを進めていて、生糸の生産が盛んな群馬県の富岡地区にその中心となる施設を建てたのです。
木の枠組みにレンガを積み上げるという日本と西洋の建築技術を融合させた造りで、建設費は現在の価格で計算すると33億円と推定されています。
製糸場には若い女性が全国から集まり住み込みで働きました。
女性たちによって生産された高い品質の生糸は外貨を稼ぐ貴重な輸出品となりました。
※※※
NHKニュースWeb2014.4.26より
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140426/k10014047271000.html
明治時代の女性たちが女工として働いた
この時代の職業意識の特徴を考えてみよう。
司馬遼太郎の言葉からどうぞ。
※※※
庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害者意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。
しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。
その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。
(中略)
明治は、極端な官僚国家時代である。
国家は小さい。政府も小世帯であり、その町工場のように小さい国家のなかで、部分部分の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。
この時代のあかるさは、こういうオプティミズム(楽天主義)からきているのであろう。
※※※
司馬遼太郎「坂の上の雲」あとがき一より(文春文庫版)
明治の職業選択はこういうものだったらしい。
そういう仕事の息吹を感じる建物であります。
■明治の姿を守る仕事
今回の“内定”をささえた仕事にも注目しよう。
※※※
ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」から「登録勧告」を引き出した一因は、明治初期に建てられた主要建物がほぼ完全な形で残っていたからだ。
同製糸場は1872年(明治5年)明治政府の官営工場として建てられた。93年(同26年)に三井家に払い下げられて民営化。1939年から片倉工業(本社・東京都)が製糸業の運営に加わり、87年に操業を停止した。
明治期の姿が残ったのは、操業停止当時の柳沢春夫社長が掲げた「売らない、貸さない、壊さない」の3原則があった。
一般公開されていなかった製糸場に、社員3人を配置し、建物の修繕や敷地内の草刈りなどを続けた。維持管理費は年間約1億円。2005年に富岡市に移管されるまで、維持管理か続けられた。
※※※
読売新聞2014.4.27記事
明治の近代化を支えた仕事も、その仕事の遺構を伝えようとした仕事も
今回の内定につながっております。
富岡製糸場(2007年撮影)
■職場という建築物
富岡製糸場は建築史的な意味でも貴重な近代化遺産です。
※※※
明治時代は、我が国が門戸を世界に開いて欧米の文物と制度を取り入れ、それを同化して近代日本の基盤を築いた時代で、飛鳥・奈良と並んで、我が国の文化史上極めて重要な位置を占めている。
明治建築も従って江戸時代から継承した優れた木造建築の伝統と蓄積の上に、新たに欧米の様式・技術・材料を取り入れ、石造・煉瓦造の洋風建築を導入し、産業革命の進行に伴って鉄・セメント・ガラスを用いる近代建築の素地を築いた。
これらの建築のうち、芸術上、歴史上価値あるものも、震災・戦災などで多く失われ、ことに戦後の産業の高度成長によって生じた、大小の公私開発事業により、少なからず姿を消していった。
※※※
博物館「明治村」公式サイトより
http://www.meijimura.com/about/outline/
富岡製糸場の建物には、そこで働いた多くの従業員・女工たちの
仕事と生活の感情の記憶が染み込まれているのです。
その場所を眺めることで、建物に染み込まれた感情を追体験することは
明治の精神を学び、つぎの時代づくりに活かすことにつながるようです。
※※※
建設当初の目的を終え、今は役割が替わったとはいえ、その姿を今日までとどめ、行き続けている洋館を永くあたたかい目で見守っていくことが20世紀に生まれ、21世紀に生きるわれわれに課せられた重大な責務である。
※※※
高井潔「日本の名景~洋館」光村推古書院 2001年
・・・・・建物が人間になる(シュタイナー 1861-1925)・・・・・
当ブログで時折紹介している教育哲学者のシュタイナーは
教育学以外に建築の分野でも活躍しました。
「建物が人間になる」という彼の言葉があります。
※※※
自己認識には、あらゆる世界領域からの合流として人間の姿にはめ込まれるが、本来はこの流れが自己で意識し、体験したことによって現れる限りにおいては、人間である。
『建物が人間になる』という言葉は、シュタイナーが新たに芸術的に展開された、あらゆる建築に向けられねばならないモットーとして表現したことなのである。
※※※
ペーター・フェルガー他「シュタイナーと建築」中村静夫訳 集文社1985年
数十年後に世界遺産になりうるほどの
歴史的な価値のある
仕事をしたいと思わないかな?
