TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

一枚の写真より ~ 野宿

2016年08月01日 | SUWV


以前、「風まかせ」という雑誌の表紙に書かれていた「旅と野宿は男の至福」というフレーズを目にしたとき、「何と素敵な言葉だろう」と思った。今でこそ「野宿」という言葉の響きに懐旧の情を覚えるが、天山歩荷のあの頃はそんな余裕などなかった。

サイクリングの場合、キャンプ場に泊まるというのは希で、けっこう行きあたりばったりだった。駅の敷地はトイレや水が使えるので何回かお世話になった。あとバス停や公園、橋の下の川原など行く先々でテントを張る場所を求めた。
ある駅の軒先で晩飯を作っていたら、おばちゃん達が寄ってきて、しきりに「いいね、いいね」と口していたのを覚えている。あのときは、人が行きかう中で飯を作っていて、こんな貧乏旅行のどこがいいのかと心の中で思っていたが、自分もこの年になると、自転車で旅している若者などを目にすると、同じように「いいね…」とつぶやき、郷愁にも似た思いが胸の中に満ちてくる。あのときの駅前のおばちゃん達も、自由に旅している私たちを見て心の底からうらやましく思ったのであろう。

さて、冒頭の写真は1979年の春、南九州をサイクリングしたときのものだ。開聞岳近くの海岸に建っていた国民宿舎の敷地の隅にテントを張らせてもらった。山に登る前と登った後の2泊も。今思えば、当時は若者の旅行にとても寛大であったように思う。行く先々でいっぱい親切にしてもらったのを覚えている。前回(前々回も)のブログ、北海道サイクリングのときには2回も民家に泊めてもらった。札幌と旭川である。どちらも街中でどこにテントを張るか泊まる場所に困っていた。札幌ではたまたま通りかかったおばちゃんに「どこかテントが張れる公園はありませんか?」と訪ねたら、即座に「うちに泊まらんね」と言ってくれたのだ。全く見ず知らずの、しかも汚い恰好の5人組を目の前にして。旭川では同じようにラーメン屋さんに泊めてもらった、道を尋ねただけで…

天山歩荷のあの頃、周遊券、夜行列車、ユースホステルなど、お金を持たない若者の旅を支援する制度に加え、カニ族・エビ族の若者達を温かく見守ってくれる大人達の目が多くあったように思う。
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一枚の写真より2 ~ '78 夏 北海道サイクリング・合宿後

2016年07月31日 | SUWV
この1枚は、合宿解散後の1枚である。
利尻島に向かう前の稚内港と思われるが…(定かでない)



典型的な「カニ族」である。
当時の北海道には「カニ族」や「エビ族」がたくさんいたが、私は正統派の「エビ族」であった。
(注 「カニ族」はキスリングを背負って旅する人のこと。大きなキスリングがカニの甲羅に見えることからこの名がついた。「エビ族」は自転車で旅する人のこと。当時はドロップハンドルが主流で、背中が前屈みに曲がることからこの名がついた。)

【合宿ノート】



-前略-
「が、誘惑に負けてしまった。テントを張るのはずぶぬれは目に見えているので、ない金をはたいて民宿にする。民宿『山田』-。
車で北海道をまわっている三人と相部屋。ビールを少し飲ませてもらい、ばんめし。イカのさしみ、クロイオの吸い物(食べ放題)、同じくフライみたいな…。イカのみそ煮、カボチャ、ワカメの酢につけたやつ、etc。めしを7杯、オニは6杯食べた。
今日はお祭。民宿の表にはステージができていて、僕の出番を待っている。-のど自慢大会-
地元の人たちがカラオケをバックにやっている。旅の想いに、とびいりとして出演。司会者がいろいろと前口上をやって僕を紹介した。何を歌お-かな-。北海道だから函館の人がいいかな-、が前奏がないとちょっと。結局『あなただけを』を歌うことにした。う、う、う、少し歌って忘れてしまった。えーい、色々ごまかして手拍子がないだの、それ行くぞだので、思い出してステージでとんだりはねたり。酔っ払いのおじちゃんが喜んでいる。
ステージからとびおりて帰ると、何と、係の人が封筒をくれた。げっ、1000円も、もうかってしまった。わ-い、わ-い。
つまみを買って、先の三人とともにホワイトを飲んだ。」

以上、ノートを活字に直したが、阿比留さんの直筆の原文の方が味があって面白い。写真を拡大すると原文で楽しめます。
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一枚の写真より ~ '78 夏 北海道サイクリング

