TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

屋久島4 ~ 嵐の翌日・地獄の進軍

2017年08月29日 | SUWV
-嵐の翌日は快晴だったが…-


(永田岳からの360°パノラマ)


4/30
○ 一夜明けると前日はうって変わって快晴。しかし、また次の低気圧が近づいていたこと、昨日寝ていなかったこと、テントやシュラフが濡れて重くなっていたことなどの理由で栗生へ下りる予定を変更して、鹿の沢を第一目標にエスケープ。天候悪化の兆しが見えないので一気に永田に下山することにする。
 昨晩寝ていなかったのでメンバーの足取りは重く極端にペースが落ちていた。途中サイト可能な場所があったのでそこで1泊するつもりでパックをほどく。しかし、天気図をつけると、さらに6~7の低気圧が接近していたのでパックをやり直して一路永田を目指す。
 ところが、永田の村を目の前にして川の橋が壊れ渡れなかったので川の手前で1泊することになった。


○ 「橋がない!道もない! ハードボイルド30日」
昨日の暴風雨の後始末とパックに約2時間。シュラフだけでも5㎏はありそう。TUWVとの記念撮影をおえ、どうにかパック終了。計画を永田岳 → 鹿の沢 → 永田に変更する。
 昨晩、(Y氏を除いて)ほとんど寝ていなかったのと雨で濡れ重たくなったキスリングのせいでペースは遅い。でも天気は快晴。永田岳からの360°パノラマは雄大であった。
 9時45分鹿の沢小屋に着く。汚い。鹿の沢は泣いていた。その後永田を目指してちんたらちんたら。みんなの足取りは重い。心も重い。


-地獄の行進を綴ったページ-




4/1(Tue)
○ 「4月」「しがつ…しがつ-」になってしもうた。先日の30日は地獄の行進であった。29日は宮之浦分岐で暴風雨にあい、テント、シュラフ、替え靴下、替えパンツetcみんなびっしょりだったので、地獄の行進はえらくしんどかった。なにしろ1800m近くの高さから一気に下界に下りてきたのだから。足はジンジン、ガタガタマメはできるし、肩は痛いし、腰もヒリヒリ、でもなんとか永田の河畔に着いたけれどもあるはずの橋がない、崩れている。陽はとっくに暮れてあたりは闇、あっちに行ったりこっちに来たりなんとか川の向こうに渡ろうとしたが危険なようであった。永田の灯りはすぐそこに見えているのに…。その日は林道を出た場所にテントを張ることにする。みんなすっかり疲れ切っている。それから晩飯をつくり、差し入れのウイスキーを飲み眠る。シュラフは濡れているからごろ寝。1時頃であった。
 「起床、起床!」の声。はじめは何のことか分からなかった。「5分も寝てないのに、PLもついに頭が狂ったか」などと思ったのである。が、しかし、時計を見ると4時。だから3時間は眠っているのである。朝飯を食べずビスケットですませ、明るくなり始めた頃に出発。飛び石づたいに川を渡るのである。川は2つあった。第1の川は簡単に渡れたが、次が問題である。水量も多いし、流れも速い。PLとSLでまずキスリングを渡し、時間をかけて渡りきる。
 永田の集落の人はみんな親切であった。まず最初に会った人は馬を使って畑を耕しているおっさんであった。江崎くんは久しぶりに会った里の人におじぎをするとその人もちゃんとあいさつを返してくれた。その後分かれ道のところで、その人は遠くから大きな声で「左、左」と叫んで道を教えてくれた。永田の万屋でいろいろ買い出しをすると、そこのおばさんはボタもちをくれた。あの橋の話をしたら、そこのおばさんは「あの橋も早くなんとかせんといかんという話もあるけどねェ-」と


