車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

二宮(ふたみや)神社 in 大阪府柏原市

2023年03月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府柏原市安堂町に鎮座される「二宮(ふたみや)神社」。御祭神は『素盞嗚尊・武甕槌尊・經津主命・天兒屋根命・比売大神』。神社に至る道は非常に狭い上り坂、ナビが導かなければ絶対に引き返してた・・(^^;) やっとたどり着いて駐車スペースを見つけて車を停めた途端、近在の方が出てきて駐車を禁止されました。恐縮して参拝の為の駐車場を訪ねた所、短い時間ならと言う事で許可をいただけました。改めて感謝申し上げます。

由緒不詳。明治5年村社に列せらる。境内は436坪にして本殿・拝殿を存す。(大阪府神社史資料より) 後になって気が付いたのですが神社への入り口はここではなく、鳥居や社務所もそちらにあったようです(-"-) 

住民の方の折角のご厚意、急いで参拝を済ませ、お目当ての狛犬さんを撮影して!!という事で拝殿石段参道の下にて神域を守護されるのは、明治34年(1901)10月吉日建立の、典型的な浪花タイプの狛犬さん一対。威勢の良いお顔で出迎えてくれました。

石段を登り切った拝殿前より神域を守護されるのは文化4年(1807)4月吉日建立の、こちらも浪花タイプの狛犬さん一対。下の狛犬さんに比べると顔立ちがかなり穏やかで人懐こそうな印象を受けます。

御本殿も画像に残したかったのですが、とにかく気持ちが急いています。御亭主殿が狛犬さんを担当してくれている間に私が画像に残せたのは拝殿と石段、それに「春日神社跡の碑」だけ。

ちなみに「二宮神社」は大正13年(1924)に「春日神社」と「杵築神社」が合祀され、その事から「二宮(ふたみや)」の名が付けられました・・と言う事は「杵築神社跡の碑」もどこかにあったのかも・・ とにかく他人様の駐車場をお借りしている身。一分でも早く車を出したかったので、あわただしい参拝になってしまいましたが、振り返ってみればあまりにも画像の少ない記事・・そこでちょっと遊んでみました(笑)

ご亭主殿「ほうほう、お前さん、明治の奉納ですか。中々良い出来ですなぁ~」

阿形さん「おい!そこのお前!!わしの連れの年を勝手に見るんじゃねぇ!! レディに失礼じゃろうが!」

参拝日:2015年10月10日

 

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宿奈川田(すくなかわた)神社 in 大阪府柏原市

2023年03月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府柏原市高井田に鎮座される「宿奈川田(すくなかわた)神社」、御祭神は『宿奈彦根命(少彦名命)・高皇産霊命(たかみむすひのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)』

式内社で日本最古の社の一つとされ、地元では「白坂(しらさか)神社」と呼び親しまれています。また、諸病を祓い風水の難を除き「病祓いの術」を執り行う神社としても知られています。

「創建の由緒は不詳。当地を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。平安時代初期に編纂・施行された弘仁式の時から官社となっており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に列している。中世には「白坂大明神」と称していた。明治5年(1872)に村社に列格し、白坂明神から宿奈川田神社に改称。」

拝殿の前に奉納された大きな桃の実の石像。当神社では「桃の枝葉三枚を入れて浴すると病は遠のく」とし、桃の葉の授与もあるそうです。

桃の実の横には「病祓いの術」と書かれた人型の石像も奉納されています。説明には「雛形一対を当社から持ち帰り病人の枕の下に一夜敷いて寝る。この雛形を持って参拝し前に立てて、現在何歳であっても次の言葉を言って祈願してください。【私は今年十九歳と言い(氏名を名乗り)、私は正直の心を持って祈り奉り神徳を以って病をこの雛形に遷り給わりますように。】と祈り、その後、雛形は拝殿の中に入れて下さい。」と記されています。正直の心と、何歳であっても私は十九歳と言う・・・この相反する唱え言葉の理由が知りたい!。

先の桃の実の台座には『柿本人麻呂』が竹原井頓宮を詠んだ【朝奈朝奈立秋乃 寒畿鴨竹原山濃紅葉女介武】(朝な朝な たちあききりの さむいそしぎ 竹原山の もみじそめけむ)が刻まれています。

