松陰神社を辞し、駐車場を突っ切り300mほど歩いた先に、生け垣に囲まれた「伊藤博文旧宅」が見えてきました。
天保12年(1841)9月2日、当時の周防の国熊毛郡束荷村(熊毛郡大和町)で、百姓林十蔵、母琴子の長男として生まれた伊藤博文(林利助)。安政元年(1854)、博文14歳の時、父が家族を連れて萩藩の中間、伊藤直右衛門の養子となり、この家に住むことになります。
やがて17歳の時、近くの松下村塾に通い吉田松陰の教えをうけ、尊皇攘夷運動の志士として活躍。 28歳の明治元年、兵庫県知事に赴任するまでの14年間ここを本拠としました。
建坪27坪・・お世辞にも立派とは言えない茅葺き平屋建ての質素な建物。伊東博文旧宅と言えば、これまで瀟洒な洋風建築しか知らなかった私にとって、ある意味衝撃的ともいえる建物です。
その旧宅の隣、立派な玄関を持つ建物は伊藤博文別邸。明治四十年(1907)、博文は東京府下荏原郡大井村に、車寄せを持つ玄関、中庭をはさんで西洋館、書院、離れ等を備えた広大な別宅を建築。萩市へは往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れ座敷の3棟が移築されました。
「伊藤博文旧宅地 附伊藤博文別邸」は、共に昭和7年(1932)3月25日、萩市文化財に指定されました。
先にもまだ「玉木文之進旧宅」や「吉田松陰生誕の地」「松陰墓所」などがあるのですが、坂道は私には鬼門。ここから松陰神社へと引きかえします。とあるお宅の生垣外に「吉田稔丸(としまる)(稔麿)誕生地」碑。稔丸は、萩藩足軽・吉田清内の長男として誕生。16歳の時、幽室の吉田松陰に入門し、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と共に松門の四天王に数えられました。松陰の死後、尊皇攘夷運動に参加。元治元年(1864)、京都の池田屋旅館で新選組に襲われ負傷、24歳の若さで死去しました。
生誕地碑から東に約100メートル先に「松浦松洞出生の地」碑。松浦松洞は幕末の画家で長州藩の志士。20歳の時、漢詩を学ぶ為松下村塾に入門しました。安政の大獄によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残した人物です。
萩市椿東椎原、車に変える途次に見かけた「椎原公会堂」。帰宅後、萩市のHPなどで検索しても何もヒットしませんでしたが、この独特の古き良き時代を彷彿させる佇まいが妙に懐かしく・・
訪問日:2012年11月12日
🌸明日は明神池湖畔に鎮座される「厳島神社」の紹介です。