TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

山の落とし物

2020年07月03日 | 山にまつわる話
上山山頂のベンチに


誰かが忘れたであろう帽子がありました。


山頂から北口の向かう途中にも



誰かが目立つように掛けてくれたのでしょう



私も以前、上山で帽子を落としました。
翌日探しに行ったら、誰かが掛けてくれていました。



数年前の冬も、普賢岳で手袋を落としたのに気づきあわてて探しに戻ったら枝に掛けてありました。



ありがたいことです。

忘れ物、落とし物はしないにこしたことありません。
遠くの山だったら、親切に掛けてもらっていてもどうすることもできませんので。
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山弁当 超簡単!

2018年10月28日 | 山にまつわる話
久しぶりに手作り弁当で山に登りました。
ご飯を炊いてあり合わせのものをタッパーに詰めただけですが、お昼が楽しみでした。

これがその弁当です。



メインは昆布の佃煮と高菜の炒め物。

このタッパーだったら重ねてザックの中にきれいに収まります。


普賢岳山頂



色づきはじめた雲仙の山々を見ながらのランチタイム






山登りで疲れたからだには、塩分多めの佃煮や高菜の炒め物がことのほか美味しく感じられました。
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テント

2018年07月16日 | 山にまつわる話
息子より写真が届きました。
職場の先輩とキャンプに行ったとのことでした。



奥に見える小さなテントがそれです。
譲ったテントが役に立っているのを見て嬉しく思ったところです。





このテントは9年前に祖母・傾を縦走しようと思い立ち購入していたものでした。
ところがこの山行は計画倒れに終わりました。

その後、このテントは使うことなくたんすの肥やしとなっていました。
今年の春、大掃除をした折に眠ったまま未使用のテントをどうするか思案しました。
山岳用にと数あるテントの中から選びに選んだライペンエアライズ2ではありましたが、これからも使うことはなさそうです、年も年だし…。そう考えたら少し寂しい気持ちになりましたが、息子にテントの話をしたところ「ほしい」とのことだったので譲ることにしたのでした。

そして届いたのが今回の写真です。
ファミリーキャンプでは狭くて使い勝手が悪いかも知れませんが、使いこなす中でこのテントの良さが分かってくると思います。
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川原慶賀展

2017年11月07日 | 山にまつわる話
川原慶賀展を見に長崎歴史文化博物館へ行ってきました。



川原慶賀はシーボルトのお抱え絵師でした。
シーボルトはその著書「日本植物誌」で、多良岳のツクシシャクナゲを日本で一番美しいシャクナゲとして世界に紹介しましたが、その原画を描いたのが川原慶賀です。


その実物を見ることができました。

【パンフ】




原画を見ることが目的でしたが、今回の川原慶賀展は、「特別企画展『川原慶賀の植物図譜』」と題してなんと125枚もの植物のスケッチが展示してありました。展示室には貸し出し用のルーペが用意してあって、何に使うんだろうと思いながらもな「なんでも鑑定団」の真似をしてルーペ越しに原画を見てビックリでした。ふつうに見てウマいなと思っていた絵が、拡大してみると細部にいたるまで実に緻密に描いてあることに気づきました。

例えば、パンフレットの表紙の「冬瓜」では、瓜の表面にある毛は勿論のこと、蔓の表面に生えているうぶ毛の一本一本、葉っぱの葉脈や葉の裏のうぶ毛、茎の切り口の維管束まで実に精緻に描きあげていました。写真より精巧な描写です。なぜならば写真はその画面のすべての部分にピントを合わせることができないからです。1枚の絵がそれ自体で完結しており、まるで小宇宙のようでした。そんな絵が何と125枚もあるのですからもう興奮しまくりでした。



慶賀展で別の発見もできました。パンフにもあるように
「むむ?慶賀かこれも!」


「蘭人絵画鑑賞図」 (これは撮影OKでした)


絵を見入る蘭人さんの顔が実にユーモラスで「これも慶賀?」とビックリです。


「瀉血手術図」 (これも撮影OKでした)








「年中行事絵『正月図』」 (撮影OK)




文化の秋を思う存分堪能し、充実の一日となりました。
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チームラボ御船山 ~ かみさまがすまう森のアート展

2017年10月10日 | 山にまつわる話
チームラボという言葉さえ知らぬまま御船山のそれへ行ってきた。
山のライトアップくらいかなと軽く考えていたらとんでもなかった。


午後5時40分頃。開園前の行列に驚く。紅葉の時季でもないのに…
「それにしても若い人が多いな…」



しばらくして後ろを見ると…。「何よこれ!」
このときおじさんは思った。「チームラボってすごいのかもしれない」と。



やっとの思いで入園


何々、「かみさまがすまう森のアート展」?


