かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

「麦踏み」の思い出。

2016-12-14 | 気ままなる日々の記録

     オソマツ君は唱和11年(D.C;1936)の生まれである。

 第二次世界大戦の開戦、B29による空襲、

 昭和20年の敗戦、

 戦後の食糧難、

  続いての大インフレ、

 闇市や砂糖を始めとするあらゆるものの配給、

 など日本の苦難の歴史を何とか体験した世代である。

    オソマツ君の家は幸運にも江戸時代から続く小地主兼小自作農家で   あったので    

食糧難の直接の被害者ではなかった。ただ、

農作業の手伝いはよくした。

  日本の農業はヨーロッパやアメリカの農業と違って徹底した二毛作であった。

背景にあったのは明らかに人口に対する農地不足だった。

10月の終わりにさつまいもを掘り上げその後へ麦を蒔く。

麦は寒さに強い植物で、1月ごろには3~4センチに伸びている。

其れを踏み倒すことを「麦踏み」と云った。

これが、子供の仕事であった。1月下旬伊吹颪の寒い風が吹く中で、

毛糸で編んだ目出し帽を冠り右足の親指に左足の下窩(かがと)がくっつく  ようにして歩き麦を踏み倒すのだ。こうすることによって①麦の株分けを促進し、茅が伸びすぎるのを抑え、収穫量の増加を図った。

大人が踏むと体重が重すぎて根の部分を硬くするおそれがあるとかで、

 小学校高学年ぐらいの子どもが最適だった。寒風の中、両腕を腰に回し て丁寧に麦踏みをしたものだ。

 最初の10分くらいは楽しいがやがて、いやになるのは、どの仕事も同じだ。

厭になってくると仕事が綺麗でなくなる。

すると母がよく、「よく見て、踏み残しがないよう、

もっときれいな仕事をしなさい」と小言を言った。

  今ここの三階の窓から農地を見ていると、その中に子供の時の自分がいる ような錯覚に陥る。

 しかし、最近はこの「麦踏み」はしないようだ。(T)

  

       12月の農作業

 

 


『ああ、面白かった!」に変えて。

2016-12-13 | 気ままなる日々の記録

  読売新聞の広告によると、佐藤愛子さんが『ああ面白かった。と云って死にたい』というエッセイ集を出され、よく売れているらしい。

 じゃあオソマツ君は何と言って死にたいか、と考えた。

 すぐ思いついたのが「お先に失礼、」だ。そして相手によっては「向こうでまってるぞ!」と付け加える。思えば葬儀というのはお別れ式だ。そこで、葬儀に来た人に「いろいろありがとうございました。お先に失礼します。向こうで待っています」ということにすれば、葬式には誰も来なくなる。

 つまり葬式は不要でまあ家族葬で十分と云うことになる。あまり真面目な仏教徒でもなかった人が仏教徒のような葬儀をするのも、どこか変だ。

 そうかといって、神式の葬儀は知らないし、

 兎に角、日本人はこれらのことについては、極めてルーズである。

(追記》佐藤愛子氏について。1929年作家佐藤紅緑の次女として生まれる。異母兄にサトウハチロー。(T)


懐メロにハマりました。

2016-12-13 | 気ままなる日々の記録

  1936年生まれのオソマツ君は我が国の戦前戦中戦後の雰囲気を知っている最後の世代だろう。最近インターネットのユーチュウブで子どものとき聞いた流行歌を検索して、懐かしさに浸って聞くことに嵌っています。「異国の丘」「麦と兵隊」「シベリヤ・エレジー」等々です。

「ああそうだった!」と引き込まれ、温泉に浸かったように聞き入っています。改めて聞くと歌詞といい、曲と云い本当によくできています。「シベリヤ・エレジー」など、満州で敗戦となって、ロシヤ兵に拉致されて極寒の地で農地開発の仕事をさせられた日本の陸軍の兵士たちの心情を見事に歌い上げていると思われ目頭が熱くなります。(T)

    

          12月のイベント   ハンドベル

    

 