-まだまだ続きます-


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屋久島3 ~ 暴風雨の一夜

2017年08月28日 | SUWV
【前回の記事】

○ヤッケは持った。雨具は勿論。ナイフはいるかな、えい持って行け。ロープも必要だろう。地図もコンパスも小ザックに詰めて一路○○へ。

-前回の○○の伏せ字の部分は「宮之浦岳」でした。別の記録で判明-


3/28
○ ガス。尾根伝いに宮之浦鞍部直下の分岐で1泊。永田岳へのアタックはガスのため中止。午後半沈。ガスのあい間をぬって2度ほど宮之浦岳へアタック。ガスのあい間より時折みせる永田岳の山容に一同感激。この日の夜より雨、風も次第に強くなる。


(ガスの合間に見えた永田岳)



そして運命の3月29日


3/29 「テントの中に地獄を見たり。魔の29日」

○ 今日は雨。すごい風だ。フライの張り綱が片面は全部切れていた。でも我々はこれしきのことでは負けない。



-暴風雨なので写真は1枚も写していません(当然)。ただその日のすさまじさを記した合宿ノートが今も手元に残っています。-







○ 宮之浦分岐はすさまじい暴風雨だった。ポンチョ、ツェルトをグラウンドシートの上に敷いてなんとか生き延びようとする。バシッ!の音とともにフライがひるがえった。SLと八島が荒れ狂う外へ。テントの中に溜まっていた水をコッフェルでくみ出すこと実に20数杯。シュラフはできるだけ濡らさないようにポリ袋の中にしまう。(テントの)外も中も悪戦苦闘。昼過ぎ鳥取大WVの伝令参上。風邪気味の1年生(女)を私たちのテントに避難させてくれとのこと。大歓迎。しばらくしてから明治大学の単独行(男)参上。テントがつぶれたので避難させてくれとのこと。OK。さらにしばらくしてからまたしても鳥取大学WVの伝令参上。うちのテントはもうダメ、全員避難させてくれとのこと。「何人?」と尋ねると「8人です」ドキッ!よし、来るなら来いと。数分後、ドドド~ッとTUWVのメンバーが団体で押し寄せてくる。そしてテントの中では今年2度目の合ワンが始まった。みんなで山の歌を歌う。ライダースインザスカイやワンゲルズンドコ節などは両校とも知っていたが、歌い回しは少しちがっていた。しかし、そこはおかまいなしに佐大のペースで進める。えーかげんに声がかれそうになる。というのも今日は雨が降っていたので、午前中(他の大学を救助する前)に雨の音に負けないくらいの大声で雨の唄シリーズを歌っていたからだ。♪雨が降りてるてる坊主が泣いても… ♪雨、雨ふれふれ母さんが… きわめつけは「子連れ狼」♪帰りゃいいが帰らぬ時は この子も雨の中骨になる あ~あ~大五郎…

また、TUWVの人たちに新しい山の歌を教えてもらった。その名は「孤独な岳人」

   「孤独な岳人」
(1) 俺は岳人 はてない孤独
    一人山をさすらう
    友よ俺を山で見たなら
    頼む声かけてくれ

(2) 岩壁つらく 独り登れば
    思うあの娘の肌よ
    友よ俺を壁で見たなら
    頼む声かけてくれ

(3) ガスに巻かれて 吹雪に出会い
    二度と帰らぬおまえ
    友よ眠れ安らかに
    憧れの北岳で
    友よ眠れ安らかに
    憧れの北岳で

 その夜、この狭いテントの中でなんと13人、ひざ抱え小さくなって嵐に耐えた。
こうして悪夢の一夜が過ぎ去った。次の日のテント撤収ならびにパックの…うっ、もう書く気もせん。


○ 暴風雨。F氏の助言でテントを、出発直前屋根型8天からウィンパーに替えていたためさほど影響なし。午前中は外の暴風雨に負けじと必殺「雨の唄」シリーズを大声で歌う。10時頃風がさらに激しくなりフライの張り綱が切れフライを残念する。テントの縫い目から浸みてくる水をコッフェルでくみ出すなどの処置をとりながら天気の回復を待つ。テントをつぶされた鳥取大、明大を救助。13人で一夜をあかす。



