車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

玉前(たまさき)神社~其の一 in 千葉県一宮町

2019年06月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

一宮町一宮に鎮座される「玉前(たまさき)神社」。御祭神は『玉依姫命』。御神文は「鏡に御統(みすまる)紋」「三つ巴紋」。「御統」は勾玉の首飾りのことで、三種の神器である「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」がこれに相当します。

一の鳥居は九十九里浜に向かって真東を向いて建ち、春分・秋分の日には、この方角から太陽が昇るといいます。玉前神社は「御来光の道(レイライン)」の東の起点とされ、ここより出雲大社へと本州を横断するそうです。

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神武天皇の母神を祀る「玉前神社」から、唯一の八方除守護神である「寒川神社」、日本最高峰の「富士山」、見延を鎮守する「七面山」を経て、神の住む「竹生島」、宮津の「元伊勢」、そして西の霊山「大山」から神代国造りの神が住まう「出雲大社」・・ まさに太陽とは神そのものであったと思い至ります。

ご祭神『玉依姫』は、海神:綿津見大神の娘で、神霊を宿す女神として日本神話に登場します。 海からこの地に上がった『玉依姫』は、姉『豊玉毘売』から御子である『鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)』を託され養育し、後に命の后となって『神武天皇』をお産みになられました。

由緒に【創始は古く詳らかではありませんが、延喜式内名神大社、 また上総国一ノ宮として平安時代にはすでに日本の中でも 重きをおくべき神社とされていました。また千葉平氏上総権介平朝臣広常をはじめ、源頼朝の妻の 北条政子懐妊に際して安産祈願の奉幣、徳川家康が神田十 五石を寄進するなど武門の崇敬も多く厚いものでした。永禄年間(1558年-1570)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。】

境内の二の石鳥居は、文化三丙寅年八月の建立、「神号額」は『蜀山人』の揮毫によるもの。

社殿は「本殿・幣殿・拝殿」が繋がった黒漆塗りの「権現造」、貞享4年(1687)の造営とされます。 境内案内には【現在の建物は、江戸中期の貞享四年(1687)に、 本殿が『大工棟梁:大沼権兵衛』、拝殿と幣殿は『井上六兵衛』に よって竣工された。 本殿は、桁行三間、梁間二間、一間の庇を付ける入母 屋造りである。拝殿は、桁行五間、梁間二間の入母屋造 りで、正面に向唐破風を付ける。幣殿は、本殿と拝殿を つなぐ建物で、桁行四間、梁間一間の規模である。全体が複合社殿(権現造)となっており、屋根は寛政十二年 (1800)に現在に見られるような銅版葺に改められ ている。】

10年に渡る社殿の修復が竣工され、二年前の2017年3月に終了したとか、この参拝の僅か二ヶ月前とは・・・偶然の僥倖に思わず🙏🙏。 社殿は黒漆の深い輝きに、周囲の深い緑が映しだされ、一種独特の神秘性を持ってそこに存在します。

正面の蟇股に施された「高砂」の彫刻は、名人と謳われた『左甚五郎』の作とも言われています。 流石に「お年を重ねられた媼と翁」では、甚五郎の彫刻について廻る不思議話(抜け出すとか、朝になったら帰ってくるとか)は無いようで、常青の松の下で穏やかに語らっています😊

黒漆の社殿にひときわ華やかに色を添えるのは、極彩色の唐獅子と獏、なんか妙に楽しそう。羨ましいほど白くて綺麗な歯😲

社殿の右手に鎮座される「招魂殿」。日清・日露・大東亜戦争の戦没者325柱が祀られます。 社殿の傍らには、当時の県知事『加納久朗』書による「勇士救亜洲」の碑。

黒の社殿と対比をなす朱塗りの「神楽殿」では、無形文化財である「土師流神楽」が、春・秋の祭礼で奉納されます。

本殿左手の鳥居の奥に鎮座される「摂社:十二社」は、明治時代に一宮町内の十二社が合祀されたもの。 ただ、信仰の中心は「愛宕神社」であったため、今でも通称「愛宕さま」と呼ばれています。