2016年07月30日 | SUWV
昔撮った写真が必要になりあれこれ探していたら、懐かしい写真が出てきた。
78年夏の「北海道サイクリングパート」のものだ。



ここがどこだったか記憶が定かでない。
小休止をしている横を、車が砂ぼこりを巻き上げながら走っている。
当時の北海道の内陸部はこんな感じだった。国道ではあるが未舗装の砂利道はけっこう多かったように記憶している。
あのときの合宿ノートに以下の記載があった。

7月23日
「美笛峠までのつらいつらいじゃり道。強い日差しの中、車が来るたびに土砂ぼこりを浴び、ガタガタ道についには手の力もつきた。中には親切な車もいた。僕らの横を通り過ぎるときにゆっくり行ってくれたり、もっと親切なのはバンバン飛ばして大量のほこりをかけてくれて…ありがとうごぜえますだ。」(阿比留)

「自転車はホソウ道路でなければ地獄である。今日は、その地獄をしっかり見てしまった。口で息をすると口が土だらけになってしまうので、鼻で息をすることにした。しかし、重い荷物を積んでの凸凹道では無理だった。気づいたときには口の中はざらざら、鼻の奥はキンキンと痛い。」(鬼塚)



砂利道で苦労したのは土砂ぼこりだけではなかった。もう忘れていた記憶が合宿ノートには綴られていた。



8月1日
「糠平湖を過ぎて2度目の上り坂。後ろから来た自動車がクラクションを鳴らし、運転手が何やらわめき、後ろの方をしきりに指さしている。阿比留さんの自転車がパンクしたのかなと思って引き返すと案の定だった。タイヤをはずし、チューブを取り出しパンクの場所をすばやく見つけ修理完了。さすがPLと思っていたら空気を入れてもぜんぜんふくらまないのである。もう一度チューブを取り出す。さらに2ヶ所のパンクを発見。ところが残りのパッチは2枚で、これを使い切ったら後がない。そこで1枚のパッチを半分に切って使うことになった。これで直ったと思ったらまだ空気が入らない。さらに4ヶ所…、残りのパッチは1枚。これではどうしようもと思ったところに向こうからサイクリスト登場。『ラッキー!』とボクと阿比留さんは心の中で叫んだ。ところがだ…、見つけた穴をふさいでも新たな穴が見つかり同じことのくり返しとなった。そうこうしているうちに鬼塚さんがたまりかねて歩いてくるのが見えた。結局はパンクは直らなかった…」(筆者)

同じ日の阿比留さんの記述

「きのうにひき続きジャリ道。4人は自転車で北海道最大の難所、アルプスに例えるなら大キレットか不帰のケンか、オニの頭かというところであろうか。かくして阿比留氏のタイヤは先に述べたとおりである。上士幌まで後15㎞くらいのところでそうなったわけであるが…。この間実に1時間30分。水入りに大格闘であった。敵は多く、まずは根性あるパンク、続いて砂ぼこり、そして日差し。この3つの敵のスクラムは強くさしもの阿比留氏もやや押され気味であった。すでに豊かな黒髪は老人のそれと変わり、精悍に日焼けしたその肌の毛穴という毛穴はすっかり砂の軍団に埋めつくされ、そのランランたる両目はホコリのため、はや真っ赤に充血。阿比留氏の運命やいかに…
ついにその長い戦いに終止符を打つときが来た。勝利の女神は阿比留氏にささやいた。
『あんたの負けよ。』
が、これくらいでひるむ彼ではなかった。さすが、彼は完全と立ち直り、土砂ぼこりの中を突き進んでいったのであった。上士幌まで14㎞。彼の胸中を去来するものは何か。彼はモクモクとモクモクしたホコリの中を押して行ったのだ。
とまれ、運命の神もこんな彼を見捨てるはずがあろうか。峠でオニ達がさっそうとはいえないもののジャリ道を上士幌に下っていく姿を見つめ、ただひたすらに自転車を押していくその彼の頭上に、いやハッキリ言うなら後方に女神はいた。
パンクした自転車をバンに乗せてもらい、彼は乗れないのでロードを強行した。激しく車のコンボイが通り過ぎる。おー、なんとすばらしい。彼の唇からは歌が、その顔からはほほえみが…
歩くこと5~7㎞。上士幌まで8㎞もあろうか。両サイドには牧場が広がり、彼の前には真っ直ぐな道が続いていた。
『のどが渇いた。水、水はないか』そんなものはどこにもなく、渇きはやがて痛みに変わった。そのとき彼はまさに天の声を聞いた。とたんに左手をパッとあげた。キー!車のとまる音。