-あの暴風雨に耐えられたのはウィンパーというテントのおかげです。通常のテントに比べたら構造的に強い分重量が重い。次の写真がそのウィンパーだ。-



 前後にそれぞれポール2本で、三角形をつくっているので風に対して強く、当時最強といわれていたテントです。上に記したように、屋久島の特性に詳しいF先輩の助言であえてこの重いテントを持って行きました。結果として、私たちだけでなくテントを暴風雨でつぶされた他の大学生の命をも守ってくれました。

 このシリーズ1回目に、合宿までの道のりを載せていましたが、合宿は部会で計画を発表して部の承認を得ます(計画によっては変更・中止になる場合もありました)。それと合わせて、経験豊富な先輩方からいろいろなアドバイスをいただきますが、それが功を奏しました。晴れた日の山は何でもありませんが、天気が悪いときの山は経験がものをいいます。今回はその経験が事前の装備で生かされました。ノートにも「Fさん」と記してありましたが、このFさんは鹿児島港まで見送りに来てくださった福岡さんだったと思いますが…、記憶が不確かです。渕上さんだったかな…
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屋久島2 ~ 上陸編

2017年08月27日 | SUWV

前回の続きです。合宿ノートを元に1980年の屋久島登山を掘り起こしています。




サイト場にてくつろぐ。差し入れでもらったウイスキーを得意げに手にかざしています。樽酒もいただいていた。よくもこんな重い物を…。ありがたい限りである。


3/27 快晴

○屋久島は今まさに春である。すべてに新しい生命の息吹が感じられる。5:00起床。朝メシ、キジうち、パック。7:10出発。昨日、一番遅くサイト場に着いた我々が最初に出発するというのはなかなか気持ちがいいものである。トロッコ道を行くこと1時間、そこには美しい川が待っていた。遊ぶこと30分。この後が本格的な登山道で、実に変化に富んでいた。翁杉からウィルソン株、大王杉に縄文杉と杉が多スギる。九産大のワンゲルが我々のピッチの速さに驚いていたが我々としてはちょうどいいペースである。心配していた天気にも恵まれたせいかメンバーは意気揚々と高塚小屋と分岐の間のサイト場に着く。



(トロッコ道でバカをしている後輩達 「人間トロッコ」だと)



(杉でバカをしているところ。今ならお咎めものか…)



○トロッコ道をあきるほど歩いた。トロッコ道の最後のところ(大杉林道に入るところ)で休憩。沢に下りてしばらく遊んだ。大きな石の間を清流が流れている。やはり山の水はうまい。八島は水の中に顔をつけ「魚はおらんですよ」と叫んでいた。あいかわらずアホなことをやっている。本当に水がきれいだった。水底の石が透明の水をすかして見える。川岸には枯れた杉木立が灰色のはだを見せている。大杉林道は視界が開けていない。狭い林道が急に開けたと思ったら、そこにはウィルソン株があった。静かな、コケのむした木立の中。やはりでかい。



(沢の上で休憩 屋久島は今まさに春)



(川の中をのぞいて「魚はいませんよ!とバカをしているところ)



○ジャーン!!初のお目見え大石くむです。屋久島の第一印象は、いや屋久島山行の第一印象は、ただただ雄大であるとは一口に言えない。感じることは島という隔絶された自然、山、杉林に隠され、ずうっと安息をむさぼっていた自然が人間界に露出され徐々に破壊されているんじゃないかという疑問が、感動とはまた別のところで湧いてくる。ウィルソン株、縄文杉の周りのごみの山はいったい何なんだ。「ウィルソン株は泣いているぞ」(上屋久町老人倶楽部)

 -実際に立ててあった看板。ウィルソン株や縄文杉周辺のごみは地元の老人会によってきれいにされていたとのこと。-


○合宿に行ったらその人が分かるというが、まったくふだんと変わらない。みんなアホである。すばらしい人ばかりである。


○♪ヘイヘイホー ヘイヘイホー ♪与作は木を切る ヘイヘイホー ヘイヘイホー
与作がいかにしてウィルソン杉を切ったかは定かでない。今にはウィルソン株として株とその名を残すのみである。しかし流石の与作も縄文杉には手が出せなかったようである。



