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作:東井義男
物の豊かさが、子どもの心を貧しくすることにならないように、どんなお心くばり、手だてをしてくださっているでしょうか。
思い出すのは、私が小学校にお世話になっていたときのことです。ある朝、朝礼台の上で「おはようございます」の挨拶をすませると、私は、いきなり「痛いだろうか」と言いながら右腕の肘を曲げて見せました。私の意図を汲みかねたのか、子どもたちはみんなキョトンとして無言で私を見ていました。
そのとき、1年生の子が「痛いです」と叫んでくれました。「そう、痛いですね。ではこうしたら?」と言いながら、腕の関節に左手を添えて逆に曲げようとしました。1年生の子が心配そうに「そんなことしたら痛いです。折れてしまいます」と叫んでくれました。
そう、痛いね。折れてしまうね。でも、きのう、校長室の窓から、みんなが帰っていくのを見ていたら、雨上がりの運動場で、こうもり傘を急に振り廻して風を含ませ、傘を朝顔みたいに上向きに開かせ、傘の骨が「痛いよ」「痛いよ」といっているのが聞こえない子がいたよ。
みんなの中には、傘や靴をいじめないばかりか、物のいのちを大事に使っている人がたくさんいるのだが、そういう人は、明日、その宝物を持ってきて見せてくれないかな、と頼んで朝礼台を降りました。
その翌日、みんなで170人余りもの子が、次々に宝物を見せに来てくれるものですから、私は嬉しくなってしまい、先生方に頼んでその展覧会を開いてもらいました。
おじいさん・お父さん・ぼくと大事に使い伝えられてきたという硯。お父さんの子どもの時の弁当箱に、お母さんがマジックで花の絵を描き「これは何万円出しても買えない弁当箱よ」といわれ、弁当給食の日、自慢にして持ってくる女の子の弁当箱。
お母さん・姉さん・私と使い伝えれてきたという下敷きは、破れたところにセロテープがはってありました。 蓋に「さよなら・ありがとう」と書いた紙箱の蓋をとってみると、綿を敷いた上に、1年のときからの使えなくなった短い鉛筆が、ていねいに並べられておりました。
6年生のH君のランドセルには「1年のとき、ぼくにおともして入学したランドセル。2年のころから、ベルトをちぎったりする人もあったのに。3年・4年と、1年1年ランドセルが消えていったのに。だからぼくはちょっぴりはずかしいんだ。でもランドセルのマラソンで次々失格していって、ぼくだけ走り続けていることがはずかしいことだろうかと考え直し、きょうもぼくはランドセルを背負ってきた。やっぱりちょっぴりはずかしいが、もうあと4カ月で卒業。こんなところで失格させては申しわけない。ランドセルよがんばってくれ。ぼくもがんばる」
という詩が添えられていました。
ほんとうに心あたたまる展覧会が生まれ、急に子どもたちが、ものを愛しんでくれるようになりました。