かくて彼は上士幌駅へ着、オニと再び会うことができ、二人はヒシとだきあったのであった。」


【合宿ノート】



その表紙


上の方に、「78年7月16日印刷 8月5日発行 責任者:阿比留」の文字が…
(写真を拡大したら読めますよ。)


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「テント背負わされケツはたかれて…」  

2016年02月19日 | SUWV
「新人哀歌・新歓登山」で、新入生歓迎登山の様子を紹介しました。
でも、あれは私が3年生の時の新歓です。

今回は、私が1年生の時の新歓の様子です。
九重の坊がつるにテントを張って2泊3日の山行でしたが、途中から雨になり2日目は沈殿でした。
結局、坊がつる往復で帰ってきたわけです。
残念というより、ホッとしたというのが正直な気持ちでした。

「新歓」の正式名称は「新入生歓迎ワンデリング」です。
歓迎とは名ばかりで、初めて背負うキスリングは新人泣かせでした。
「ワンゲルずんどこ節」という山の歌がありますが、そんな新歓登山の様子をよく歌い上げています。


  テント背負わされ ケツはたかれて
  アゴを出します胸つきながら
  登りゃ稜線頂上も近し ヤッホヤッホの声がする
  ドコズンドコ ステテコ シャンシャン


(初めてのキスリングを背負う新人達)


(三俣山山頂にて)



新歓で登った山は、初日の三俣山だけでした。
後は雨のため坊がつるに沈殿です。
でも、この時の九重登山が私の山登りの原点です。

印象に残っていること(長くなりそうなので箇条書きで)


・部室から佐賀駅までのキスリングを担いでのロード
・鳥栖駅での立ち食いうどん
・1日目の昼食のオープンサンド
・食器洗いの時、コッフェルに残ったご飯粒をビニール袋に針金で穴を開け濾し取ったこと
(この時の印象は超強烈!徹底して山を汚さないということを目の当たりにした瞬間でした)
・テントの中でのゲーム(バカ騒ぎ)
・テントの中でみんなで歌った山の歌(一転してしんみりと)
 とりわけ「坊がつる讃歌」 「ここではやっぱこの歌じゃろと」
・「ご飯の歌」と先輩達のカレーを食べる速さ。速く食べた者だけおかわりができるというワンゲルルール
・「ブキ」「キジうち」「キジ紙」などのワンゲル用語
・先輩方のテンションの高さと笑い声、そして絆の強さ(雰囲気として、驚くほどに…)



     「ワンゲルずんどこ節」

破れズボンにドタ靴履いて 肩で風切るおいらの姿
だてじゃできないワンゲル暮らし 山の男はつらいもの
ドコズンドコステテコ シャンシャン
  
汽車は出て行く佐賀の町を 可愛いあの娘がまぶたに浮かぶ
明日は南か九重の峰か 木の根枕の渡り鳥
ドコズンドコステテコシャンシャン
  
テント背負わされ ケツはたかれて アゴを出します胸つきながら
登りゃ稜線頂上も近し ヤッホヤッホの声がする
ドコズンドコステテコシャンシャン
  
嫌じゃありませんかワンゲル食堂 ガンタ キジメシ ヤキメシ オジヤ
今日もクジラのゲップが出れば ホームシックも無理じゃない
ドコズンドコステテコシャンシャン



あれから38年。
山登りの様相もずいぶんと変わりました。
今どき「破れズボン」で登っている人はいません。
山登りもファッションの時代です。
でも、山や、山に登る人の心は昔のままで変わりません。
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この冬一番の寒気の中… 同期会

2016年01月24日 | SUWV
「数十年に一度の強い寒気 西日本を中心に大雪や暴風などに警戒」とニュースの見出しが躍る中、ベトナムに行ったTの帰国に合わせ、同期7人が博多に集まった。
昼過ぎ、天気を心配して、Iから「本当にあるのか?」と電話がかかった。
(さすが、Iはワンゲル時代は遭対(遭難対策)担当だった。)
山なら即中止なのだが、街中なら何とかなるだろうと予定通り決行。

実に愉快な時間だった。





みなさん、お疲れ様でした。
次は7月に会いましょう。
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「青春時代の真ん中は…」

2015年11月30日 | SUWV
森田公一とトップギャランが歌った「青春時代」の歌詞の一節です。

  青春時代が夢なんて 後からほのぼの想うもの
  青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり


本ブログでも、今でこそ懐かしくワンゲル時代を振り返っていますが、あの頃は「青春時代」の歌詞さながら、けっこう道に迷い、みんな悩んでいました。そんな心の内面を同期の一人が「木霊」に綴っていました。