神々しい御嶽山。

2016-12-12 | 気ままなる日々の記録

  明け方は本当に寒くなった。午前5時頃だ。オソマツ君の場合決まったこの頃トイレに立ち、「おお寒い!」と身震いする。

  この瞬間は血圧が急上昇するので、こんなことを繰り返していると、右脳視床下部で再出血が起きる可能性がある。良くないが、地球の公転によって起こる四季の変化は止められない。

 気象情報によると移動性高気圧が日本海側から東北地方の太平洋側に抜けるので寒冷前線も日本海側から太平洋側に移動するそうだ。つまり昨夜スノー前線が日本列島を横切った。

 今朝れいの「館内散歩」と称して3階から5階をうろうろして窓外の景色を楽しんだが、断然目を引いたのは白銀に輝いた御嶽山であった。

  神々しいとは、このことのための言葉だと思われたほど白銀の山容が脳裏に焼き付いた。

 御嶽山は木曽川の母親である。木曽川流域犬山から一宮→津島→蟹江までの広大な水田に水を届け米を実らせてくれる正に母乳だ。

  端的に云えば濃尾平野の水田の母乳こそが御嶽山に降り積もった雪である。神々しく輝くのも当然だと思えた。

 御嶽山全体は木曾檜の産地である。江戸時代名古屋城築城のために犬山の少し上から名古屋市内まで、堀川を通し木曾の檜を名古屋まで運んだ。戦後は世界銀行から莫大なお金を借りて「愛知用水」を掘削

 知多半島の先まで木曾の水を運んだ。江南市北部は木津用水だが、これも犬山城の下から木曽川の水を取り込んだものだ。愛知用水は名古屋市民の水道に水を供給していると聞いた。

 それらの水が今雪となって霊峰御嶽に降り積もっている。神々しいのも当然だ。オソマツ君は白銀に輝く御嶽山に手を合わせた。

(追記1)白銀に輝く神々しい山容を目にし、大自然への感謝の気持ちが湧いて来た時我々日本人はどのようにすればいいのだろう?

 僕の祖父は何やら沢山神様の名を云って、柏手を打って額を合わせた両手に付けて感謝の言葉を述べていた。その後、柏手を打って何か大声で唱えていた。

(追記2)休火山だった御嶽山が数年前突然噴煙を上げ始めた。江戸時代から御嶽山は信仰の山で、村々に御嶽講と云う教会のような信者が集まる場所があった。

 山伏のような装束の御師(おし)が信者を連れてこの山に登っていた。

 オソマツ君が登った時も山頂の神社の前に信者と御師がグループを作って大勢登っておられた。

 特に、中央に子供を抱いた母親らしき女性がうずくまっていてそれを取り囲んで大勢の白装束の御師が団扇のような太鼓を叩き「ほら貝」のような笛を吹いて御嶽山の神に祈りを捧げていた。その時の様子は異様で、「神がかった」というのでしょうか、今もはっきりと思いだすことができます。(T)


訃報のシーズン

2016-12-10 | 気ままなる日々の記録

  今年は例年になく多くの方々から訃報のはがきを戴いた。

  中でも印象に残るのが二つある。一つは親友のご主人からのもので印刷された文面の終わりに二行の添え書きがついていた。これが、ご主人の心情をとてもよく表していて読んで胸が熱くなるおもいであった。もう一つはニューヨークの30年の付き合いがある友からのものである。妹さんがなくなり地方の新聞に載せた訃報のコピーを送ってきた。これが長くて長くてまるで弔辞を読んでいるようであった。

 死亡の報告は日本と変わりないが、出生から始まって学歴のこと仕事のこと社会への貢献、趣味等々。残された遺族については、五人の従妹の名前まで連なっている。

 最期に本人の要望で葬儀は行わないが、キャンドルを好んだ本人のために、キャンドルを灯して彼女を忍んで欲しい、が結びとなっている。

 初めての経験なのでこれが当たり前なのかどうかもよく分からない。

2週間後に迫っているクリスマスや新年のあいさつ状も送っていいものかどうか、とりあえずお悔やみの手紙だけは出したが他に何をしたらよいかも分からない。

 文化・習慣の違いとはまさしくこのこと。(E)

   