「忘却の岩群(いわむら)」


ゆっくりと呼吸をするかのように明滅していた岩が、人が近づくと神秘的な音響とともに強く輝く。
しかし、おじさんはこれくらいでは驚かない。


「岩割もみじと円相」

岩をスクリーンにして墨で書いたような文字が動いていく。何となくミステリアスのこの線は、パンフによると禅における書画のひとつ「円相」だそうだ。
おじさんは思った。
「だから?」



「かみさまの御前なる岩に憑依する滝」



「増殖する生命の巨石」



「夏桜と夏もみじの呼応する森」





「生命は連続する光 - ツツジ谷」



写真だけ見るとクリスマスのイルミネーションのようだが、クリスマスのそれとは違い、人に反応して木々が光り、その光にさらに周囲の木々が反応して森全体に光と音が伝播していくのだ。まるで森が生きているかのように。
よくできた電飾におじさんは軽いめまいを覚えた。

ここまでで十分満足していたのだが、次の池に浮かぶ小舟と鯉のペインティングでは完全に打ちのめされてしまった。
「何よこれ…」



「小舟と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング」



遠くより、青白く光る小舟が近づいてくる。


船に戯れはじめる鯉






何だ何だ?


鯉が急に走り出した。


その軌跡があれよあれよという間に湖面を塗り上げていく。















まったく予備知識がなかった分、この演出に度肝を抜かれた。
おじさんは心の中で叫んだ。「ブラボー!」と、何度も何度も。

チームラボを軽く考えていたおじさんの完敗だ。
カルチャーショックという段ではない。
しばらく動けなかった。

この後、その場に留まりこの演出をさらに2回も見た。











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憧れの「北アルプス・サバイバル登山」

2017年09月16日 | 山にまつわる話
学生時代に「屋久島サバイバル」などとたいそうな名を打って合宿を行ったが、海岸で行ったあれはサバイバル的な合宿であり、サバイバルへの憧れであった。サバイバルというなら、暴風雨に耐えたあの宮之浦分岐の一夜こそがむしろそれに近かった。

あの頃、登山とサバイバルのカテゴリー分けは、テントやブスなどの便利な装備品を使うかどうかの差でしかなかったと思う。国立公園の特別保護地区では焚き火が禁止だったので、焚き火への憧れが登山とは別の形態としてサバイバルを生み出したのではないか。


北アルプスで次のようなサバイバル登山をしてはどうだろうか。

仮想・北アルプス・サバイバル登山
今回の合宿ではテントやブスは一切使わない。現代文明への挑戦だ!
寝るのはもっぱらフカフカした高山植物のベッドの上だ。ハイジの干し草のベッドにはかなわないだろうが… 夜は冷え込むが、晩飯を作ったときの焚き火の燠で暖は取れる。露よけには油紙でも掛けておけば十分さ。満点の星に包まれてまどろむのは最高だよ。なに?高度一万尺では星のランプが明るすぎて眠れないって、何を贅沢言っている!
雨の日には岩屋を探すさ。槍ヶ岳を開いたという播隆上人も何日も岩屋でビバークしたというじゃないか。大丈夫、大丈夫。そんな野性味あふれるワンゲル活動をしたかったんだろう。
食糧だけど、主食の米と味噌だけは持参してそれ以外は自然の中から調達することにしよう。
何?よくそれでサバイバルって言えるねって?米だけは勘弁してよ…。
おかずは近くにいる雷鳥を捕まえて料理しよう。豚汁ならぬ「雷鳥汁」は絶品らしい。


どうだろう、ワクワクするような計画だ。しかし、これを実行すれば間違いなく新聞に載り、自然愛好家から非難ごうごうであろう。いやその前に自然公園法違反で逮捕されるかもしれない。


