TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

南九州サイクリングパート '79

2018年09月02日 | SUWV
約40年ぶりに宮崎の日南海岸を旅した。
行程を振り返りブログにまとめていたら、かっての南九州サイクリングのことが懐かしく思い出された。

当時の記録と写真を引っ張り出してあの頃を振り返ってみる。
久しぶりのSUWV記事だ。

あれは大学1年の時の春合宿だった。題して
「南九州サイクリングパート」 1979年 3/19~3/26




3/19

AM4時   Box集合
AM4時半 佐賀駅出発 6人の先輩方が見送りに来てくださった。中には徹夜をして待機されていた方も。絆の強さを感じる。未明のホーム、「ライダースインザスカイ」を歌い盛大に見送ってくださった。
AM11時過ぎ 小林駅着
〇〇ダム(名称が分からない)近くの元売店らしき廃屋で一夜を明かす。(日誌には「ボロ小屋」と誰かが書いていて。しかもイラスト入り)


3/20

雨(晴れていたら韓国岳だったろうか?)
池巡り 何も見えない。(写真① 全員カッパ)
「S島の目の治療 野尻中央病院」と記してあるので、国道268で宮崎に向かったと思われる。(写真②はその途中か)


3/21 この日は「5 4 3 2 1」の日だった。昭和54年3月21日

生卵争奪戦
その時の記録である。「今日の朝食で卵が4個余っていた。卵焼きは面倒ということで、生卵で食べることになった。その4個をめぐって見苦しくも戦いが始まった。カード引いて数の大きい順に4人が勝利者である。なんと1年生4人が勝ってしまった。(以下略)」
青島キャンプ場


3/22

青島神社
鬼の洗濯岩
- ここからしばらく日誌の記録が途絶えている -



写真③はアルバムに「峠にて」と記しているので堀切峠と思われる。
先日車で堀切峠を訪れたが、峠からの景観は昔のままだった。先日のブログにも「青春の『堀切峠』」と書いたが、自転車で峠を登り切り、そして視界に飛び込んできた青い大海原を見たときの感動が一瞬にして蘇った。


2018年8月 あまりの嬉しさに記念撮影



写真④ サボテン公園(残念ながら今はなくなっている)

写真⑤ 鵜戸神宮 (下の写真⑥、⑦も) 





写真⑧ 日南海岸
ここで日南出身の先輩M田さん(右から二人目)にお弁当の差し入れをいただく。先輩は帰省中だったがわざわざ持ってきてくださったのだ。出発時のお見送りといい、先輩方の心遣いはありがたかった。


写真⑨⑩ 都井岬
ここの登りは堀切峠の比ではなかった。かなりきつかったのを覚えているし、今回車で来てみて、よくこの坂を自転車で行ったものだと他人事のように驚いた。車で岬の先端にある灯台まで行ったが、家内に「あの時はさすがにここまでは来ていなかっただろう」と話していた。ところが、今回アルバムを開いてみてなんと灯台の入場券が貼ってあった。私の記憶からは消えていたが、あの岬の突端まで行ったことの証明書である。「よくぞまあ…」自分のことでありながら若者のパワーのすごさに驚く。


都井岬灯台のチケット(一番右側)



佐多岬、根占からフェリーで指宿に渡り長崎鼻、開聞岳へと向かう。




開聞岳が間近に見える国民宿舎の横にテントを張らせてもらい2泊する。以前のブログにも書いたが、当時は(今も)旅する若者にとても寛大だった。トイレと水は国民宿舎のを使わせてもらった。
次の日は開聞岳へ。無事に登山を終え国民宿舎の温泉で汗を流す(さすがに入浴料は払った)。
 


   

3/26

合宿終了
山川駅
西鹿児島駅前の「郷土料理さつま」で打ち上げ(ここでも旅する学生ということで大サービスをしてもらった)
夜行列車で帰る





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テントの思い出…

2018年07月16日 | SUWV
前回ブログに、息子に譲ったテントのことを書いたらテントのことがいろいろと思い出された。

就職したのは37年前のことだ。給料がもらえるようになり2つの大きな買い物をした。
一つめはカメラだった。CanonAE1プログラムに明るめの50mmレンズを付けて10万円だった。
もう一つはアウトドア用品で、テント、ブス、コッフエル、シュラフ、ザック、水ポリなどでこれも全部で10万円した。それぞれを毎月1万円の月賦で購入した。
カメラはワンゲル時代から欲しかったが学生には高嶺の花だった。また、学生時代の延長としてアウトドアをするには自分用の装備品が必要だったので就職を機に迷わず買いそろえた。