(翁杉)


(縄文杉)




3/28

○目が覚めて、テントの入口からまだ明けぬ空を見る。星が見える。今日も快晴になると思いきや、出発時にはガスってくる。きのうの夕方はあんなにキレイな夕焼けだったのに。見えるはずの永田、宮之浦は見えない。見えない。愛が見えない。


○東シナ海にある高気圧の影響で九州は全体的によい天気のはずである。しかし、そこはさすが屋久島である。ガスのため半沈。途中の残雪で遊ぶこと1時間。今日のコースにはいたるところに雪が残っていた。


(残雪?の上で)



(残雪でバカをしているところ)



○今資料を見ていたら縄文杉の樹齢は7000年とのことだ。7000年…、人間の力の及ばない、犯すべからざる自然の営みに畏怖の念を抱かずにはいられない。ところが、ウィルソン株周辺のごみの山は地元の老人会の善意によって始末されているとのことである…。


○でぇーえぃーん。2回目の登場です。今日は朝からガス、ガス、ガス(ちなみに、うちのばあちゃんの名前はスガ)ガスも大自然が持つ自然の一面ではあろうが行動ができん。働きかけができんという点ではいっちょんすかん。しかし、ガスで半日ぐらい沈殿してあちこち散策etcをするのもいいもんだ。ちなみに、ここに女がおったらもっといいだろう。ひょっとして…、と考えると、山その他を含む自然は女と似かよっているのではなかろうか。何しろあのお椀型または釣り鐘型のぱいおつと山のピークが似ている。あの安らぎというか安息を与えてくれるということも似ている。決定的にというかワイの結論として、とにかく山や自然も女もあつかいにくい。





前日までこんな風に天気がよかったのに…




(ガスの中の進軍)



○ワンダーフォーゲル。これはドイツ語で「渡り鳥」というらしい。ワンダーフォーゲルという行動または形態が生まれた時どんな定義または暗黙の了解というのがあったのだろうか。ただ山に登る、楽しい、雄大だととらえるものだけものであったら、現在のこの活動をワンダーフォーゲルとはいわないだろう。やはりワンゲルは自分の考えを自然の中に持ち込み目的を持って活動するからワンゲルだといえるのだろうと思う。


○ヤッケは持った。雨具は勿論。ナイフはいるかな、えい持って行け。ロープも必要だろう。地図もコンパスも小ザックに詰めて一路○○へ。

(伏せ字の○○は原文のまま。宮之浦岳?途中の雪渓?…思い出せない。
 この夜、天気は急変。宮之浦分岐は、とてつもない暴風雨に襲われる。6人の運命やいかに… 続く)


【次回予告】

3/29 「テントの中に地獄を見たり。魔の29日」
○今日は雨。すごい風だ。フライの張り綱が片面は全部切れていた。でも我々はこれしきのことでは負けない。
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屋久島1 ~ 合宿までの道のり          

2017年08月26日 | SUWV
 「TENZANBOKKA78」にお越しいただきありがとうございます。

 40年前に佐賀大学ワンダーフォーゲル部の門を叩いたのが縁で、現在もアウトドアライフをたしなんでいます。アウトドアといっても最近はもっぱら近くにある上山歩きです。上山は標高122mの小さな山ですが、登る度になにがしかの発見があり、その一部を本ブログで紹介してきました。そのスタンスはこれからも変えませんが、しばらくの間、趣向を変えて40年前のワンゲル時代の合宿の様子を綴ってみようと思います。

 第1弾は「屋久島」です。これは1980年・昭和55年の春のことですが、幸い当時の「合宿ノート」が手元にありますので、それを元に記憶をたどりながら「あの頃」の山行を紹介します。


(合宿ノート)