しかし、100年前はこれこそが北アルプスの普通の登り方だったのだ。辻村伊助の日本アルプス黎明期の紀行文に、そのことが綴られている。


飛驒山脈の縦走」(1909年) 辻村伊助  

 「ここを一夜の宿と定める。火が焚かれ、飯が煮える、嘉門治が蓮華で打った雷鳥の味噌汁もできあがる。実はこれを取ったとき、まだろくに舞えぬ雛が、側でピーピー啼くのを聞いたら、何だか妙な心持ちがして、今夜の料理は断じて食うまいとまで、決心したけれど、肉となって鍋の中に浮いていれば、そんな心持ちは毛頭おこらない、忘却は人間至上の幸福である、肉を食わなくともあの雛を如何することもできないと、思い切って箸をとる、肉は鶉(うずら)に似てすこぶる美味だ。」
(「嘉門治」の表記は原文のまま)


 「草の床に草鞋(わらじ)を枕にして寝ていると、嘉門治は自分の桐油紙を出して、我等の上に屋根を張ってくれた、わしは荷が軽いから疲れましねぇと、人足を焚き火の側に、自分は夜露のかかる草の中に寝ている。」


 「窟(いわや)の中には一面に雪が溜まって、外よりなお冷や冷やする、やむを得ず、焚き火の側に桐油をひっかぶって、ごつごつした岩の上に寝ることにする、例によって少しも眠れない。うとうとする瞳を貫いて、かっと電光がほとばしる。驚いて飛び上がる耳もとに、槍も崩れたかとばかりどっと雷が鳴った。あとは再び寂然として、槍ヶ岳の夜は太古のごとく森厳である。」





岩屋での宿泊。そんな目で多良岳を歩いていると、泊まれそうな岩屋はけっこういっぱい見つけることがでる。でも、多良岳は日帰りだし… 

県外では

【祖母山:天狗の岩屋】



【大崩山】

これらは水場もすぐの所にある。今度泊まってみるか…
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晴登雨読2 辻村伊助の「神河内」 VS 三宅修の「上高地」

2016年06月28日 | 山にまつわる話


辻村伊助の続編です。氏の代表作である「スウィス日記」は読んでいません。
実はこの「ハイランド」という本の「ハイランド」は読んでなくて、日本の山に関するものだけ愛読しています。

「飛驒山脈の縦走」
「高瀬入り」
「神河内と常念山脈」
「嘉門治を憶う」
「登山の流行」

本ブログ「独り言」で、変わりゆく多良岳を嘆きましたが、同じような思いが「神河内と常念山脈」にはくり返し綴られています。本書の解説にあたる「解題」を書かれた小島鳥水氏の言葉を借りると神河内を愛する者の「慟哭の声」です。

「上高地」は、辻村氏の書籍では「神河内」と表記されています。
(地名の表記の変遷でしょうか。「雲仙岳」が昭和9年以前は「温泉岳(読みは「うんぜんだけ」)」と表記されていたように)


「神河内」から変わった「上高地」のシンボル的存在 河童橋と梓川


梓川の清流と河童橋に代表される上高地は他の観光地とは一線を画する特別な聖地と思っていました。
しかし、100年前に、変わりゆく神河内に辻村氏は「慟哭の声」をあげています。

次の文章は「神河内と常念山脈」の中から氏の文章の抜粋です。

「上高地はすでに神河内ではなかった。桂、栂(つが)、落葉松、ことに思い出多い白樺はいつの間にか伐り尽くされて、白い冷たい切り株が、僅かに昔を語っているだけである。伐り残された小梨の幹に寄りかかって、しんとした山の空気を振るわせて、地響きをさせながら倒されてゆく森の木立を見つめた時、こうしなくては生きてゆかれないのかと、腹が立つよりも、なさけない心持になってしまった。」
- 途中省略 -
「かくして神河内は林道が直線に貫かれてから、河童橋が、田舎臭い釣橋に変わってから、渡りものの人足が浴場で俗謡をうなるようになってから、交通が便利になったと云う名のもとに、茶代の受取が活字で組まれ、茶碗に温泉の名が焼きつけられ、手拭が間違いだらけの横文字で染められて、温泉は「上高地」と云う名と共にしかく俗了してしまったのである。」
- 途中省略 -
「くれぐれも云う、神河内ならぬ「上高地」は不快なところである。」