その時購入したのがダンロップのH型テントである。
当時はダンロップテントが流行っていた。ヒマラヤ遠征隊がそれを使って登頂に成功したところによる宣伝効果が大きかったのだろう。実際に使ってみて、設営のしやすさや居住性、強度において申し分なく、加えて従来の同じ性能のテントより劇的に軽量化されているのを体感し、これなら流行るのもさもありなんと十分に納得した。


当時のテント


1979年の1月の追い出しワンデリングの1コマ。全部員総出のイベントだけあって部にある全てのテントが使われた。一般的な屋根型の他に、当時は革新的だったカマ天やウインパーも動員された。カマ天(かまぼこ型テント)やウインパーは厳冬期用のテントで、風雪に対しては強いがその重量は半端ではなかった。


1978年の夏合宿で使用したのはごく普通の屋根型テントだった。


ここは支笏湖か洞爺湖のどちらかの湖畔だが、大雪山にもこのテントを担いで登った。


1979年3月 春合宿


これも屋根型テントの部類だが、支柱と支柱の梁にポールを1本渡して強度を上げる構造になっていた。私たちはこのテントを「リー棒」と呼んでいた。渡しのポールの形状が麻雀の千点棒に似ていたからだ。


1980年3月 春合宿


最強のテント「ウインパー」
このテントのおかげで屋久島の山の中の暴風雨から生還できた。大げさでなく本当にそう思う。同じ場所にテントを張っていた他の2パーティーはテントをつぶされ私たちのウインパーに避難させたのだから。屋根型テントが前後にそれぞれ1本の支柱を立てるところを、このウインパーはそれぞれ2本の支柱をテントの縁を通す形でクロスさせ強度を上げている。天幕本体の生地も丈夫でその分重い。本体、フライ、支柱と数人で分担して登らないと半端ないくらい重い。しかし、その分絶対的な安心感がある最強のテントであった。


1983年6月 坊がつるキャンプ場


社会人2年目。ミヤマキリシマを見に昔の仲間と登ったときのもの。写真からも分かるように、キャンプ場にはダンロップのテントが多く張られていた。冒頭にも書いたように当時テントと言えばダンロップというくらい流行っていた。私が買ったのはそのH型といわれる物で3シーズン用だった。



これは当時のカタログだが、オプションで前張りを買い足した。

九重、白馬、多良岳などの山に限らず、30数年前のアウトドアブームの時にも、大型の家型テントをよそ目に、このドームテントでファミリーキャンプをした。

最後に使ったのは祖母登山のときだ。今から9年前になる。

2009年9月 尾平


「ほしこが」という宿泊施設の玄関前に設営、けっこう目立った。


このテントは本体1980g、ポール840g、テント前張400g、ペグ480gで一式3700g。当時はこれくらいの重さはどうってことなかった。むしろその画期的な軽さは自慢でもあった。


さて、息子に譲ったエアライズ2は1810g。二人用とはいえさらに半分の重量だ。


最後に、その息子と二人で九重にキャンプに行ったときの1枚。



当時流行りのタープや2バーナーもなく、何とも質素なキャンプ風景だ。でも、自慢のダンロップテントで息子とワイルドなキャンプができたことはよき思い出だ。
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ワンゲル同窓会3 別れの朝

2017年11月19日 | SUWV
とある湯布院の山荘に かっての仲間が集い
飲んで語って
夢のような一夜が明けた。








朝の散歩がことのほか気持ちがよかった。

7時半。朝メシを喰いにみんなで近くのゴルフ場まで歩いていく。





とにかく気持ちのよい朝だ。
どうだ、この風景!