別の面には『藤原(葉室)光俊』【竹原乃石井乃水屋 益留良年立田濃山乃 五月雨濃比】(たかはらの 石井の水や まさるらん 立田の山の さみだれのころ)

別の面には『藤原俊成』【賤濃女我川田乃原仁 津武芹母 他我太女仁止天 袖奴羅須良年 藤原俊成】 (しづのめが  かわたのはらに つぶせりも  たがためにとて そでぬらすらん)・・・・画像が行方不明(^^;)

参拝日:2015年10月10日

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御神名一口メモ

『高皇産霊(たかみむすひのみこと)命』。天地開闢の折、天御中主神、神皇産霊尊とともに高天原に現れた造化三神のうちの一柱。

『級戸辺命(しなとべのみこと)』 。伊奘諾・伊奘冉の御子で、朝霧を吹き払った息から生まれた風の神。

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大和川治水記念公園 in 大阪府柏原市

2023年03月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

奈良県桜井市の北東部。標高822mの貝ヶ平山近辺を源流とし、生駒山系と葛城山系の間を抜け、大阪平野に出て柏原市で石川と合流し、大阪湾に注ぐ一級水系の本流「大和川」。川の名前は大和国・大和盆地に由来します。

江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川・楠根川・玉串川など幾筋にも分かれ、深野池(現:大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいました。これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあったと言います。河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は、古くは奈良時代以前からあり、治水工事の歴史は古墳時代にまで遡ります。その辺りの話は非常に長くなるので、詳しい事は「大和川・治水の歴史」で検索してください。

大阪府柏原市安堂、国道25号線脇に「大和川治水記念公園」と名付けられた小さな緑地があります。そこに「大和川付替三百年記念碑」等と共に『中甚兵衛(なか じんべえ)の銅像が建立されています。

何度も繰り返される大和川流域の洪水被害。その度ごとに田畑は流され、村人たちは生死に関わる災禍に見舞われてきました。やがて村々から川の付け替えを望む機運が起こります。今米村の庄屋『中甚兵衛』はそれを受けて立ち上がり、幕府に対して実に46年もの間、大和川付け替えや治水計画を請願し続け、最後は農民の身でありながら並み居る幕臣に交じって、付け替え工事を指揮しました。元禄17年1月(1704年2月)に工事に着手し、八か月後の宝永元年9月(1704年10月)に工事は完成。築留の地から北へ流れていた旧大和川は、現在のように西へ付け替えられました。

文字にすると僅か数行ですが、そこに至るまでに要した年数を思う時、どれほどの困難があった事か想像に難くありません。今、こうして大和川を見下ろす位置に立ち、彼方を指差す『中甚兵衛』は、まっこと!男前。

「中 甚兵衛、付替え時66歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして永遠の眠りにつきました。」市HPより

記念公園の一画にあったモニュメント石には、【流れは未来に続く 大和川】と刻まれています。また公園内には先人の功績を讃えた碑が幾つか建立されています。生憎とそれらを読み解く才はないので、内容はネットや資料で調べた事を基にしました。

昭和29年(1954)に大阪府によって建てられた「大和川付替二百五十周年記念碑」 当時の大阪府知事であった『赤間文三氏』の筆によるもので「先堅の功業を讃えるにあたり嘱を承けてこの文を記す次第である」と刻まれています。

「長瀬此利」と刻まれた「深瀬郡長顕彰碑」。『瀬和直氏』は丹北郡外五郡の郡長在任中、大和川の治水に尽力した人物だそうです。

「久保田翁寿碑」。高安郡万願寺村に住んでいた『久保田伝次郎』が、在任中に久宝寺村の『高田仁兵衛』と共に樋を修復し、六郷(旧中河内地区)の治水を計り、農産の増収に努めた旨が刻まれています。

「健野府知事顕彰碑」 明治18年(1885)の淀川・明治大洪水の際、復旧に尽力し水防に功績があったことが記されています。

『畑中翁碑』 大和川付替え当時、代官:万年長十郎に従った『畑中六右衛門』の功績を讃えたもので明治39年(1906)、孫にあたる畑中好太郎氏によって建立されました。