(合宿までのスケジュール)


【合宿までの道のり】

1980年(昭和55年)


2月
 ・23日 部会 計画発表
 ・27日 部会
 ・28日 ミーティング
 ・29日 トレーニング開始


3月
・ 6日 計画書作成
・ 7日 装備点検、買い出し、パック(プレ合宿) 栄養会
・ 8日 宝満プレ合宿(~9日)
・ 9日 装備収納、打ち上げ
 ・17日 バーベキュー大会
 ・20日 装備点検、ボックス掃除
 ・22日 栄養会、ミーティング
 ・24日 食糧等買い出し、パック、焼きそば事件
 ・25日 出発



3/8

○神田さんの差し入れダンキンドーナツ15個。はて困った。6で割り切れない。そこであみだくじで決めることになった。残りの3個を手にしたのは、いや口にしたのはなんと1年の3人だけ。-以下略-

○宝満山でのプレ合宿開始である。キスの重さは30㎏と少々物足りないがプレ合宿のこと、まあいいだろう。今度の山行の楽しみは太宰府の梅と山頂からの夜景である。

○ここは鳥栖駅。うどんを食べるために4番ホームに向かう。その階段を登りきるが早いか「わあ、セーラー服!」とSが大声を発した。そこには修学旅行風の女子生徒が200人余り…



3/22

○今日は栄養会の予定であったが、何だか知らんがその場の雰囲気で生協に行くことになったのである。しかし、合宿前にはよく金が飛ぶ。ところで、今からミーティングである。今日のミーティングで何度目だろう… ミーティングは多ければ多いほどいいと思う。みんなが集まって話し合う。たいした話なんかなくてもいい。集まること自体に意義がある。頭デッカチになるという批判もあるかもしれない。論理にこり固まるという批判もあるかもしれない。しかしそんなものではない。そんなことをいう人こそ観念でものを言っている人だ。みんなが集まり同じ話題を話す。わかり合える。こんな小さなことがひいては事故を防ぐのではないだろうか。-以下略-



3/25

○感無量!空けたジャイアント12本。差し入れボトル3本。諸先輩方の御芳情にこたえるべく我々はがんばるぞ。屋久島サバイバルパートを必ず成功させるぞ!

○感無量の気持ちで佐賀駅を離れる。どんな苦しいことがあってもガンバリ通してみせる。11時05分。見送りなんと8人。阿比留さん(ゴールド)、大塚さん(ホワイト)、坂本さん(お弁当)、上野さん(黒の50)、渕上さん(バナナ、クラッカー)、岡崎さん、松永さん、井上さん

-夜行列車の出発時間までに、ボックス横で盛大に壮行会を開いてもらったようだ(「ようだ」と記したのは私の記憶からとんでしまっているからだ。「空けたジャイアント12本」と記してあるが、サッポロジャイアント12本を普通のビール大瓶に換算すると36本分である。当時のボックス横での飲み方はすごかった。なお、差し入れのウイスキー3本はそのまま合宿に持って行った。学生時代、それぐらいの重さは屁でもなかった。-


3/26

○すでにフェリーに乗船していた。桜島をバックに記念写真も撮った。坂本さんの差し入れのメシを喰っていた。そこで、な、な、なんとうれしいではないか、あの大祐さんが差し入れを持って我がパートの見送りに来てくださっているではないか。あいにく時間がなく、フェリーの上と埠頭とで言葉を交わし、おそらく最後になるであろう別れを惜しんだ。


(桜島をバックに記念撮影)


(見送りに来てくださった大祐さん)



-大祐さんは4年生で、ちょうどこの3月に卒業され就職も決まっていた。姓は「福岡」だが就職先は「鹿児島」。鹿児島は彼の地元ということもありわざわざ出航時刻に合わせて来てくださったのだ。さらにいうなら、彼との「最後の別れ」ではなかった。ワンゲルのOB会で最近よくお会いしている。-


続く(屋久島上陸編に乞うご期待)
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色褪せない写真?