         冬の夜明け


ああ[12月8日」

2016-12-08 | 気ままなる日々の記録

「臨時ニュースを申し上げます。帝国陸海軍部発表・「帝国陸海軍は本日未明東太平洋上において米英陸海軍と戦闘状態に入れり」

 オソマツ君は子供の頃ラジオから流された上の放送を何度も聞いた記憶がある。5歳のときである。其れまでに中国での戦争ニュースをきいていたので、大砲を打ち合うけんかのことと、理解していた。

 その後少年雑誌で大きな戦艦が描かれその近くに水柱が立った絵がよくみられるようになった。

 その後、間もなく県北部でも空襲があるようになり

竹藪の下に掘られた「防空壕に子供だけで入れられ、1本の蝋燭の火を囲んで朝を待った記憶がよみがえる。

大人たちはバケツに水を汲みたくさん並べて(当時は水道もなく、掘り抜き井戸からポンプでガチャガチャ水を汲んでいた)、もし焼夷弾が落ちて家が燃え始めたら初期消火に備えていた。

 夏の穴の中には蚊が多く、体中喰われて痒くなった記憶がある。

 それから数か月後、近くの飛行場が爆撃を受けた時や名古屋城が炎上したときの記憶もはっきりと残っている。

 それなのにNHKのニュースでも新聞でも第二次世界大戦勃発についてあまりふれていないのに強烈な違和感を持っている。

 日本人は忘れやすいのか、若い人たちは知らないので触れたくないのか、      

歴史や政治についてじっくりと考えることが嫌いなのか、はなはだ心もとない。オソマツ君は、

今日にちなんで、「文春新書「大人のための昭和史入門」を読み始めた。

最低限どういう状況で誰の判断で真珠湾攻撃を行ったのかとおもって。2.26事件や5.15事件など、不吉な事件は多発していたが、

政治はそこで、適格な判断が出来なかったきらいがある。

 エリート軍人がテロに走った病理を政治は正しく処理できず、禍根を残したまま放置し、傷を深めた。日本人はどうも、大局的観点で判断し世界の動向が理解できず、

すぐに派閥をつくり派閥の論理に溺れる傾向が強いようだ。

 今年の冬は昭和史に夢中になりそうだ。(T)

 


ああ、早3周年を迎えました。

2016-12-07 | 気ままなる日々の記録

  オソマツ君が、「右脳視床下部内出血により左半身不随になり救急車のお世話になったのが、平成25年12月25日、この日が命日と云え無くもない。そして、「石の上にも3年」の3年が過ぎて、4年目に入ろうとしている。

  この不幸は突然やってきて、生活を一変させた。冬は毎年スキーを楽しみ、友人たちと信州へいっていた。

勿論家内も一緒だった。それ以外は、当時流行の兆しのあった「フライト&レンタル」に夢中になり、ニュージーランドやオーストラリヤへ出かけていた。

フライト&レンタル」というのは、海外旅行で到着地の空港で自動車をレンタルしてその国の目的地にはレンタカーで行くというものである。

 ニュージーランドの良さは治安がよく、生活レベルは高く何処へ行っても衛生的でそのうえ親日的だという点である。

問題は英会話力であるが、日本人は英会話ができないと劣等感を持つが、そんな意識は日本人だけである。

 英語が母国語でなければできないのは当たり前で、「君は日本語を話せるか?」と聞くぐらいの度胸があっていい。

 

 ニュージーランドで「日本から来た」と云うと、

「我が家の冷蔵庫は、日立だ」とか、「エアコンはナショナルだ」と云ってくれる。そのうえ「日本製は故障が少ない」とさえ言ってくれる人がいるくらいだ。

 ニュージーランドは景色がいい。美しい湖水が多い国である。

林の木陰で恋人たちが抱き合っていて、ビックリしてそーっと立ち去った経験も多い。

  オーストラリアにもよく行った。砂漠の中に道幅の広い国道が走っていて、そこを時速120キロぐらいで走る。

オーストラリアは大きな国で国内の移動も飛行機が主だが、レンタカーもよい。この国の南西のあたりに「パース」と云う都市がある。ここに滞在したことがある。インド洋に面した街で、この街のあたりは葡萄酒の産地でもある。