「1703年代の大和川流域の図」の傍らに「かふちの大橋を独りゆく娘子(をとめ)を見る歌一首 并せて短歌  高橋虫麻呂(たかはし の むしまろ)」と題された歌碑が建立されています。

 

【しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上へゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣(きぬ)着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝(ぬ)らむ 問はまくの 欲しき我妹(わぎも)が 家の知らなく】

(山藍を摺り染めにした衣に、紅(くれない)染めの裳の裾を引いた乙女が一人、片足羽川にかけられた丹塗りの大橋の上を渡って行く。彼女は独り身なのか、それとも夫がいるのだろうか。できれば聞いてみたいものだ。)

【大橋の 頭(つめ)に家あらば ま悲しく 独りゆく子に 宿貸さましを】

(この大橋の橋詰に私の家があれば、ひとり寂しく歩く乙女に宿を貸してあげられるのに)

柏原市いろは絵歌留多、子供たちには難しい古の物語もこんな風に紹介されれば取っつきやすいかもしれませんね。

訪問日:2015年10月10日

 

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野々上(ののうえ)八幡神社 in 大阪府羽曳野市

2023年03月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府羽曳野市野々上、「野中寺」に隣接して鎮座される「野々上(ののうえ)八幡神社」。御祭神は『八幡大菩薩』(野がどうしても堅に見える・・)

創建は不詳「奈良時代~平安時代初期、野中寺の宮寺形式であったと考えられる。永和元年南北朝の争乱の兵火により野中寺とともに焼失。その後、寛文年間(1661~1673)に野中寺の復興に合わせ鎮守社として再建。明治元年(1868)に神仏分離令により野中寺と分けられ、村社に列せられる。一時期。羽曳野市高鷲の大津神社に合祀されたが、昭和23年(1948)に現在地へ復社。」神社由緒より

鳥居からまっすぐ奥に延びる参道。境内は清掃が行き届き、一帯の空気まで清浄感に満ちています。

鳥居の内より神域を守護されるのは、強くて頼りがいのありそうな風貌の吽形さんと、ガキ大将的な風貌の阿形さん。文化8年(1811年)建立の・・多分浪花型に分類される、表情がとても個性的で好ましい一対。

拝殿へと続く長い石段。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、天保14年(1843年)建立で、阿吽共に頭に角を持つ、人(狛)の良さそうな顔立ちの狛犬さん一対。印象としてはとにかく可愛い(^▽^)/。

御祭神である『八幡大菩薩』は八幡神に対して奉られた菩薩号であり、奈良時代に始る神仏習合から起った称号、仏教に守られる八幡神を意味します。残念ながら拝所の向こうに鎮座されている御本殿を拝見することは叶いませんでした。

石段参道の下に鎮座される「平和の社」。御祭神は『平和之神』。大東亜戦争にて亡くなられた御英霊を「平和の神」としてお祀りされています。

「上印池顕彰之碑」稲作の水不足に悩む野々上部落にとって、灌漑用溜池として重要な役割を果たしてきた上印池。時代を経て不要となった池は売却され、当社の本殿・拝殿の改築や部落内事業に使われた旨が記されています。

参拝日:2015年10月10日

 

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野中寺(やちゅうじ)~中之太子~ in 大阪府羽曳野市

2023年03月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府羽曳野市野々上にある高野山真言宗仏教寺院「青龍山:野中寺」。聖徳太子建立三太子の一つで「上の太子」・「下の太子」に対し「中の太子」とよばれ、『薬師如来』を本尊とします。

「当寺の創立は蘇我大臣といい、また聖徳太子建立四十六院の一とも称するところから、叡福寺の「上の太子」、大聖将軍寺の「下の太子」に対し、中之太子と俗称 せられている。所在地の旧郷名が野中郷であって、その地名による俗名を野中寺といい「日本霊異記」には野中堂と記している。また、正倉院文書によれば、当郷は百済系渡来系氏族・船史、のちの船連の本貫であったことから、その氏寺であったことが察せられる。」現地案内より