ちんたらちんたら歩いたのだが、それでもすぐに着いた。
もう少し一緒に歩いていたかったのに…



レストランの窓からも優美な由布岳を眺めることができた。
なんと贅沢な朝メシだろうか。ここでもゆっくりと時間が流れた。



帰り道。
さらに日が昇り紅葉がまぶしい。









ステキなのは紅葉ばかりじゃないよと、ススキの海がアピールしているようだった。



宿舎に到着



宴の後



これは…


これはゴミではありません。飲みきれなかったお酒などを等分したお土産です。


解散前のひととき



まめで逢いましょう
また来年も
山に紅葉の燃える頃     (アルプス一万尺の替え歌)


みなさんお元気で




- 完 -




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ワンゲル同窓会2 宴会編

2017年11月18日 | SUWV
楽しかった宴会



前回のブログで予告した「驚愕の事実」とはこれ。お酒の数が半端じゃない。


日本酒、焼酎、ワイン、梅酒と参加者より酒の瓶の方が多いのではというくらい酒が並びました。
つまみはメインの地鶏鍋、ぶり刺の他にそれぞれが持ち寄った品がずらりと。でも一番の肴はお互いの元気な笑顔で、酒も会話も大いにはずみました。(続く)
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ワンゲル同窓会 湯布院散策編

2017年11月18日 | SUWV
1週間前、ワンゲルの同窓会が湯布院でありました。
同窓会といっても2つ上の先輩方の同窓会で、その会に私たち後輩も参加をさせていただいているわけです。
その初日、都合がつく人で湯布院の町を散策しました。コースは湯布院ドットコムに紹介されているAコースの変形バージョンです。このコースには「自然がいっぱい健康散歩」とサブタイトルがつけられていて、まさに元ワンダラーの私たちにはうってつけのコースでした。


本来はこのコースのゴールである宇奈岐日女神社から私たちはスタートしました。

宇奈岐日女神社



境内には台風の被害に遭ったというご神木の切り株が祀ってありました。



いよいよウォーキングの始まりです。
きれいな由布岳に、歩いては立ち止まり歩いては立ち止まりで、それぞれにその優美な山容をカメラに納めました。










ほどなく興善院に到着









次なる目的地へ出発






コースから外れて雰囲気のいい山のホテルへ寄り道 この木漏れ日がいいね!







コーヒーブレイク



カフェの窓からも「由布岳」 いいね!






次なるは大杵社 現地の看板では「杵」の字は「きへん」ではなく「のぎへん」でした。
残念ながら活字が出ません。







NHKの朝ドラのロケ地にもなったという社殿













町中でよく見かける鉄塔。これは温泉を掘ったときのもの?



湯気が出ています。



町のいたるところから見ることができる由布岳 やっぱりいいね!






出発地点に戻りました。ゴール!



宴会に向けてビールと氷の買い出し。



それだけで酒が足りるのかって?
この後、衝撃の事実が… (続く)


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由布岳に登ろうかな…

2017年10月25日 | SUWV
11月に、由布岳に登ってみようかなと迷っている皆さまへ。
今回は3年前に、有志で登ったときのデータを紹介します。

由布岳は東峰・西方の2つのコースがありますが、東峰でしたら大丈夫です。
いやしくも元ワンダラーなら、大丈夫です。たぶん…?

では3年前の様子を見てみましょう。


登り初めはなんと10時40分。



ゆっくりゆっくりマイペースで登ります。



まもなく樹林帯を抜けます。



東峰と西峰の分岐「またえ」に12時25分着



ここまで来れば東峰はもう目の前。



山頂(東峰)着、12時50分。おっと、この方達は別の人達でした…



お昼は途中のローソンで買った「焼き鯖ほぐし弁当」

写真はピンぼけですが、この年になるとこれくらいの弁当をしみじみ「うまい!」と感じます。
まして山の上なら…


下山開始 下りは楽勝(あたりまえ)



無事下山!



由布岳をバックに記念撮影 14時20分



どうです。由布岳東峰なら登り2時間、下り1時間半です。
何々、体力に自信がない?
そういう方は明日から少しずつトレーニングを開始しましょう。

ことわざにもあるではないですか、「昔取った杵柄」と。
もっと言うなら「腐れても鯛」、元ワンダラーの誇りを!

