大多喜町新丁に鎮座される「夷隅(いすみ)神社」。御祭神は『素盞鳴命・大己貴命・稲田姫命』。
明治35年建立の二の鳥居、その先に拝殿
境内由緒に【草創については明らかでありませんが、社伝には、長久2年(1041)の再建後、さらに天正15年(1587)に、里見氏の将、正木大膳亮(時堯)が再築したと伝えられています。その後は、代々の大多喜城主に篤く崇敬・加護されたとあります。むかしから牛頭天王宮と称し、明治の初めに夷灊(いしみ)神社と会合して村社となり、明治12年には社格が郷社になりました。】
明治28年頃の夷隅神社境内全図
【社殿は、拝殿、本殿からなる権現造りです。本殿の擬宝珠には貞享5年(1688)と、また、拝殿の高欄にある擬宝珠には、文政12年(1829)と銘があって、建築各部の様式・手法上からも、それぞれ、その時代の建造と考えられています。】
かっては鮮やかであったと思われる拝殿彫刻も、長い年月が朱の派手さを薄めていったようです。 それがかえって不思議なほどの落ち着きを見せているのも、また宮彫師の技量かもしれません。
拝殿彫刻は2014年と2019年のものを取り混ぜましたが、五年の歳月の開きはどう見えたでしょう? 貫に施された阿吽の獅子と像、その高みから見続けた大多喜の城下は、300年以上の時を経てどのように変化したのか・・
一の鳥居近くより神域を守護されるのは、文政十三年庚寅八月吉日建立の、江戸流れの一対。 後頭部から肩に流れる鬣は柔らかいウェーブを見せて、その所為なのか表情もとても柔和。
「境内社:子安大明神」
境内には西南戦争をはじめ、戦で散華された人々の忠魂碑、殉職警察官の招魂碑などがあります。 国のために殉じた方々に敬意を払う・・当たり前の事がこの先も普通に成される国であって欲しいと思います。
「菰田、左右田両君招魂碑」(千葉県内で最初に殉職された警察官の碑)
夷隅神社水路「新丁上宿周辺の雨水をあつめ、神社の杜や社殿・太鼓橋と調和した景観をつくりだしています。生命のみなもとである水に親しみながら、鯉や鮒などの水生生物を守り育てることにより、人々に潤いと安らぎを与え神社を訪れる人々の憩いの場所として親しまれています。」案内より
参拝日:2014年5月23日&2019年3月8日