天佑寺の襖絵が新調されたのを記念して特別公開があった。
天佑寺にはよく行くが、お堂や書院には入ったことがなかったのでいい機会であった。
「一休森女伝」 松平莉奈
解説によると、一休禅師は77歳のとき、森女という盲目の女性と出会い、88歳の最後まで同棲し寄り添ったといわれる。二人の絵の間には縄が迷路のように描かれていて、このような複雑な結びつきが人生だと書かれていた。さすが、禅の教えは奥が深い。
森女(森女の艶めかしいこと。ついついみとれてしまう)
こちらは一休禅師
森川曾文の屏風
「屏風には春から秋の景色と鹿が描かれている。秋の紅葉は森女の赤と関連づけられる。赤は燃えるような恋心、若さ、生命力を表す一方で、その先の落日、さらには死をも連想させる。しかし、無常の世界では死は終わりでなくまたはじまりでもある。落葉の後にはまた春が巡ってくる…」(解説文より)
「現世図」 山﨑鈴子
「現世」はまさに我々が生きるこの世界、「諸行無常」の世界、迷いの世界だ。季節は夏、しかも夜に咲く蓮だ。現実にはありえない風景が描かれる。蓮は蕾から花開き、そして散っていく…無常の世界。しかし、花は散り、葉も枯れるころ、かえって朝のしじまに夜は明けていく。命はこれで果てるのではなく、また新たな命の連環を予想させる。(解説文より)
「常世図」 山﨑鈴子
しまった、「常世図」は右の松の襖絵だった…
松はよく襖に描かれているので普通の襖と思っていた。また、正面にあるバカ殿風の踊りがあまりにもインパクトが強くてそちらに気をとられてしまった。
そこで、パンフレットからスキャナで取り込む。
あらためて「常世図」
季節は冬、2本の松は霧や霞に閉ざされているものの、その奥に深い松林が続いていることを感じさせる。また、松の根元は霧で隠れ、観ているものはあたかも浮遊しているかのような感覚となる。松は古今に色無し。季節によって葉の色を変えない松は不老不死の生命、また永遠不変の真理を表す。そこに浮遊する1匹の蝶。蝶は死者の魂であり、「私」自身でもある。蝶は林をめぐりながらまた別の世界へと飛んでいく。(解説文より)
雑誌が置いてあった。その名も「芸術新潮」
「若手芸術家を支援する古刹、長崎・天佑寺が襖絵を特別公開!」の見出しが躍る
記事に、住職須田哲也氏のお考えが載っていた。
「世界中の指定文化財の多くが宗教美術であることからも分かるように、昔から宗教と芸術は切り離せないものでした。禅僧にとっても詩画はたしなみであり、禅寺は芸術文化のパトロンでした。私はその役割を再び取り戻した。現代の若手芸術家を寺院が支援することは、結果として日本文化を後世に遺すことにつながるのです。-中略-極端にデフォルメされた人物、逆巻く波…、力強い筆遣いは。、まさに現代の奇想である。何百年もの歳月を重ねてきた天佑寺は、この先さらに何百年と時を刻んでいくに違いない。その時、この襖絵も日本の文化財として、後世の人々の目に触れることになる。」
「四季恢々図」 服部しほり
その解説文
書院の中の展示は以上だ。
本堂にも初めて入ったがここは撮影禁止だったので残念ながら映像はない。外観同様に華美さはないが気高い気品が漂っていた。さすがに、伊佐早地方を収めた西郷氏、それに替わった龍造寺氏(後の諌早氏)の菩提寺だと感心させられた。
1時間あまり襖絵を鑑賞したことになる。
境内に出ると、イチョウの黄色とカエデの赤が、襖絵の余韻に浸る心に、さらなる彩りを添えてくれた。
境内のイチョウ
天佑寺はいい。
次に訪れるのは冬枯れの頃か…
天佑寺にはよく行くが、お堂や書院には入ったことがなかったのでいい機会であった。
「一休森女伝」 松平莉奈
解説によると、一休禅師は77歳のとき、森女という盲目の女性と出会い、88歳の最後まで同棲し寄り添ったといわれる。二人の絵の間には縄が迷路のように描かれていて、このような複雑な結びつきが人生だと書かれていた。さすが、禅の教えは奥が深い。
森女(森女の艶めかしいこと。ついついみとれてしまう)
こちらは一休禅師
森川曾文の屏風
「屏風には春から秋の景色と鹿が描かれている。秋の紅葉は森女の赤と関連づけられる。赤は燃えるような恋心、若さ、生命力を表す一方で、その先の落日、さらには死をも連想させる。しかし、無常の世界では死は終わりでなくまたはじまりでもある。落葉の後にはまた春が巡ってくる…」(解説文より)
「現世図」 山﨑鈴子
「現世」はまさに我々が生きるこの世界、「諸行無常」の世界、迷いの世界だ。季節は夏、しかも夜に咲く蓮だ。現実にはありえない風景が描かれる。蓮は蕾から花開き、そして散っていく…無常の世界。しかし、花は散り、葉も枯れるころ、かえって朝のしじまに夜は明けていく。命はこれで果てるのではなく、また新たな命の連環を予想させる。(解説文より)
「常世図」 山﨑鈴子
しまった、「常世図」は右の松の襖絵だった…
松はよく襖に描かれているので普通の襖と思っていた。また、正面にあるバカ殿風の踊りがあまりにもインパクトが強くてそちらに気をとられてしまった。
そこで、パンフレットからスキャナで取り込む。
あらためて「常世図」
季節は冬、2本の松は霧や霞に閉ざされているものの、その奥に深い松林が続いていることを感じさせる。また、松の根元は霧で隠れ、観ているものはあたかも浮遊しているかのような感覚となる。松は古今に色無し。季節によって葉の色を変えない松は不老不死の生命、また永遠不変の真理を表す。そこに浮遊する1匹の蝶。蝶は死者の魂であり、「私」自身でもある。蝶は林をめぐりながらまた別の世界へと飛んでいく。(解説文より)
雑誌が置いてあった。その名も「芸術新潮」
「若手芸術家を支援する古刹、長崎・天佑寺が襖絵を特別公開!」の見出しが躍る
記事に、住職須田哲也氏のお考えが載っていた。
「世界中の指定文化財の多くが宗教美術であることからも分かるように、昔から宗教と芸術は切り離せないものでした。禅僧にとっても詩画はたしなみであり、禅寺は芸術文化のパトロンでした。私はその役割を再び取り戻した。現代の若手芸術家を寺院が支援することは、結果として日本文化を後世に遺すことにつながるのです。-中略-極端にデフォルメされた人物、逆巻く波…、力強い筆遣いは。、まさに現代の奇想である。何百年もの歳月を重ねてきた天佑寺は、この先さらに何百年と時を刻んでいくに違いない。その時、この襖絵も日本の文化財として、後世の人々の目に触れることになる。」
「四季恢々図」 服部しほり
その解説文
書院の中の展示は以上だ。
本堂にも初めて入ったがここは撮影禁止だったので残念ながら映像はない。外観同様に華美さはないが気高い気品が漂っていた。さすがに、伊佐早地方を収めた西郷氏、それに替わった龍造寺氏(後の諌早氏)の菩提寺だと感心させられた。
1時間あまり襖絵を鑑賞したことになる。
境内に出ると、イチョウの黄色とカエデの赤が、襖絵の余韻に浸る心に、さらなる彩りを添えてくれた。
境内のイチョウ
天佑寺はいい。
次に訪れるのは冬枯れの頃か…
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