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屋久島・番外編 ~ 出発前

2017年09月13日 | SUWV
 屋久島合宿シリーズは前回で完結したつもりだったが、この合宿にまつわる2つの出来事をどうしても追加したくなった。それはシリーズ第1回で名前だけふれた「焼きそば事件」と出発当日の大酒飲みのことだ。

 実は、私たちが執行部のときの活動をまとめた「木霊8号」に収められている「嗚呼!屋久島サバイバルパート」も、その2つの出来事から書き始められている。(というか、私が書いたものだが…)


【木霊】




◇出発前夜 「焼きそば事件」

 大学の正門近くに「祐福」という食堂があったが(今もあるかもしれない)、そこの企画で、焼きそば5杯完食でタダというのがあった。店の壁には成功者の名前が簡単なプロフィールとともに張り出されていた。合宿出発前夜、3,4人で夕食に行った。「焼きそば5杯…」の張り紙が目に飛び込み、興味を示していたら先輩であるAさんが私にチャレンジしてみたらと勧めるのであった。5杯は無理にしてもいけるところまでと思って店の人に尋ねると、「チャレンジは初めから5杯作ります。失敗しても5杯分の料金をいただきます」ということだった。それを聞いて逡巡する私に、「失敗しても良いからいけるとこまでやってみろ。代金は俺が出すから」と言ってくださったのだ。お祭り好きの先輩は、その場の賑わわせに私を担ぎ出したのだった。

 1杯目、余裕。まだまだ十分いける。
 2杯目、いい感じで満腹になる。
 3杯目、途中から苦しくなるも、3杯も食べられて大満足。

 ここで、「もう無理です」とギブアップ宣言すると、先輩が「思い出づくりに、何とかあと1杯だけ」と言葉巧みにそそのかすものだから、自然と4杯目にチャレンジする流れになってしまった。

 4杯目、無理すれば何とかなるもので,どうにかこうにか胃に詰め込んだ。

 これで終わったと思ったら、例の先輩が豹変し,「ここまできて投げ出すってあるものか」と、今度は説教しながら5杯目を迫るのだ。完全にしてやられたと思ったときには後の祭り。

 5杯目、やいのやいの囃し立てられながら、どうにかこうにか完食。

 私はすぐにでもトイレに行って戻したかったのだが、先輩が「今、席を立ったらみっともない」などと言い出すものだから、しばらく席で目を白黒させていた。
 店を出ると,すぐにボックス村に向かった。その入り口の水道の所の溝で吐けるだけ吐いた。お腹が苦しかったのもあるが、それ以上に、お腹を壊し体調不良の状態で合宿に参加するわけにはいかないという責任感からだ。最後はのどに指を突っ込んで涙を流しながら吐いた…


◇出発当日 「ジャイアント事件」

 ボックスの横で壮行会をしてもらった。初めは軽い感じで始まったと思うが、そのうち調子に乗って飲むわ飲むわ…
 合宿ノートには「ジャイアント12本」と記してあったが,上の木霊8号には「7人でジャイアントを11本あけた」とある。さらに、「7人のうち5人まではその日出発予定の屋久島パートのメンバーだったという」とある。合宿ノートは当日の記録であるが,かなり酔っ払って書いているので、木霊の記述の方が正確であろう。合宿出発後にあの大酒盛りは話題になったであろうから。残った誰かが瓶を数えて、「11本も!」と。
 まあ、11本にしてもすご過ぎる。第1回でも書いたが、ジャイアントは大瓶3本分である。ということは、7人で大瓶33本空けたのだから…

 私にとって屋久島合宿は、出発前のこの2つの出来事もセットなのだ。しょうもないと言われればそれまでだが、自分の中では強烈な思い出として今も残っている。


 その日の夜行で出発する私たちへ、飲むだけ飲んでみろとばかりにジャイアント11本の餞…
加えて駅での盛大な見送りとたくさんの差し入れ。
 感謝してあまりあるとにかく豪快な先輩方だった。
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屋久島7 ~ 合宿後

2017年09月03日 | SUWV
サバイバルは終わった。

4/5 大川の滝 -(ロード)- 栗生 -(バス)- 宮之浦港 ~ 鹿児島 =(かいもん6号)= …

 
 鹿児島についてしたいことがあった。それは実家への電話だ。ずうっと気になっていることがあった。それは3/26小杉谷で1泊したとき、夢枕にじぃちゃんが立った。夢の中で私に話しかけるのだ、自分はこの世を去るがおまえはしっかり生きなさいみたいなことを。夢だったが妙にリアルだった。次の朝、他のメンバーに、夢の詳細を詳しく説明するのが面倒だったので、「昨日じいちゃんが死んだ夢をみた」と軽い感じで話をしていた。「ふ~ん」で流されていたが、自分としては胸に引っ掛かるものがあった。しかし山の中だったのでどうすることもできなく、そのままにしていた。