「大崩へ行ったころ」 「木霊 第8号(1980年度版)」 

  いつのことだったろうか。私が大崩へ行ったのは。もう何年も過ぎたように思う。今思うと、机の中からふいに出てきた色あせた記念写真の思い出のように思える。
  当時、私は20才だった。最も血気盛んなころであったように思う。と言っても、クラブの方針とか、パートのことなどがあり、そんなに地道に走ることもなかたようだが、ともかく何も分からず、よくも考えず、ただ前に行くのみ、そう、いのししの様な時代であったように思う。
 「視野を拡大しよう。」「領域を拡大しよう。」こんな旗印のもとに、執行部を作った私達は、何かをせねばならなかった。ともかく何かを、ただ目の前にせまった行事としての合宿をこなすということではいけないのだ。往々にして私達は、安易さを求めるが故に、前者の通った道を歩もうとすることがよくある。そのときは、「前にもやったことですが…。」とか、「…がちがうのだ。」と思う。しかし実際は人のやった安全な道に、何かをつけ加えたことにすぎない場合が多い。なんとかして、そうなることをさけたかったのだ。そんなことを思い、何かをせねば、何かをせねばと、いつも心を急にしていたように思う。
  しかし、だからと言って、私の合宿―冬、春、夏―を通して考えてみて、方針に合っているものがあったか、ということがわからない。ああ、お釈迦様の掌。
  この時期は、私の人生を変えるようなことがいくつか起こった。他人から見ればささいな事に思えるだろうが、私にとっては、特に大きく心を占めているのである。多感であったと言ってしまえば何でもないが、色々と感じ、思い、考え、悩んでいた。当時私には、女がいなかった。女がいたらまた別であったかもしれない。しかし、私はこの時期を過ぎたとき、急に疲れを感じた。齢をいくつかまとめて取ったような気がする。しかし、もしこのような時期がなかったとしたら、私は、いつまでも青いままでいることができたかもしれない。「ブリキの太鼓」という映画があった。成長の止まった少年が、時代を見てゆくのだ。そして、その少年のブリキの太鼓に合わせて、ヒトラーや、兵隊や、時代がおどるのだ。もし私がブリキの太鼓を持っていたなら、ブリキの太鼓をたたくならば、ああ涙。
  私は、この時代に感謝しようと思う。




青春時代をともに過ごした同期の仲間達 (ガスの久住山頂にて)


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山の愛蔵本

2015年11月28日 | SUWV
ワンゲル時代の山の本は今も大切に持っています。

1 「九州の山 アルパインガイド」 山渓


「九州の山」は、あの当時のワンゲル部員はたいてい持っていました。私のは「昭和53年版⑨」となっていますから、大学に入学したときのです。


2 「上高地・槍・穂高 常念・燕・乗鞍岳」 山渓


当時のガイドブックは情報量が豊富です。活字が小さい分、文字がいっぱい詰まっています。写真も白黒で小さいく、今のガイドブックと比べると地味ですが、書いてある内容には今のそれはおよびません。今ではお節介と言われるようなマナー面や気持ちの持ちようまで書いてあります。今年北アルプスに行くにあたり読み返しましたが、文章に著者の山に対する哲学がにじみ出ていて、読みごたえのあるものでした。ちなみに、著者は三宅修さんです。

-中身-




3 「登山指導者研修会テキスト」 文部省


当時の文部省が出している堅い本ですが、このテキストを使って合宿前に遭対(遭難対策)の講習会をしていました。


4 「山の気象と観天望気」 日本登山学校編


同じく気象の講習会で使っていたテキストです。今は山の上でも携帯で天気に関する正確な情報を入手することができますが、当時は午後4時の気象通報をラジオで受信して自分たちで天気図をつけていました。それと五感による観天望気。これは今でも役に立っています。


5 「高山植物入門 見分け方と写し方」 白旗志朗 山渓 


花を見たり写すのは好きですが、名前を覚えるのは苦手です。この本は阿比留さんにもらったものです。


6 「SONG '80 うたごえ SUWV」 


以前も紹介しましたが、手作りの歌集です。大塚さんの編集だったと思います。「遠き山に日は落ちて」から始まって「シャローム」まで、全52曲。「坊ケ鶴讃歌」(←当時の表記)は7番まで載っています。ミヤマキリシマのくだりは当然「ピンク」となっています。
→ 「ミヤマキリシマ咲き誇り 山はピンクに…」
→ 「やっぱりピンク」
→ 「てっちゃんの歌の本」

7 「'79-MOUNTAINEERING EQUIPMENT」('79 登山用品カタログ)


-裏表紙-


中にはあの頃の登山用品がギッシリ載っています。一年生の頃、入部早々に小倉の「みづた山の店」に連れて行かれました(強制連行?)。何も分からないまま登山靴、靴下、雨具、ニッカズボンを買いました(買わされました)。高価な登山靴を買ったら簡単には辞めないだろうといういう、新入部員をはなさないための作戦だったようです。また、一年生は餞別等でお金を持っていることも先輩達はちゃんとご存知でした。連れて行ってくださったのは二年生の岡崎さんでしたが、お元気でしょうか?