むしろそういう仕事をこそ選択したいものだ。
今現在はそう思えない仕事であっても
未来から見れば価値が認められる仕事だってあるのだから。
またね。
2014.4.27
★★★定期更新は★★★
原則週2回(水・日)+増刊で予定です。
連休も近い4月後半。
★★★☆☆☆☆★★☆☆
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☆富岡製糸場が世界遺産に内定☆
明治生まれの建造物の内定報告なのだから感動するぞ。
ひいおばあさんたちが女工として
一生懸命働いていた職場の遺構なのであります。
仕事と職場を考える、ということで
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原則週2回(水・日)+増刊で予定です。
連休も近い4月後半。
★★★☆☆☆☆★★☆☆
■明治の精神
富岡製糸場が世界遺産に内定したよ。
※※※
世界文化遺産への登録を目指している群馬県の「富岡製糸場」について、ユネスコの諮問機関は「世界遺産に登録することがふさわしい」とする勧告をまとめ、ことし6月にも世界遺産に登録される見通しとなりました。
富岡製糸場は明治5年、日本で最初の官営の製糸場として建てられました。
当時、明治政府は「殖産興業」を目指す国家プロジェクトを進めていて、生糸の生産が盛んな群馬県の富岡地区にその中心となる施設を建てたのです。
木の枠組みにレンガを積み上げるという日本と西洋の建築技術を融合させた造りで、建設費は現在の価格で計算すると33億円と推定されています。
製糸場には若い女性が全国から集まり住み込みで働きました。
女性たちによって生産された高い品質の生糸は外貨を稼ぐ貴重な輸出品となりました。
※※※
NHKニュースWeb2014.4.26より
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140426/k10014047271000.html
明治時代の女性たちが女工として働いた
この時代の職業意識の特徴を考えてみよう。
司馬遼太郎の言葉からどうぞ。
※※※
庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害者意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。
しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。
その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。
(中略)
明治は、極端な官僚国家時代である。
国家は小さい。政府も小世帯であり、その町工場のように小さい国家のなかで、部分部分の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。
この時代のあかるさは、こういうオプティミズム(楽天主義)からきているのであろう。
※※※
司馬遼太郎「坂の上の雲」あとがき一より(文春文庫版)
明治の職業選択はこういうものだったらしい。
そういう仕事の息吹を感じる建物であります。
■明治の姿を守る仕事
今回の“内定”をささえた仕事にも注目しよう。
※※※
ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」から「登録勧告」を引き出した一因は、明治初期に建てられた主要建物がほぼ完全な形で残っていたからだ。
同製糸場は1872年(明治5年)明治政府の官営工場として建てられた。93年(同26年)に三井家に払い下げられて民営化。1939年から片倉工業(本社・東京都)が製糸業の運営に加わり、87年に操業を停止した。
明治期の姿が残ったのは、操業停止当時の柳沢春夫社長が掲げた「売らない、貸さない、壊さない」の3原則があった。
一般公開されていなかった製糸場に、社員3人を配置し、建物の修繕や敷地内の草刈りなどを続けた。維持管理費は年間約1億円。2005年に富岡市に移管されるまで、維持管理か続けられた。
※※※
読売新聞2014.4.27記事
明治の近代化を支えた仕事も、その仕事の遺構を伝えようとした仕事も
今回の内定につながっております。
富岡製糸場(2007年撮影)
■職場という建築物
富岡製糸場は建築史的な意味でも貴重な近代化遺産です。
※※※
明治時代は、我が国が門戸を世界に開いて欧米の文物と制度を取り入れ、それを同化して近代日本の基盤を築いた時代で、飛鳥・奈良と並んで、我が国の文化史上極めて重要な位置を占めている。
明治建築も従って江戸時代から継承した優れた木造建築の伝統と蓄積の上に、新たに欧米の様式・技術・材料を取り入れ、石造・煉瓦造の洋風建築を導入し、産業革命の進行に伴って鉄・セメント・ガラスを用いる近代建築の素地を築いた。
これらの建築のうち、芸術上、歴史上価値あるものも、震災・戦災などで多く失われ、ことに戦後の産業の高度成長によって生じた、大小の公私開発事業により、少なからず姿を消していった。
※※※
博物館「明治村」公式サイトより
http://www.meijimura.com/about/outline/
富岡製糸場の建物には、そこで働いた多くの従業員・女工たちの
仕事と生活の感情の記憶が染み込まれているのです。
その場所を眺めることで、建物に染み込まれた感情を追体験することは
明治の精神を学び、つぎの時代づくりに活かすことにつながるようです。
※※※
建設当初の目的を終え、今は役割が替わったとはいえ、その姿を今日までとどめ、行き続けている洋館を永くあたたかい目で見守っていくことが20世紀に生まれ、21世紀に生きるわれわれに課せられた重大な責務である。
※※※
高井潔「日本の名景~洋館」光村推古書院 2001年
・・・・・建物が人間になる(シュタイナー 1861-1925)・・・・・
当ブログで時折紹介している教育哲学者のシュタイナーは
教育学以外に建築の分野でも活躍しました。
「建物が人間になる」という彼の言葉があります。
※※※
自己認識には、あらゆる世界領域からの合流として人間の姿にはめ込まれるが、本来はこの流れが自己で意識し、体験したことによって現れる限りにおいては、人間である。
『建物が人間になる』という言葉は、シュタイナーが新たに芸術的に展開された、あらゆる建築に向けられねばならないモットーとして表現したことなのである。
※※※
ペーター・フェルガー他「シュタイナーと建築」中村静夫訳 集文社1985年
数十年後に世界遺産になりうるほどの
歴史的な価値のある
仕事をしたいと思わないかな?
むしろそういう仕事をこそ選択したいものだ。
今現在はそう思えない仕事であっても
未来から見れば価値が認められる仕事だってあるのだから。
またね。
2014.4.27
★★★定期更新は★★★
原則週2回(水・日)+増刊で予定です。
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