ここまで断言されたら「上高地」はいよいよピンチである。
今の上高地を見て感嘆の声を上げる人たちは私を含めて立つ瀬がない。
ところがだ、そんな辻村氏の意見を承知の上で三宅修氏は、昭和51年「山渓」発行の「上高地・槍・穂高 常念・燕 乗鞍」アルパインガイドの中で、私が引用した辻村氏の文章をそのまま紹介し、次のように述べています。

「失われていく仙境への愛惜を述べたのは「スイス日記」の辻村伊助である。なんと大正元年のことだ。それから世界も日本も、変わりに変わり、人間が月面を歩く時代になった。大正時代から比べたら、上高地は昔をしのぶよすがもあるまい。バスが老若男女を吐き出し、自家用車やタクシーがほこりを巻き上げて走る。それでも、かっての栄光を知らない私たちには、上高地は美しい。他の要素がどんなに変わっていても、仰ぎ見る岩峰も、流れゆく梓川もすべて心をとらえる。 - 途中省略 - その時代に生きるものにとって、その時代のよさこそ永遠のものだ。上高地をはじめて訪れた人は、昔の人が受けたものと同じくらいの感動や驚きを、今も受けている。河童橋のほとりで、そんな歓声をいくらでも聞くことができる。それでいい。上高地に来たら、昔の上口(古文書による「上高地」の表記)を求めることはない。腹の底からいいな、と思ってほしい。それがあなたの心に、いつかあなただけの上高地をつくることになる。」

すごいですね。辻村氏の「慟哭の声」もすごいのですが、真っ向から反論した三宅氏もすごい。
今を生きるものの一人として三宅氏の文章に救われる思いです。

「アルパインガイド」は私が学生時代に使っていたガイドブックですが、内容が今のそれよりはるかに抱負です。山のルートガイドだけでなく、山の歴史や自然、山に対する考え方や心の持ちよう、そしてマナー面まで網羅しています。「昔のはよかった」などといえば、先ほどの上高地論争と同じで、その時代その時代のガイドブックこそがあなたにとって最高の一冊と若い人から意見されそうです。

【学生時代から使っている年代物のガイドブック】


【小さな活字がびっしり組まれたその中身】


今回もついつい長くなりました。(同期のSさんから「写真は見るけど、文章は読まんちゃん」といつも言われているのですが…)

最後に、アルパインガイドに書かれている心の持ちようについて紹介します。
昔のガイドブックにはここまで書いてくれています。

「上高地の中心、河童橋のあたりには宿の浴衣がけ、ミニスカートやショートパンツにサングラスといった人影が往来する。その間を大きなザックの登山者パーティが通る。奇妙な図柄だが、こんなことに驚いても嘆いてもはじまらない。目を上げれば大きな風景が広がっている。それはいつも変わらない山々である。まわりの旅館が立派になったり、いろいろな人が来たりしても、山の姿も川の流れも昔のままだ。山と向かいあっていつも新鮮な喜びにひたりたいなら、よけいなものは見ないほうがいい。自分の心の持ち方さえ整えておけば、たとえ夏の上高地でも、すばらしい土地になるはずだ。」


晴登雨読の後はビール!
山に登っても、登らなくても一日の終わりはビールなのだ。


どうです、このグラス。先週、父の日のプレゼントに娘からもらったその名も富士山グラスです。
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晴登雨読  「飛驒山脈の縦走」・辻村伊助

2016年06月26日 | 山にまつわる話
3週間ぶりです。
久しぶりなのでテンプレートを模様がえしました。

前回のブログで、山登りの三拍子は「時間、体調、天気」と書きましたが、その3つはなかなかそろってくれません。昨日は久しぶりの休日でしたがあいにくの雨で、カッパを着て登るほどの登魂はなく、晴登雨読とばかりに本を読んで過ごしました。

愛読書、辻村伊助の「ハイランド」



この本の中に収めてある「飛驒山脈の縦走」が好きです。久しぶりに読み返しました。

これは明治42年に筆者が上高地から槍ヶ岳、双六、鷲羽岳、赤岳、黒岳、真砂、野口五郎、烏帽子岳を縦走し濁沢から大町に下山するまでの5日間の紀行文です。
100年以上前に書かれたものですが、文章に古臭さは一切なく、むしろ格調高くリズミカルです。なによりも書かれている内容が新鮮で、当時の山行の様子に憧憬を抱きます。