 

砂浜にシートを敷いてインド洋の彼方に沈む太陽を見ながらワインを楽しんだのも忘れられない。

現地の老人がサーフボードを抱えながら通ったのでワインを勧めたら喜んで、「ワインはオーストラリア産に限る。フランスよりドイツより美味しい」というので、「僕もそう思う」と云ってやったら喜んだ。

追記①ニュージーランドで感動したことは南十字星が真上に見えることであった・日本だと南側の地平線に架かってクッキリと見えない。

追記②ニュージーランドと云えばマウント・クックである。イギリス人の船長クック氏が太平洋の南の端を西進中に白銀に輝く山を見つけその山を見極めようと船を近づけて、ニュージーランドという島を発見したという言い伝えがある山である。富士山より少し低かった記憶だが、ニュージーランドを代表する山で白銀に輝く美しい山容である。

 考えてみれば楽しい想い出もいっぱいある。(T) 

    散歩道で


オホーツク海高気圧が張り出してきたとかで急に寒くなりました、

2016-12-06 | 気ままなる日々の記録

   現職の頃、希望する生徒を引率して12月24日出発で信州へスキーに出かけていた。

 信州も標高が高い所へ入れば雪の心配はなかったが、初心者が多く、急斜面では、転倒続出で練習にもならない、

緩斜面を選ぶと雪が心配で中止になる。1月下旬になれば、緩斜面でも雪の心配はなかったが、授業がある。

 こんな訳で毎年ハラハラしたものだった。そのうえ12月初旬の寒波でこの辺でも雪が降ったりして「今年は大丈夫だ」と生徒たちが喜んだりしても信州では降雪がなくスキー訓練は中止となる年もあった。

交通手段は名鉄観光バスを使っていたので、現地の雪の状態やリフトの運行状態などを、バス会社が詳しく教えてくれたものだ。

 つまり、12月初旬、ここ愛知県北部はよく雪が降ったものだ。「地球温暖化」かどうかは知らないが、近年今時分雪は降らなくなったと思う。

 最も、ここの理学療法士の方々は「雪はごめんだ!」と力を入れて云っている。車のタイヤがスノーになっていないので、雪の日の朝は早く起きてタイヤの交換をしなければならないという。

 何ということだ、僕等は12月に入れば皆がスノータイヤにしていたものだ。僕なんかスノー&スパイクに履き替え12月になれば何時雪が降ってもOKにしていたものだ。

 思えば、もうスキーもできなくなった。一応これでも生徒を引率していたころはスキーも教えていた。当時はスキーの教え方にドイツ型とスエーデン型があってワイワイいっていたものだ、あの論争もその後どうなったか知らない。(T)

      最近の御嶽山


数日遅れの小春日和。

2016-12-05 | 気ままなる日々の記録

 12月3日は小春日和と呼ぶのにふさわしい風のない暖かい日であった。しかし、厳密には「小春」と云う季節は今年は11月28日で終わっているそうだ。気象予報士が、そうおっしゃっていたが、こんな日をおいて小春日和と云わないのはとても惜しい気がする。NHKのアナウンサーでさえ、今朝の番組で使っておられたので広い意味ではまだ大丈夫なのであろうか。

 そのせいか本日は朝食が済まないうちから、蓮池へ日光浴に行こうという主人の積極的な言葉でスタートした。

 どういう風の吹き回しかとおもっていたら、明け方夢を見たという。子どもたち二人がまだ小さいときに自分が発病した夢を見てその時頑張らなくてはと強くおもったという。目覚めた後もその気力がのこっていて、今日は頑張るというのだ、大変結構なことだが、蓮池の9時前は未だ日差しが弱い。

 10時まで待って出かけた。大勢の人たちが出かけてみえ、本日の蓮池は大賑わい。両足をだしたり、車いすのまま散歩したり、バーに掴まって歩いたりといろいろだ。主人は左足の裏が皮膚病に罹ったのでそれの日光浴もしている。

 たのしい時間はすぐすぎる。気が付いたら40分も経過していた。日差しを浴びた日はぐっすり眠れる。紫外線で骨にもよいし、一石二鳥である。そのうえ気分まで晴れ晴れする。