「西国薬師四十九霊場十四番目札所」・「聖徳太子霊跡五番目札所」・「河内飛鳥古寺霊場六番目札所」・「河内六観音霊場四番目札所」。

旧中門跡に建つ丹塗りの山門。その門内左右より仏域を守護されるのは、見開いた大きな目の所為かとても優し気に見える仁王像。位置的に上半身のお姿しか捉えられませんが迫力は満点。

創建時の堂塔は南北朝時代までに兵火を受けて全て焼失しましたが、境内には中門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・回廊跡など、法隆寺式伽藍配置を示す礎石が残されています。山門を入って東側に、昭和19年(1944)11月7日、国史跡に指定された「野中寺旧伽藍跡」。前面に見える礎石のある位置が「塔跡 」とされる部分。

宝篋印塔の建つ位置が「野中寺金堂跡」とされ、傍らの案内には、発掘調査で白雉元年(650)頃の創建と推定されると有ります。聖徳太子の薨御は推古天皇30年(622)・・その時代には太子も馬子も既にこの世に無く、となると野中寺の創立をその二人とするにはかなりの矛盾が・・・

疑問は専門家の分野(笑)、まっすぐ参道を進むと本堂が見えてきます。

かっての講堂跡に建てられた大阪府指定有形文化財の「本堂」。

本堂の後方左手に寛文元年(1661)建立の「地蔵堂」。野中寺最古の建物と伝えられ、本尊は重要文化財の『木造地蔵菩薩立像』。左側の石碑には「国宝地蔵大菩薩中之太子」と刻まれています。

この棟瓦の鬼はおそらく地蔵堂の屋根に有ったものと思いますが・・いささか記憶があやふやで断定はできません(^^;)

「地蔵堂」の傍らには、孔子廟などで良く見る『翁仲(こうちゅう)』と呼ばれる「石人像」があります。像は、近々京都の高麗美術館での所蔵が決り、移転する旨の看板が添えられていました。という事は、これを見る事が出来たのは一応ラッキーだったのかな(笑)

飾瓦好きの御亭主殿が写していた留め蓋の獅子。顔立ちも仕草も私好みなのですが、対になる阿形さんもいないし(境内からでは吽形しか写せなかったと弁解有り)。結局、どの位置にいたのか不明(^^;)。

境内に祀られる「八臂弁財天」

二上山凝灰石を用いて造られた「ヒチンジョ池西古墳石棺」。1946年に「塚穴古墳」に近い、ヒチンジョ池西側で発見され、1965年に保存のために境内に移設。その後大阪府有形文化財の指定を受けた旨が案内に書かれています。ちなみに「塚穴古墳」は聖徳太子の弟『来目皇子』の陵墓と治定されています。

地蔵堂前の歌碑【 山門を くぐれば緑の 野中寺 】作者不詳

【 たたみくる 雲厚けれど 十三夜 】『鴈来』 

御詠歌【くもりなき  るりの光の野中寺(のなかでら)こころもはれて 帰るうれしさ 】

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野中寺境内の墓所に建立される「お染・久松の墓」。 歌舞伎や映画の演目として有名な、豪商油屋の娘お染と、野崎村の百姓の子で丁稚奉公の久松。当時としては決して許されない身分違いの恋に落ちた二人。この世で叶わぬ恋ならせめてあの世で添い遂げたいと心中して果てます。

墓は、油屋・天王寺屋が17回忌に建てたもので、表には「宗眛真士(久松)・妙法信女(お染)」の戒名。背面には「享保7年(1722年)十月七日建立 俗名お染久松 大阪東堀天王寺屋権右ヱ門」と刻まれています。

久松の故郷である野崎村(大東市)にある「福聚山・慈眼寺」。通称「野崎観音」の境内には、密かに逢瀬を重ねた場所として二人の供養塚が建てられています。独身だったころは、ただ、悲恋の果ての心中を哀れと思いました。けれど子を持つ親となった時、逆縁で逝った愛し子の墓の前に立たねばならなかった老いた親の心を想うと・・何と罪深い二人であったのかと思わずにはいられません。現代の「ものさし」で、二人の仲を許してやれば良かったのにと言うのは・・・アンフェです。