2017年07月23日 | SUWV
昨日の同期会でのこと。
「あの頃」の話で盛り上がるが、それぞれの記憶は曖昧。
微妙にずれることもあるがそれはそれで面白い。

そんな中、幹事のSが昔の写真をスマホに取り入れてきていたのでそれを見て当時を懐かしんだ。
あまりにも写真がきれいだったので、「スキャナで?」と尋ねたら、アルバムの写真をそのままスマホで撮影したという。

Tが手にしているスマホに思い出の1枚が鮮明に。


思い出の写真をさらに自分のカメラで写すT


そんなTが、昨晩の様子をブログにアップしていた。その中の1枚。


驚いた!ぜんぜん色褪せてないのはどういうこと?

私も同じ写真を持っている。スキャナで読み取ったのがこれである。


30数年前の写真だから、経年劣化で少しセピア色になっている。
Sの色褪せない写真はどうしたものか…。補正をしたわけでもなさそうだが、よっぽど保管の仕方がよかったのだろうか。
このことは次の会で聞くことにしよう。

さて、上の三人の今である。


それぞれに経年劣化、失礼、深みを増したいい顔になっている(と自分たちでは思っている)。

この会が定例化するきっかけとなったTの壮行会の時(2013年3/24)には、すれ違ったのにお互いに気づかず通り過ぎて笑い話になったケースがいくつかあった。(→ 「壮行会」)

次に会うときは、お互いどういう顔になっているか楽しみである。


【おまけの1枚】
これも上の3人。1年生の秋のパーワンで若杉・三郡・宝満を縦走したときのもの。若いね…

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同期会・夏

2017年07月23日 | SUWV
冬と夏、年2回の同期会がすっかり定着した。
同期会は、Tの帰国に合わせて博多で開かれる。



毎度のことだが実に楽しい時間だった。

今回は先輩であるOさんも参加してくださった。
また、幹事のSやOさんの計らいで、これまで連絡の取れなかったMと実に30年ぶりに再会することができた。
Mの参加は事前に知らされていなかったので、会場に入ってきたそれぞれが、Mの顔を見て一瞬呼吸が止まるものの、「え~っ!」とか「お~っ!」と歓喜の声を上げた。
とんでもないサプライズだった。


1次会は居酒屋 お互いの元気な顔に乾杯!


あっという間に「あの頃」に戻る。 途中、アドレス交換も。


1次会お開き。お店の前で記念撮影をして2次会へ。



恒例、カーネル・サンダース氏の像の前で記念撮影。
冬はM鳥が似ているということで盛り上がったが、今回はM田でさらなる盛り上がりをみせた。




みんなありがとう。
すてきな時間を「あの頃」も、そして昨晩も。
お互いに元気で、また会いましょう。





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同期会H29

2017年01月22日 | SUWV





今年も大雪になるのかと心配していましたが、幸いなことに雪は降りませんでした。
特急「かもめ」で日帰りの予定でしたが、JRが不通になった場合に備えて替えの下着等も用意はしていきました。さすがにアイゼンやスパッツまでは準備しませんでしたが…

ベトナムから一時帰国したTを囲んで昔の仲間が集いました。
参加されたみなさんお疲れ様でした。
そして楽しい時間をありがとうございました。

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今年も大雪になるのか…

2017年01月20日 | SUWV
1年前の同期会は、「数十年に一度の強い寒気」が心配される中、いつものように博多で開催された。
長崎の私は、その日のうちに特急「かもめ」で帰ることができたが、翌日帰るようにしていた山口県から来たT子さんなどは長いこと博多に足止めされていたという。

1年前の大雪(H28 1/24)


その翌日の本明川(1/25)


あれから1年。
天気予報では明日も雪になるという。
雪山に登るわけではないのだが、雪への備えに万全を期したい。
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鳥栖駅のうどん