昨年北アルプスに登りましたが、宿泊と食事は山小屋を利用しました。
35年前のワンゲル時代はテント泊で、食事はブスを使っての自炊でした。
この本に記されている100年前の山行はすべて野宿です。(以前「旅と野宿は男の至福」にも書きましたが、「野宿」という言葉に冒険心がくすぐられます)
「劒岳 点の記」の劒岳登頂も明治の同じ時期ですが、あの測量チームはテント泊だったので、てっきり辻村氏達もテント泊だと思っていたら違っていました。桐油紙と言われる油を塗った紙一枚で夜露をしのいでいた様子が描かれています。そして食事はすべて焚き火。極めつけは、途中仕留めた雷鳥を味噌汁にして食する場面、今では考えられません。その場面を紹介します。

(三俣蓮華の山頂に立った後、濃霧でさんざん道に迷う。急斜面の雪渓を鉈で足場を刻みながら下り、ほうほうの体でさまよい歩いた後大きな岩に出会う)
「ここを一夜の宿と定める。火が焚かれ、飯が煮える、嘉門治が蓮華で打った雷鳥の味噌汁もできあがる。実はこれを取ったとき、まだろくに舞えぬ雛が、側でピーピー啼くのを聞いたら、何だか妙な心持ちがして、今夜の料理は断じて食うまいとまで、決心したけれど、肉となって鍋の中に浮いていれば、そんな心持ちは毛頭おこらない、忘却は人間至上の幸福である、肉を食わなくともあの雛を如何することもできないと、思い切って箸をとる、肉は鶉(うずら)に似てすこぶる美味だ。」

(文中の「嘉門治」はあの上條嘉門次さんのことですが、本書ではこう表記されています。)

宿泊の様子もダイナミックです。

「草の床に草鞋(わらじ)を枕にして寝ていると、嘉門治は自分の桐油紙を出して、我等の上に屋根を張ってくれた、わしは荷が軽いから疲れましねぇと、人足を焚き火の側に、自分は夜露のかかる草の中に寝ている。」

一泊目、槍ヶ岳手前の坊主小屋での宿泊の様子。
(「坊主小屋」は国土地理院の地図にも「坊主岩小屋」と記載されている槍岳開祖・播隆上人がこもったという単なる岩の穴)

「窟(いわや)の中には一面に雪が溜まって、外よりなお冷や冷やする、やむを得ず、焚き火の側に桐油をひっかぶって、ごつごつした岩の上に寝ることにする、例によって少しも眠れない。うとうとする瞳を貫いて、かっと電光がほとばしる。驚いて飛び上がる耳もとに、槍も崩れたかとばかりどっと雷が鳴った。あとは再び寂然として、槍ヶ岳の夜は太古のごとく森厳である。」

こんな感じで、100年前の飛驒山脈の縦走の様子が綴られています。読みながらワクワクします。何度読んでも憧れます。このようなワイルドな山行がしたい、と。
また、風景の描写も実に巧みです。出だしの一文だけ紹介します。気に入られた方はぜひ原文をお読みください。約20ページの山岳紀行文です。

「河沿いの、楊(やなぎ)も樺(かんば)も水音も、ただ一色の朝霧の底に鎖(と)ざされて、梓河原は呼ぶとも醒めぬ景色である。」

リズミカルで何と美しい文章でしょう。音読するといっそう味わい深いものになります。


ところで、辻村伊助氏は「日本アルプス」という当時はやりだしたこの言葉が嫌いです。
この本に収められている「登山の流行」の中に次のような一文を見つけました。
「かって、飛驒山脈の連峰、今、日本アルプスと云う不快な流行語を与えられている山岳地を…」

また、別の一文にはハッとさせられました。
「重い荷物を自ら背負い、幾度も幾度も瀑布のような激流を渡って、一歩一歩山に近づいて行った、かくして彼等は永久に絶えることのない希望を抱いて山また山と放浪したのだ。あるものは、幾度か生死の境を出入りした、そして彼等の心を理解し得ない人々の嘲笑に対して、無関心に、何等の弁明をしようとする気にすらならずに、一向に彼等の信念に基づいて行動した、登山の利益とか、弊害とか云うことは、彼等に対しては何等意味をなさなかったのだ。」 (「登山の流行」辻村伊助)