参拝日:2015年10月10日

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誉田(こんだ)八幡宮~Ⅱ~ in 大阪府羽曳野市誉田

2023年03月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大仙陵古墳(仁徳天皇廟)に次ぐ全国第2位の規模である「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」へと至る周濠に架けられた石造りの「放生橋(羽曳野市指定有形文化財)」。17世紀後半から18世紀前半頃に建造されたと伝えられており、かつてはこの橋を渡って誉田御廟山古墳:後円部の墳丘に参拝できたと言います。

秋季大祭の一夜、応神天皇の魂を応神陵にお帰しする為に、方生橋を渡って神輿が渡られます。松明の明かりに照らされたその様は、きっと厳かで幽玄で心にひびく情景であろうと思います。

「誉田林古戦場址碑」。誉田八幡宮の付近は、南北朝、室町、戦国の各時代から江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため、再三戦場の舞台となりました。南北朝初期の正平年間、楠木正行は、金剛山から約30㎞離れた矢尾城を襲うと見せかけて、誉田八幡宮周辺に兵を潜ませて、合戦は後日かと油断した細川勢を急襲したと伝えられています。

句碑・・・読めません(Help me!)

御神馬

切妻造で大葺の四脚門「南大門」は江戸時代に八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門で、拝殿と同じく豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものです。大阪の役(冬の陣、夏の陣)で豊臣氏が滅亡した後、徳川家によって寛永年間初期に最後の仕上げを行ったものであり、切妻の部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられています。

南大門屋根にあった留蓋の獅子。全部で五体の獅子が、思い思いの姿勢で参拝者を見下ろしています。

東高野街道の角に置かれていた碑には、江戸時代の「車楽祭」の様子が描かれた解説図が添えられています。

「車楽祭」解説図の横に設置されていた、金の鳳凰が乗った常夜燈。右は、古市街道と東高野街道が交わる辻にあった道標二基。「富田林・長野・大峯山」などの文字が刻まれています。

参拝日:2015年10月10日

 

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誉田(こんだ)八幡宮~Ⅰ~ in 大阪府羽曳野市誉田

2023年03月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

羽曳野市誉田、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の南に隣接して鎮座される「誉田(こんだ)八幡宮」。御祭神は『応神天皇・神功皇后・仲哀天皇』

社伝によると「欽明天皇20年(559)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。この地は応神天皇陵がある地であるが、応神天皇が幼少の頃に居住されていたところでもあり、また、皇后の仲津姫はこの地を治める誉田真若王の娘でもあり、応神天皇にとって特別なゆかりのある地である。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。」Wikipediaより

「東面する拝殿は入母屋本瓦葺で間口十一間、奥行三間の細長い木造建築でいわゆる割拝殿の形式であって正面中央部を拝所とし向拝(ごはい)部分は、唐破風造りで蛇腹天井となっている。 この建物は、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐且元を任じて再建させたものであるが、完成直前に大阪の役(冬の陣、夏の陣)が勃発したため八割方でき上がったまま放置されていた。その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間の初期に竣工したものと考えられており、三ツ葉葵の定紋が付けられている。」公式HPより

拝殿に至る参道の途中より神域を守護されるのは、平成生まれのいかつい系の狛犬さん一対。特にお小さい子さまには吽形さんの顔は怖いかも。

朝一番で頂いた御朱印を手に

割拝殿挙鼻の彫刻は「司馬温公:瓶割の図 」。上の柱に半円の物が見えるのですが、わかるでしょうか? その正体は・・・

「獅子咬・獅噛み(ししがみ・しがみ)」。寺社の彫刻では意外とオーソドックスですが、こんな風にしっかり見える位置にあるのは少ない為、拝殿前で思わず拳をグッと(笑)。嵌めこまれた銅眼がいっそうの迫力で参拝者を迎えてくれます。

銅眼といえば、貫から参拝者を見下ろす阿吽の龍。銅の髭が更に迫力を添えて見上げる者を圧倒します。

「当宗(まさむね)神社」。御祭神は『素戔嗚命 』。式内社で、旧社格は無格社。元々は誉田八幡宮より東100mほど先にある当宗垣内という場所に鎮座されていましたが、明治40年(1907)11月16日に当社境内に遷座されました。