2017年01月04日 | SUWV


福岡からの帰り、鳥栖駅に停車した「特急かもめ」の車窓から写したものです。
懐かしくてあわててバックからカメラを取り出しました。

学生時代、九重連山にはよく登りましたが、佐賀から汽車で行っていました。
そのとき、乗換駅が鳥栖で、その待ち時間を利用して先輩達とよくここのうどんを食べていました。

あの頃も椅子などなく立ち食いのうどん屋さんでした。時間がないときは、容器代を払えば汽車に持ち込んでもよかったような…(記憶が曖昧です)

またあるときは、ホームに置いたキスリングにデーンと腰掛けて食べたこともありました。キスリングが「どこでもチェアー」に早変わりですが、それはニッカズボンにドタ靴姿の山男達の特権でもありました。


 「ワンゲルズンドコ節」

 破れズボンにどた靴はいて
 肩で風切るおいらの姿
 ダテじゃできないワンゲル暮らし
 山の男はつらいもの
 ドコズンドコステテコシャンシャン

 汽車は出ていく佐賀の町を
 可愛いあの娘がまぶたに浮かぶ
 明日は南か久住の峰か
 木の根枕の渡り鳥
 ドコズンドコステテコシャンシャン

 テント背負わされケツはたかれて
 あごを出します胸つきながら
 登りゃ稜線頂上も近し
 ヤッホヤッホの声がする
 ドコズンドコステテコシャンシャン

 イヤじゃありませんかワンゲル食堂 
 ガンタ・キジ飯・焼きめし・おじや
 今日もクジラのげっぷが出れば
 ホームシックも無理じゃない
 ドコズンドコステテコシャンシャン


歌詞はそれぞれの団体で違うようですが、私たちはこの歌詞で歌っていました。


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一枚の写真より ~ 野宿

2016年08月01日 | SUWV


以前、「風まかせ」という雑誌の表紙に書かれていた「旅と野宿は男の至福」というフレーズを目にしたとき、「何と素敵な言葉だろう」と思った。今でこそ「野宿」という言葉の響きに懐旧の情を覚えるが、天山歩荷のあの頃はそんな余裕などなかった。

サイクリングの場合、キャンプ場に泊まるというのは希で、けっこう行きあたりばったりだった。駅の敷地はトイレや水が使えるので何回かお世話になった。あとバス停や公園、橋の下の川原など行く先々でテントを張る場所を求めた。
ある駅の軒先で晩飯を作っていたら、おばちゃん達が寄ってきて、しきりに「いいね、いいね」と口していたのを覚えている。あのときは、人が行きかう中で飯を作っていて、こんな貧乏旅行のどこがいいのかと心の中で思っていたが、自分もこの年になると、自転車で旅している若者などを目にすると、同じように「いいね…」とつぶやき、郷愁にも似た思いが胸の中に満ちてくる。あのときの駅前のおばちゃん達も、自由に旅している私たちを見て心の底からうらやましく思ったのであろう。

さて、冒頭の写真は1979年の春、南九州をサイクリングしたときのものだ。開聞岳近くの海岸に建っていた国民宿舎の敷地の隅にテントを張らせてもらった。山に登る前と登った後の2泊も。今思えば、当時は若者の旅行にとても寛大であったように思う。行く先々でいっぱい親切にしてもらったのを覚えている。前回(前々回も)のブログ、北海道サイクリングのときには2回も民家に泊めてもらった。札幌と旭川である。どちらも街中でどこにテントを張るか泊まる場所に困っていた。札幌ではたまたま通りかかったおばちゃんに「どこかテントが張れる公園はありませんか?」と訪ねたら、即座に「うちに泊まらんね」と言ってくれたのだ。全く見ず知らずの、しかも汚い恰好の5人組を目の前にして。旭川では同じようにラーメン屋さんに泊めてもらった、道を尋ねただけで…

天山歩荷のあの頃、周遊券、夜行列車、ユースホステルなど、お金を持たない若者の旅を支援する制度に加え、カニ族・エビ族の若者達を温かく見守ってくれる大人達の目が多くあったように思う。
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