案内には【「宮の後愛宕神社(軻遇突智命)」・「陣屋内八幡神社(誉田別命)」・「上宿三島神社(事代主命)」・「上宿白山神社(白山比売命)」・「下村日枝神社(大山咋命)」・「柚の木山神社(大山祇命)」・「細田浅間神社(木花開耶姫命)」・「道祖神塞神社(賽神三柱)」・「内宿蔵王神社(大物主命)」・「関東台粟島神社(少彦名命)」・「陣屋熊野神社(櫛御毛野命)」・「下の原水神社(罔象女命)」】とあります。

西山は「はだしの道」として整備されており、裸足で歩く事で御神徳を授かる事ができるそうです。 傾きかけたお日様に急かされて辞退しましたが、でも二人の願う事はいつも決まっています。

絵馬架けの横には、『仁徳天皇』の民の竈の賑わいを喜ばれた歌を尊みて詠んだ芭蕉:句碑【叡慮(えいりょ)にて  賑ふたみや 庭かまど】

中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや 庭かまど はせを」と大書。 左には【名にしおはゞ 名取草より 社宮哉 (金波)】を発句とする表十句。 背面には「無尽言」、下に149句が刻まれ、『起名庵金波』の芭蕉景仰の漢文銘があり、さらに碑の陰部分に【広き葉の くらべものなき はせをかな  (金波)】【蝶鳥(ちょうとり)や こころの底の なき晴て (何丸)】・・解説があったので、知った風に書いていますが、実際はどれも読めません😔

境内にはまだまだ沢山の碑や史跡がありますが、それはまた明日、まとめて紹介します。

参拝日:2019年3月8日

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ご当地マンホール in 千葉県一宮町

2019年06月16日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

長生郡一宮町(いちのみやまち)は千葉県の東部、太平洋に面した九十九里平野および九十九里海岸の最南部に位置する町です。いすみ市、長生郡:睦沢町、長生村に隣接。北部を一宮川が東西に横断して太平洋に流れ、西部は房総丘陵の端部で山林に長く深い谷津が伸びており、農業用水用の溜池が点在し、東部は九十九里浜の砂浜海岸になっています。古くは上総一宮:一万三千石の城下町として栄えた歴史をもち、その後は、日本一といわれるガラス温室団地など、ハウス栽培を中心とした果樹園芸を基幹産業にしています。町名は、上総国の一宮「玉前神社」に因んで一宮庄と称され、以後「一宮」と呼ばれるようになりました。「町の木:クロマツ」「町の花:山百合」を制定。

キャッチフレーズは「躍動する緑と海と太陽のまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、長柄郡一宮本郷村、東浪見村が発足。

1890年、一宮本郷村が町制を施行、改称して、長柄郡一宮町(初代)となる。

1897年、郡制の施行により、長柄郡・上埴生郡の区域をもって長生郡が発足。

1953年、一宮町と東浪見村が合併、長生郡一宮町(二代目)となる。

1954年、長生村大字船頭給を編入。

1955年、長生村一松字新地、大字宮原を編入、現座にいたっています。

マンホールには町章を中心に、「町の花:山百合」が描かれています。

集排マンホールは「町の木:黒松」、海岸に「打ち寄せる太平洋の荒波」がデザインされています。

昭和48年(1973)11月28日制定の町章は【外輪は一宮の「一」、中はいちのみやの「み」をまるく安定した形に納め図案化したもので、緑あふれる太陽のまち「一宮」がこれからも平和に明るく円満に発展することを象徴したものです。】公式HPより

JR上総一ノ宮駅近くにあった雨水マンホール。

上水道関連の蓋は「長生郡市広域市町村圏組合」の知章がついた制水弁・空気弁・消火栓等。(給水区域は「茂原市、白子町、一宮町、長柄町、長南町、睦沢町、長生村」)

「九十九里地域水道企業団」の物とよく似ていますが、これは周囲の円が一重。 ただの「水」という文字なのか、特定の「水道企業団」の知章なのか、調査不足で分かりません。

全体が「消防徽章」の防火貯水槽には特定の自治体を示すものは無く、一般的な規格蓋と思われます。

「大多喜ガス」の小蓋。上の「W」が何を表してるのかは未調査。

一宮町キャラクター『一宮いっちゃん』。、海をイメージした髪型とつぶらな瞳がチャームポイント。一宮産のメロンとイチゴと梨が大~好きで、猫が大好きな女の子です。

撮影日:2014年5月22日&2019年3月8日 

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