萩市椿に立地する山陰本線停車駅「JR萩駅舎」。
大正14年(1925)に開通された国鉄美祢線(現在の山陰本線)にともない建設された萩駅舎。欄間を持つ上下窓、入口ポーチ、棟先を落とした切妻屋根、半円形のドーマー窓、白壁にエメラルドグリーンの柱や梁が露出するハーフティンバー構造・・ああ、乙女❓❓心をこんなにくすぐる駅舎に出会えるなんて、何て素敵な萩の二日目。
どの角度から見ても「タメ息~💗」しか出ない。
入り口には、大正末期から昭和初期に建てられた、日本で2番目の型式だという電話ボックス。復元と紹介されている、という事は、実際に存在していたもの。全てが手元の小さな機器で事足りて便利になり過ぎた現代では決して経験できない空間。「今、駅に着いたわ」「〇時の汽車で帰るよ」様々な言葉を届け続けてきた小さな世界。
「自動電話」って、このレトロな電話機の事かと思っていたら、電話ボックス全部を含めての名称でした。
山陰本線は京都市下京区の京都駅から、中国地方の日本海沿岸を経由し山口県下関市の幡生(はたぶ)駅に至る鉄道路線。明治 45年(1912)に京都―出雲間が開通した後、昭和 8年(1933)に下関まで全通。その途中駅となる萩駅は、大正14年(1925)4 月、美祢線延長の長門三隅・萩間開通にともなって建設されました。
文化財のページにも「鉄道開通時のまま現存する数少ない駅舎の一つ。地方の発展を紹介するうえで存在が引用されるなど、地域史的にも重要な建造物である」と紹介される萩駅舎。木のぬくもりが温かい、現役の集札口。
ホームの向こうに見えるは景色はすっかり秋色に染まって・・ああ、電車が入ってきた。黒い武骨な汽車ならもっと素敵だったかもね😊
電車を見送ったら、駅社内に展示されている珍しいあれこれを見て回る事に。これは「回転式常備乗車券保管箱」。昔の切符は厚紙で出来た「硬券」と呼ばれる切符だったので、こうした保管ケースが利用されていました。
「警戒」のプレートは色によって青=大雨・緑=大雪・赤=強風。一番?だったのはオレンジ=乾燥・・・乾燥が警戒に値する事象だった事にビックリ!
そのプレートの下に並ぶ臼のようなものは何だったのだろう?表面には曰くありげな文様が鋳型のように刻まれているのですが、説明を写し残さなかった為、今となっては全く不明。後でHPで検索すれば分かるだろうと思った私が甘かった・・😓
これも・・・正体が判らない。何故こんな珍しい展示品の紹介が無いのか、正直そっちの方が不思議に思える・・😓
館内に展示されていた「長州藩英国密航留学生:長州五傑」。上段左:遠藤謹助・中央:野村弥吉(井上勝)・上段右:伊藤俊輔(博文)、下段左:井上聞多(馨)・下段右:山尾庸三。
「鉄道の父・井上勝」、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで鉱山技術・鉄道技術などを学び、鉄道発展の礎を築いた人物。彼の越し方、功績は、是非とも「井上勝」で検索してみてください。
1996年に国登録有形文化財となり、1998年に当時の姿に復元・補強された「萩駅舎」。この日、予定していた萩の町歩きを全て終えて最後に立ち寄った萩駅。ライトアップされ薄くオレンジに染まった駅舎の温かさが心に残りました。
余談ですが「萩」という文字はわが国で作られた国字。つまり日本固有の漢字。古くは「生芽(はえぎ)」と書き、転じて「はぎ」になったと言われています。
訪問日:2012年11月13日
🌸萩市立ち寄りラストの画像が登場しましたが、明日は萩市椿に鎮座される「金谷神社」の紹介です。