「恵比寿社」

「姫待稲荷社」

「石造多宝塔(三重塔)」

「誉田八幡宮」の境内紹介、もう少し続きます。

参拝日:2015年10月10日

 

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アイセルシュラホールと仲哀天皇陵 in 大阪府藤井寺市

2023年02月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

藤井寺市藤井寺、1994年に考古学・歴史系博物館施設をメインとする生涯学習センターとして開館した「アイセルシュラホール」

館名の「アイセル」とは、Activity、Information、Consultation、Exchange、Learningの頭文字を並べたもので、「シュラ」は三ツ塚古墳で出土した古墳時代の巨石運搬用ソリ「修羅」を意味します。

歴史展示室には「倭の五王と巨大古墳」をテーマとした古墳築造技術の紹介や、西墓山古墳、津堂城山古墳の出土品等が展示されており、「ふじいてらの大昔」をテーマにした「藤井寺の古代史」が紹介されています。

岡古墳より出土した日本最大級の「船型埴輪」。「アイセルシュラホール」の外観はこの岡古墳から出土した「舟形埴輪」と、三ツ塚から出土した「修羅」をモチーフとしてデザインされました。

こちらは、津堂城山古墳より出土した「水鳥形埴輪」三点。いずれも国の重要文化財に指定されているものです。

ホール展示物、もう一つの目玉は「陵石碑」と呼ばれる「井真成墓誌 蓋部(複製)」『井 真成(いの まなり)』。文武天皇3年(699)~天平6年(734)の人とされ、日本名は不明。唐代の日本人の留学生か官吏であったと推定。中国西安市内の工事現場で彼の墓誌(墓)が発見されました。

蓋の部分に刻まれた文字の拓本。

墓誌 身部 には、日本人留学生の井真成が開元二十四年(736)に36歳で亡くなり、同年2月4日に「万年県」(長安南郊)に埋葬。「尚衣奉御(しょういほうぎょ)」の官職を追贈された旨が記されています。これは考古学的に、中国で発見された最初の日本人の墓誌であり、他国も含めた唐国への留学生の墓誌の唯一の発見例とされています。また、現存の石刻資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例です。

藤井寺市内のいずれかの地の出身とされる『井 真成』。その身は遠く異国の土になりましたが、彼の心は祖国に帰り、こうして再び脚光を浴びる事になりました。今は藤井寺市のキャラクターとして、市内各所のPRに勤しんでいます。

藤井寺市・羽曳野市にまたがる「古市古墳群」には、わが国の古墳文化を代表する、巨大な前方後円墳7基を含む総数130基以上の古墳が築かれています。藤井寺市のそこかしこに見られる天皇御陵の碑。

アイセルシュラホールの東に隣接する「恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)」。全国では第16位の規模の古墳で、5世紀末葉頃の築造と推定。

宮内庁により『第十四代:仲哀天皇』の陵に治定。さて『仲哀天皇』とはどのような方なのか? まずは『日本武尊』の第二子で、三韓征伐を行った『神功皇后』の夫で、さらに八幡神として有名な『応神天皇』の父君で・・・一応、どのような人物かを紹介している筈なのですが、本人以外の名前の方が有名すぎて・・(^^;)

ともあれ、仲哀天皇陵を含む古市古墳群は、堺市の百舌鳥古墳群とともに2019年7月6日、世界文化遺産に登録されました。

訪問日:2015年10月10日

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辛國(からくに)神社と御例祭 in 大阪府藤井寺市

2023年02月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

藤井寺市藤井寺に鎮座される「辛國(からくに)神社」。御祭神は『饒速日命(にぎはやひのみこと)・天児屋根命(あまのこやねのみこと)・素盞嗚命(すさのおのみこと)』。配祀『品陀別命(ほんだわけのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)』

由緒「日本書紀の雄略天皇十三春三月条「餌香長野邑を物部大連に賜う」とあり、この地方を治める事になった物部氏が祖先である饒速日命を祀ったのが当社の始まりであり、同族の辛国連が祭祀の中心となり「辛国神社」と称するようになった。明治41年、長野神社の祭神・素盞嗚命を合祀し現在に至る」公式HPより