 今日は、それにもう一つおまけがついた。夢に出てきた子供の一人が(今では50歳ちかいが)関西から見舞いに来てくれた。そして近頃にない楽しい一日となった。(E)

      

             注意報が出た濃霧

 


純粋なる暇人

2016-12-04 | 気ままなる日々の記録

  今日は日曜日、何の予定もない。そうなると、オソマツ君の場合は何処かウキウキして、体まで軽くなる。

毎日が日曜日のような生活をしていてことさら日曜日を喜ぶなんて言うのはよほどの怠け者か、ルーズな性格なのだろう。

こういう時、早速予定を立て、予定通りの1日を終わると充実感を感じる人こそ、

人格が完成していると云えるのだろう。そうだとするとオソマツ君はその正反対の性格だということになる。

それを否定するつもりはない。昼食を終わり、急に思いついて前から気にしていた台風20号の被害に遭った田圃の稲の様子を見に出かけた。

 昨日も晴天だったし、今日は下り坂で、夜には東海地方は雨と云う予報も出ていたので。

 遅くとも今日の午前中には刈取りを済まされたろうと云う予想をたてて、宝くじの当選番号を見る時のようにワクワクしながら3階へ出向きそこの出窓から下を見た。

 刈取りが終わっていた。僕は嬉しくて手を叩きながら見ていた。

 コンバインのワダチもしっかりと残っていて新しい。刈取りは今日の午前中だったかもしれない。

 もう、この田圃のお百姓さんがご病気と云う心配もなくなった。

 収穫としては、滑り込みセーフだったろうと思われる。

自分で勝手に心配事をつくり、ソレガハズレテ大喜びしている自分が恥ずかしい。曰く「これぞ純粋なる暇人」

気持ちが晴れ晴れして、午後は読書にしようとおもっている。

本は、途中まで読んで、まだ沢山読み残しがある。

「それでも日本人は「戦争」を選んだ」加藤陽子著(新潮文庫;税別750円)である。

この本の著者の授業風景はこのブログで以前に取り上げた記憶がある東大の先生である。(T)

     

           小春日和の農作業  さんぽみちで 


鼻炎に振り回されて

2016-12-01 | 気ままなる日々の記録

 一昨日のこと、朝起きた時から、鼻がいつもと違うと感じた。花粉の時期にマスクなしで外を歩いた時のような症状がある。

 何時も、アレルギー性鼻炎の時は、顔をよく洗い鼻シャワーというミストタイプの洗浄液を使う。それだけで、いつもは、完璧なのに、いつまでも、スッキリしない。

 ひょっとしてインフルエンザの初期症状と心配になってきた。冷静に症状を分析してみると、発熱や咳はなく咽の異常も感じない。関節痛や筋肉痛も全然ない。一つだけ予防接種の効果がまだあらわれていないという心配があるが、タミフルの服用もしていることだし、大丈夫と判断した。

 残るは単なる鼻風邪か。以前罹ったとき、気分が悪いので受診をし、薬を処方してもらった。風邪の症状が無くなった頃思わぬ高熱が出た。血液検査を受けたら肝機能障害と云う病名だった。その時、風邪薬でも

肝機能障害を起こすのだと知ってびっくりした。それ以来、風邪の時は薬を飲まないことにしている。

 鼻炎のような症状は夜まで続いた。そして夜。

 私はいつも、就寝の前主人の部屋を確認することにしている。テレビを切ったり温度を調節するためにである。

 8時半ごろ部屋を覗くといつもはねているはずの主人がパソコンをしている。寝る旨を告げると自分も寝るという。長いトイレを待っていると私特有のイライラ病が出てきた。トイレから出てもマスクも布団も自分で掛けようとしない。「どうして最後までキチンとできないの」と自分でも驚くほどの荒々しい声が出てしまった。間の抜けたような主人の「分からない」と云う返事に大喧嘩には至らなかった。そして、彼にとってこの言葉は禁句ではないかと反省した。

 それでもイライラ病は1時間ほど続いた。(E)

       

             ブルーベリーの紅葉