8 「木霊」
「1978年版」


「1980年版」


1980年版は、自分たちが執行部だったときのもの。何度も読み返しているうちに表紙が取れてしまいました。
→ 「忘れえぬ言葉『木霊』より」

次回は、これに載っている「大崩に行ったころ」を紹介します。(書いたのは同期の一人です。)
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懐かしいスナップ写真

2015年11月26日 | SUWV
去る11/14,15に、先輩方を中心とした同窓会が日南市で開かれました。参加されたみなさま、お疲れ様でした。また、幹事をされたD道さん、お世話様でした。私は準仕事で参加できませんでしたが、同期のSさんから楽しかった様子を聞いて、一年前のみなさまのステキな笑顔を思い出したところです。

さて、その会と関係あるのでしょうか、最近SUWV関係の記事へのアクセスが急増しています。ブログ主としてはうれしい限りです。

「思い出のスナップ2」へのアクセスも多いのですが、次のスナップ写真もあの頃の記録写真として価値あるものだと思っています。なにげない日常の1コマを写しているわけですが、当時の私たちの様子をよく写し出しています。

「思い出のスナップ3」 ← 詳しくはここをクリック

以前アップしていた写真を大きいのにしてみました。


また、こんな写真もあります。「思い出のスナップ1

これも大きくしたらテントや、何やら活動している他の部員達も後ろの方に写っていることに気づくと思います。テントは最強と謳われたウインパー、今どきあんな重いテントを使う人はいないだろうな…。ブスやコッフエル。キスリングにきれいにパックするための必需品だったタバコの空き箱。一回分ずつ小分けにした米袋。写っている一つ一つがどれも懐かしいです。おーい、待鳥、八島、俊成、元気にしているか?

合宿や行事の集合写真も懐かしいのですが、それらと同じくらいにあの頃の日常の様子を切り取ったスナップは懐かしいです。よくぞ写していたなと今になって感心します。あの頃写真は、フィルム代、現像代、プリント代とお金がかかり、今のデジカメのように気軽に写せなかったものですから。
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島根へ 

2015年04月27日 | SUWV
先日の会の折に、前田の結婚式に行ったときの島根の写真をアップしてくれとの要望がありました。

あれは30年も前のことです。
O塚さん、S島、T良、私の4人は車で結婚披露宴のある島根を目指したのでした。


初めての島根でしたので、はりきって披露宴の2日前に佐賀を出発しました。
そして披露宴の前日は精力的に島根観光をしました。






















有名な玉造温泉にも入るなど遊びまくりましたが、ちゃんと披露宴には出席しています。(当然!)


これは披露宴翌日、先輩方です。


披露宴があった夜は、前田が用意してくれていたビジネスホテルでド宴会が催されました。奥さんも活水ワンゲルOGでしたので、友人達が集まったホテルの一室はさながら合ワンの賑わいで、一般の宿泊のお客様にずいぶんと迷惑をかけてしまいました。
また、あの夜にみんなで食べた鯛茶漬けは、30年たっても話題になるほど印象深いものでした。はしゃぎすぎて夜中に腹をすかせたA氏が、引き出物の中から赤飯と鯛の塩焼きを見つけ、鯛の身をほぐして赤飯の上にのせお茶漬けにしたところ、これはいいぞとみんなに勧めるものですから、みんな真似をして鯛茶漬けタイムになったというわけです。
あれから30年、前田はどうしているかな。東京にいるものだからなかなか会えないけど…
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乾杯

2015年04月26日 | SUWV
「朋遠方より来る有り、亦楽しからずや」(論語)

自分の生きがいを求め、日本を離れ頑張っているTの一時帰国に、乾杯!

 (写真はイメージです。30年前のもの…)



「男性陣は(容姿が)変わったね」と言われましたが、気持ちはあのときのままです。
相田みつをさんの「一生感動・一生青春」をモットーに、健康に気をつけてお互い頑張りましょう。
昨日はありがとうございました。
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