一の鳥居の内より神域を守護されるのは扁平頭の狛犬さん一対。明治30年(1897)5月吉日建立。控えめな注連縄が、柔和な顔立ちにとてもよく似合っています。

参道から真っ直ぐ正面に見える銅板葺に入母屋造千鳥破風付の拝殿。神幕には御神紋の「上り藤」。

拝殿前より神域を守護されるのは少々メタボが気になりはじめた狛犬さん一対。弘化3年(1846)11月吉日建立。強面の顔が頑固おやじを想像させて、妙な親しみを感じさせてくれます(笑)

境内の一段高い位置に「伊勢神宮遥拝所」

「末社:春日天満宮」、御祭神『菅原道真公』

1989年に「大阪みどりの百選」に選ばれた長い参道。深い緑に囲まれた参道の途中には「長野神社」の鳥居が移設されています。

生憎と言うかラッキーと言うべきか、丁度この日は秋祭りと言う事で「だんじり」宮入の為、車の移動は出来ないとの事。大勢の人の中に埋もれるのは苦手な二人。よほどの事でなければお祭りに縁がない事を思えば、これはきっと神様が呼んでくださったのかも(〃∇〃)

賑やかな人の気配が近づき、やがて小気味の良い掛け声と共に「だんじり」が曳かれて来ました。どんな原理で曳いているのか分かりませんが・・重そう・・でも、それよりも何よりも「みなさん、すっごく!!かっこ良い~~~~!!」

続いてやってきたのは「ふとん太鼓」。見ている私たちにも熱気が伝染して何故か力こぶが(笑)。基本的には「祭り」は大好き!な二人。ただ人混みが苦手で、ついつい敬遠してしまうのです。でもたまたま行き会ったりした時は別。しかもそんな時は、ほぼ間違いなく間近で見られます。と言う事で、この時もご亭主殿は「ふとん太鼓」を追っかけて走ってました。

木々が生い茂る参道。決して狭いわけではないのですが、布団太鼓が大きくて、男衆たちの額には汗の粒が・・見守る私たちの手にも汗が・・

拝殿前に到着。先のだんじりもすでに拝殿前に到着しています。

実は秋の例祭は10月17日で、実際にはもっと沢山のだんじりや布団太鼓が勢揃いするらしいのですが・・この時は秋祭りと言う事で二基のみが拝殿前でお祓いを受けていました。お祓いの後、折角なのでと勧めて頂き「だんじり」を背景に記念写真(⌒∇⌒) とりあえず、なんか物凄く得した気分(笑)

参拝日:2015年10月10日

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御神名一口メモ

饒速日命(にぎはやひのみこと)』、神武東征より前、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国哮ケ峯(いかるがみね)(現在の大阪府交野市磐船神社周辺の一帯)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされる。

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道明寺天満宮 in  大阪府藤井寺市道明寺

2023年02月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府藤井寺市道明寺に鎮座される「道明寺天満宮」。御祭神は『菅原道真公、天穂日命、覚寿尼(かくじゅに)公』

「垂仁天皇の32年(西暦3)、相撲の祖といわれる 野見宿祢 が、「はにわ」を創って殉死に代えた功績で「 土師 」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わった。以来、遠祖天穂日命をお祀りしたのが土師神社の始まりとされる。明治5年(1872)神仏分離により、道明寺の五坊のうち二之室が神職家となり、天満宮は土師神社に改称。翌:明治6年9月に道明寺は分離し、道を隔てた西隣の地に移転。昭和27年に土師神社から道明寺天満宮と改称する。」公式HPより

檜皮葺の拝殿は延享2年(1745)再建。この後ろに同じく延享2年再建の幣殿と、安土桃山時代再建の本殿が続きます。

拝殿前より神域を守護されるのは、元文3年(1738)正月吉日建立のブロンズ製の神殿狛犬さん一対。流れるたてがみと吽形さんの長い角は一見の価値あり。

それでは改めて神門からのスタート。石段を上がった先、神門の左側には「土師窯跡(はじかまあと)」の碑。我が国の「陶業発祥の地」を記念して昭和17年12月に大阪陶磁同業組合によって建碑。