純粋に山に登っていたワンゲル時代のことが100年も前に書かれていたのです。

35年前、「なぜ山に登るのか?」という級友からの問に対して、同期の末永は
「山はすかん。すかんけん登るったい。」と答えていましたが、今は亡き彼の笑顔が思い出されました。


書きだしたらついつい長くなりました。辻村伊助氏についてはまた後日第2弾を出します。



晴登雨読、やがて昼になり、無性にうどんが食べたくなりました。
うどん屋は近くにも4、5軒あるのですがそれらを通り越してわざわざ順番待ちのできるうどん屋さんに出かけました。その店の手打ちうどんの食感が忘れられなかったのです。あまり食べ物にこだわらない自分としては珍しいことです。

お目あての「とり天ざる大盛り」


コシのあるうどん2玉とジューシーな鶏の唐揚げ5個のセットで、一度食べたらやみつきになります。
この店はいつも行列ができているのですが、並んででも食べたくなるおいしさです。

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「氷壁」

2015年09月13日 | 山にまつわる話
夏の北アルプスに行ってから無性に井上靖の「氷壁」が読みたくなった。
山の資料を見ていたら、「氷壁の宿・徳沢園」といった具合に、やたらと「氷壁」の文字が目に入ったからだ。

これまでに本はずいぶん処分したが「氷壁」は残していたはずだと、本棚を探した。


よくぞ無事に…、われながら物持ちのよさに感心する。


はたして三十数年ぶりの「氷壁」だが、私自身が年を取ったせいか、主人公より主人公の上司である常磐大作の言動にほれぼれしながら読み進んだ。
この物語が書かれたのが半世紀以上も前なので、今とは全く社会情勢や組織の考え方が違うわけだから、単純に常盤大作の考え方を今の時代にあてはめることはできないと分かっていながらついハマってしまった。

山登りのために無断欠勤や給料の前借り、はては山岳遭難まで引き起こし会社に迷惑をかけ窮地に追い込まれた部下を、会社の上層部の不興をかってまで守り抜こうとする常磐の生き方は、まるで一服の清涼剤のようだった。

物語の結末はすっかり忘れてしまっていた。
主人公の魚津が、婚約者を残して滝谷で落石に遭って死ぬ件では思わず「えっ!」と声を上げてしまった。物語ではあるが、魚津まで死なせなくてもと井上靖氏を恨めしく思った。

常盤大作は魚津の死を職場で伝えるときに、黙祷の後にいつもの大演説をぶった。死者にむち打つようなことは避けながらも、熱弁の結びは「ばかめが!」だった。

「ばかめが!」の言葉に、常磐のいいようのない悲しさと魚津に対する愛情の深さがにじみ出ていた。

「氷壁」といえば、ナイロンザイルが登攀中に切れたことで、様々な憶測が飛び交う中パートナーを信じて疑わない山男の友情がテーマのように書評等で紹介されているが、やんちゃな部下と上司の人間愛という視点で読み解いても実に味わい深い作品であった。
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眺望 ~ 阿蘇山

2015年01月07日 | 山にまつわる話
今日の朝は珍しく遠くの山がきれいに見えました。
多良岳や雲仙の山々が今まで見たことがないほどきれいに。

カメラを家に忘れていたので、その美しい景色は写すことができませんでした。
「まあ、いいか。地元の山なのでいつでも写す機会があるから」と目に焼き付けました。

用事があって島原の実家でのことです。85歳になる父が「阿蘇が見えている」と言うので、有明海越しに熊本方面を見るとこれまたクリアに山々を見ることができました。
「どれが阿蘇ね?」と私が尋ねると、「煙が上がりよるたい」と父。
よく見ると、天気のよい日に見ることができる山のそのまた奥に、うっすらと山を確認することができました。目が慣れてくると確かに噴煙まで確認することができました。

島原に育った私も、家から阿蘇山を見たのは初めてのことで、その神々しい様に身震いしました。父も、毎朝のように日の出を拝むが、阿蘇まで見えることはめったにないと感激していました。

「次、いつ見ることができるだろうか。カメラで写しときたかったな…」と、後悔すれど後の祭り。携帯電話で写してはみたけど無駄な抵抗でした。一期一会ならぬ「一期一絵」を逃さぬように常にカメラは携行しようと心掛けていたはずなのに、また同じような反省です。
そんなわけで今回は写真なしです。
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