 はたして4/5、フェリーが鹿児島について公衆電話から島原の実家に電話したら、案の定、祖父はあの晩亡くなっていた。そのことを他のメンバーに話をしたら、一様にそんなことがあるのかとひどく驚いていた。私には何か確証みたいなものがあったので、特に驚きもしなかった。恐くもなかった。むしろ「やっぱりそうだったのか、じいちゃん、ありがとう」みたいな感謝の気持ちが湧いていた。
 私は、今もそうだが、霊やオカルト的なものは信じない。ただ偶然に、祖父が死んだその日に、祖父が死んだ夢を見ただけだと思っている。ただ、その夢がリアルで現実離れしていただけだったと思っている。

 偶然はもう一つあった。この時の春合宿に限って、出発前に実家へ、合宿でしばらく不在にする旨の葉書を出していた。春合宿で○月○日から2週間ほど鹿児島県にある屋久島に行ってきますと。後にも先にも、山に行くと手紙や葉書を書いたのはこの1回きりだ。これも虫の知らせだったのだろうか、何となく葉書を書かずにはいられなかったのだ。

 葉書を出していてよかった。祖父が死に、母は佐賀の私の下宿に何度も何度も電話をしたそうだ。島原の実家では、本家の息子が消息不明のまま葬式も終わり、親戚に対して面目ないと母は嘆いていたという。その頃に私が出していた葉書が届き、母はその葉書を手に、親戚の面々に見せてまわったという。これもたまたまの出来事だったと思うが、そういうこともあるのだと今でも不思議に思っている。



 さて、合宿日記には以下のことが記されている。



4/5

○ 屋久島を発つフェリー、たまたま屋久島高校から本土に赴任される先生と一緒だったが、その見送りが感動的だった。

○ 昨年の春合宿(南九州サイクリングパート)の打ち上げで行った西鹿児島駅前の「郷土料理さつま」に今回も行った。去年は佐賀から来たということでいろいろとサービスしてもらったが、女将さんが去年来たことを覚えていてくださって、今年もいっぱいサービスしてもらった。


4/6

○ 今、急行「かいもん6号」の中。もうすぐ鳥栖である。汽車の中では偶然にも国経大(国際経済大学 西九州ワンダーフォーゲル連盟で交流があった)の屋久島パート(山辺、梅川、浜田、森)と一緒になる。彼等はOLDとたくさんのつまみを用意して盛大にやっていたので、我等も負けてはならじと樽酒(差し入れでもらい、屋久島山中、サバイバルと持ってまわったことになる)と焼酎を持って彼等のところへ。 ほぼ徹夜で飲み、お互いの合宿の出来事などを語り合った。




 無事に佐賀に帰り着きこれで合宿は解散だが、その後反省会を開いて春合宿の総括を行っている。それを元に部会で報告。そして部全体として春合宿の打ち上げコンパを開き、それぞれのパートの苦労話を肴にお互いの健闘を称えあった。




反省を記したページ それぞれの担当から(装備、医療、会計、食糧、SL、PL)





同じく反省 登山の部、サバイバルの部、合宿全般




 ワンゲルは、よく酒を飲みバカばっかりやっているサークルのように思われていたが、こと山やその活動については真剣に向き合っていたことをこの「合宿ノート」は記録していた。
 合宿前には部会やミーティングを重ね、合宿の方針やそれぞれのパートの目的を共有していたこと。並行してトレーニングを積み、プレ合宿を行うなど体力面でも十分の準備を行っていたこと。合宿後には自分たちの活動を振り返り、あの時の判断はあれでよかったのか痛烈に反省を行っていたことがきちんと記されていた。
 たまたま1つの合宿を紹介したが、どのパートのどの合宿もみな同じである。私たちはまじめ過ぎるほどまじめに山に、自然に、ワンゲルに向き合い同じ時間を共有してきたのだった。





- 完 -



 



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屋久島6 ~ サバイバル編

2017年09月02日 | SUWV
いよいよ合宿の後半というか、この屋久島合宿のテーマであったサバイバルがスタートする。

【合宿の趣旨】


 今年の7月の同期会の席には、この合宿ノートは別の「北海道パート'78」が持ってきてあった。当時の合宿メンバーがそれを約40年ぶりに読み返し、懐かしさもだが、自分が書いた文章に対しては「恥ずかしいね」とそれぞれが口にしていた。私も同感だ。青臭く若かったといってしまえばそれまでだが、純粋でもあった。上の趣旨もそうだが、そんなことを純粋に追求しようとしていたのかと思うと…



