
帰宅したら「留守なので置いておきます。食べてください」と、小さな紙片のメモ書きと一緒に、よく育ったたまねぎの束が玄関においてある。お礼の電話をすると、収穫の帰りに立ち寄られたという。家内は「留守をしていてすみませんでした」と何度も頭を下げる。
先日、知人のブログに収穫された300個のたまねぎの写真とそのときの様子が載っていた。植え付けから収穫まで何度か載せられたたまねぎ、やっとお日様の光が見えたたまねぎ、収穫者以上に喜んでいるように見えた。味もさぞいいことだろう。
ローカルニュースで、たまねぎの機械収穫研修の報道を見た。映像では面白いようにたまねぎが転がり出る。作業は楽に、時間短縮も図れるのではと思うが、眺める農家の方の顔は笑顔ばかりでなく、思案されている姿もあった。機械化を採用するとなると考えることが多くあることが伺えます。たまねぎに似た鳥取砂丘の大規模農場のラッキョウの機械収穫者の笑顔を思い出した。
たまねぎは植えて手をかければ収穫の喜びが味わえる。投稿はできる限りの推敲をしても載るという保証は無い。載るまで分からない。それだけに載れば撒いた種の芽が出たと同じよう年甲斐も無く喜ぶ。それを味わいたくて投稿を続ける。その投稿はわずか数百字、時には天井を見上げながら、あるときは変換キーを繰り返し叩きながら、原点回帰とネタ帖を開きながらと、傍らから眺むれば何してると思われようと、考え考え作っている。それが楽しいのだ。