◆何やってるんだ自分は
(BGM 「嵐の季節」甲斐バンド)
なぜ「発行人日記」で検索すると、このブログが一番上に出てくるのだろうか。相変わらず暑くて暑くて、でも、声は相変わらず枯れている。声枯れが半月続いている。仕方がないので渋くてカッコいい声になった、と思うことにした。
伊方原発再稼働のニュースに福島を思う。すでに県別線量の数値は新聞には載らなくなったが、ネットでは、文科省発表に基づく数値がいつでも検索できる。深刻な状況に変わりはない。ものすごい暑さのなか、廃炉作業は続いていて、たぶん「コントロール下にある」というのは、懸命な努力によってある種の平衡状態がかろうじて保たれているという意味なのだ。今のわたくしたちの生活を守っている外堀はそこにある。それが壊れれば、あるいはもう1箇所でも「似たようなこと」が起これば、そこに目を向けていようがいまいが否応なく、自分たちののっている薄氷は壊れるのだ。
選挙の投票率の低さや、関心の薄さは、ひとことでいって「当事者意識(のなさ)」がキーワードであると思われる。考えたくもない、考えすぎると死んだ方がましと思えるような状況ではあるが、死なないで済む程度、夜眠れて、ご飯が食べられて、仕事や勉強や家事ができる程度には、世の中と自分自身について考えた方がいいと思う。そして自分を虫けらのように犠牲にされない方向で、少しでもましな方向に状況を持っていこうと思うのなら、他人に決めさせるのが嫌なら、投票に行ったほうがいい。
たくみにつくられた思考停止装置にコントロールされない決意も大事である。たとえば今はやりのゲームは、ひとが行く場所を課金しながら操るのである。20年、いや5年前に今の状況を文章化したとしても、悪い未来のSFとしてしか読まれないと思う。
誰かの金銭的利益になるとき、教育的配慮は後回しにされることはよくあることである。
孫のご機嫌取りのツールとしてそのゲームの裏技を紹介する雑誌記事があった。嘆かわしい。大人であろうが子どもであろうが、自分自身への教育的配慮を常に意識していないと、待ち構えている思考停止のわなにはまる。わたくしたち一人ひとりの思考停止は一体誰の利益になるのだろうか。
考えを止めている暇などない。
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