神門の屋根には、道明寺の留蓋獅子と良く似た獅子がいます。もしかしたら同じ鬼師の作品ではないかと思うのですが、むろん確証はありません。

神門の先、真っ直ぐな参道は注連柱にいたり、その先の鳥居、社殿へと続きます。明治45年に奉納された注連石には、通天閣を命名した漢学者『藤澤南岳(なんがく)』『菅原道真公』を讃えた碑文【神化粛雍百世長斯仰敬】・【玄徳明美万邦咸致尊親】が刻まれています。(単語のみを拾い読めば、意味はほぼ理解)

鳥居には、「正一位太政大威徳天神」と書かれた扁額。「西国紀行」には、この扁額の前で『小林一茶』が句を読んだと記録されているそうです。

【 青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで 一茶文字は『榊莫山』

鳥居の前より神域を守護されるのは、阿吽ともに前足に願掛け紐が結ばれた、天保13年(1842)6月建立の狛犬さん一対。口中に玉を含む阿形さんの顔が子供みたいに嬉しそう。

句碑の後方に明治39年に建立された「日露戦役記念碑」。道明寺村より出征し、我が国を護るために戦われた方々の記念碑。

さて、天満宮と言えば撫で牛さん・神牛さん。こちらにはかなりの年代を経たと思われる純白の神牛さんが、大切に祠におさまっておられます。

嘉永七甲寅年 二月吉辰に、神詠講によって奉納された神牛像。

慶応三丁卯年 九月に、高栄講によって奉納された神牛像。

文政十三年(1830)庚寅九月、大鹿金兵衛が奉納した神牛像。当宮の神牛像では最古参。

こちらは現役の撫で牛さん。どうですか?このピカピカのお鼻(笑)一体どれほどの手がこの鼻の上を往復したのでしょう。

ブルーシートに覆われた台座の上においでの撫で牛さん。これからお部屋を貰うのでしょうか?

学問の神様として知られる道真公は、また書聖と称され、書の神としても信仰を集めています。使用された筆に感謝する「筆塚」は、天満宮には必ず見られるもの。

天満宮境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所としても知られ「大阪みどりの百選」に選定されています。

梅園入口の歌碑は【 梅の花  親し 官公  びいきゆゑ 】 山下美典

梅園内の歌碑は今村泗水【 早梅の  片はなびらを  立つるあり 】

天寿殿の前には、明治10年(1877)2月12日の前日の紀元節に畝傍御陵に参拝された明治天皇が、宿泊されたことを記念した「明治天皇行在所(あんざいしょ)」碑。翌13日には西南戦争勃発の知らせが届けられています

境内に奉納された「さざれ石」は白亜紀後期(約七千年前)の和泉層礫岩。悠久の歳月の間に多くの小石が寄り集まってできた目出度き巌は、和歌山県との境に近い河内長野市滝畑から。

大阪府下最古の能楽殿や寛政8年再建の絵馬堂。興味深い狛犬さんに守護されている境内社の数々・・タイムアウトだったのか、予想外の団体観光客の多さに圧倒されてだったのか・・いずれも参拝が叶わずに終了。

神門から100mほど先の境外に鎮座される「西宮」。元慶八年(884)の夏、五部の大乗経を書写された道真公に、埋納する地を示された「伊勢・春日・八幡三神の化身」をお祀りしたのが当社で「三社 神祠」ともいいます。その経塚から生えた木を「木槵樹(もくげんじゅ)」といい、「謡曲:道明寺」にはこの種で数珠を作り念仏を唱えると極楽往生できると謡われています。

最後に、「道明寺天満宮」の社号に隠された数多くのエピソード。調べれば調べるほど面白い事実に行き当たります。が、恥ずかしながら、それを語るだけの才を持ち合わせていません。一つだけ、私が最も興味を惹かれたのは、日本各地に「天満宮」「天神社」の数は約12000社と言われていますが、「道明寺天満宮」のように「寺号」を冠した天満宮は全国でも五指に足りると言う事実です。明治の神仏分離令もむろん関係していますが、興味を惹かれた方は是非、漢字が表す意味も含めて、歴史を散策してみてください(*^^*)

参拝日:2015年10月10日(「西宮」のみ2008年4月26日)

 

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