4/2
○ サバイバルをするのに適当な場所を求めて陽が昇る前に出発する。海面に映える月の照り返しが美しかった。候補地として考えていた瀬切川がイメージとちがっていたので、そこを断念し次の候補地であった大川を目指す。そして、大川の海岸に決定。


サバイバルの場所を探しながら移動いているところ



途中で…



そして大川の滝に到着


 ここの海岸でサバイバルを始めたのだが、ここから3日間の記録がない。この合宿ノートはメンバーの誰もが時間があるときに自由に書いていいのだが、誰も書いていないということはサバイバル中はノートからも離れましょうということだったのか(定かでない)。なにしろ、テーマが原初の人間性の追求なのだから。
 

サバイバルの地と決めた海岸(大川の滝のすぐ下)


きれいな海で、魚がたくさん捕れる予定であった…


【住】 


流木とフライ、ポンチョでそれらしいものをつくった。
開放感にあふれ、夜は波の音、川の音が心地よく、また、満天の星を仰ぎ見ることができた。


【食】 


海の幸・山の幸でいっぱいのはずだったが、そうは甘くなかった。魚は1匹も釣れなかった。
そのかわり、トコブシ、カメノテ、ミナなどは捕ってくださいとばかりに海岸の岩にいっぱいいた。それにツワブキ、ヨモギ。


メシを作っているところ






これは後輩達が見つけてきた野生のバナナ。青臭くて食えたものではなかった。





食後だろうか、海に沈んでいく夕日をみんなで眺めている。
贅沢な時間がゆっくりと流れていく。






夜のとばりが降りると、流木を燃やしてミニファイヤー



 汀のさざ波寄せる波。星空の下パチパチと燃える焚き火を囲んで、人生を、ワンゲルを語ればいつしか夜も更けた。川原で星を数えながら眠りにつく。枕元を流れる清流の音でか、潮騒でか何度も目を覚ました。その度に星の配置が変わっているのだ。西の空のオリオンを見つけては安心し、又まどろむ。
(「木霊」の「嗚呼!屋久島サバイバルパート」に綴っていた一文)





-続く(えっ?)-




 


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屋久島5 ~ 永田でつかの間の休息

2017年08月30日 | SUWV
 前回は、命からがら宮之浦分岐から永田に下りたところまででした。
川の増水と橋の崩落のため、川の手前で1泊しましたが、雨に濡れ重たい荷物を背負って1日で1800m下りたことになります。前夜はほとんど寝てなかったのに、すごい行程だったと今さらながら感心します。宮之浦分岐や鹿の沢で、濡れた装備を乾かすために沈殿してもよかったかも知れませんが、暴風雨のすさまじさを経験した私たちは、とにかく早く安全なところに下りることだけを考えました。もっともあの時は、第2・第3の低気圧が屋久島に近づいていたので下山を急いだわけですが。
 「屋久島は1月に35日雨が降る」というのは1回に降る雨の量がすごいことの例えと聞いたことがありますが、まさに恐ろしいまでの雨の降り方でした。
 
 さて、合宿の記録ですが、前回紹介した4/1の「地獄の行進」以外ではほんの数行しかありません。


3/31
○ 明るくなるとともに行動。川を渡る。永田灯台の近くで1泊。



4/1
○ 曇りときどき雨。行動できない天気ではなかったが、前日までの疲れが残っていたので沈殿。



永田灯台でぶらぶらしているところ




灯台近くの空き地 テントを張るため整地(草取り・石拾い)をしているところ



命を救ってくれたテント(本シリーズ2回目の登場) 雨対策の側溝を掘っているところ


ブスのガソリンを抜いてしまっているところ



残った食糧を仕分けしているところ



合宿後半はサバイバルに挑戦。
サバイバルといっても米と調味料だけは持って行くというセミ・サバイバルだが…



さあ、いよいよ合宿の後半が始まる。
後半といっても、実はこの合宿はこれからが本番、その名も「屋久島サバイバル」パートとだったのだ。




-まだ続きます。次回はサバイバル編-



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