長門市と言えば『金子みすゞ』。特に仙崎は彼女の生家がある縁で、色んな場所で彼女に関連した諸々に遭遇します。
道の駅センザキッチンの一画にある「詩碑:大漁」と「みすゞの胸像」。
六枚の陶板に描かれた「大漁」の詩と、大漁に湧きたつ浜の様子
「朝焼け小やけだ 大漁だ 大ばいわしの大漁だ 浜は祭りのようだけど 海の中では何万の いわしのとむらい するだろう」・・シュール過ぎ・・。
「鯨捕り」
「海の鳴る夜は冬の夜は、栗を焼き焼き聴きました。むかし、むかしの鯨捕り、ここのこの海、紫津(しづ)が浦。海は荒海、時季は冬、風に狂うは雪の花、雪と飛び交う銛の縄。岩も礫(こいし)もむらさきの、常は水さへむらさきの、岸さへ朱(あけ)に染むという。厚いどてらの重ね着で、舟の舳(みよし)に見て立つて、鯨弱ればたちまちに、ぱつと脱ぎすて素つ裸、さかまく波にをどり込む、むかし、むかしの漁夫(れふし)たち―― きいてる胸もをどります。 いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。海は鳴ります。冬の夜を、おはなしすむと、気がつくと――。」
「弁天島」
「あまりかわいい島だからここには惜しい島だから、貰ってゆくよ、綱つけて。」北のお国の船乗りが、ある日、笑っていいました。うそだ、うそだと思っても、夜が暗うて、気になって、朝はお胸もどきどきと、駈けて浜辺へゆきました。弁天島は波のうえ、金のひかりにつつまれて、もとの緑でありました。」
モニュメント「わたしと小鳥と鈴と」
「私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のやうに、たくさんな唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」
長門市と言えば「海上のアルプス」などと称される「青海島」。青海島の景色を見るには、海上からは青海島観光遊覧船に乗ってみるのが一番。確かに側まで車で行けるとは思ってなかったけど・・船酔いする私には無理😵
で・・・・一応青海大橋を渡って青海島まで行ったんですが、海上アルプスではなく「波の橋立」を見て「まぁ、良いか」という事に(笑)
「日本海の潮流の作用により礫(つぶて)と砂が直線状に堆積(たいせき)したもので、長さは1300mありクロマツの林は、防風や防潮の役目も果たしています。青海湖は、淡水湖で農業用水に利用されています」長門観光ナビより
クロマツ茂る波の橋立、引きかえす事を考慮に入れて300mくらいは歩いたかな😅
冬季には多くのカモ類の渡来地にもなるという「青海湖」。この時もカモたちの姿を見る事が出来ました。
駐車場近くの桟橋の様なもの、様なものでは無くて本当に桟橋かもしれないけれど・・低すぎません??
この日は結構風が強く、打ち寄せる波は白く泡立ち、日本海独特の荒々しさを見せて岩に砕けています。これだけ楽しめれば「まぁ良いか」ですよね。
青海大橋を下った折に目に留まった「海外引揚げ上陸跡地」の碑。「昭和20年、敗戦の翌月の9月2日、第一次の引揚者7千人が仙崎港に上陸。外地で悲惨な終戦をむかえた復員の軍人や一般の人々でした。仙崎では、寺や学校が、引揚援護の事務所や救護所、宿泊所に当てられ、応急のバラック住宅も建てられましたが対応しきれず付近の民家にも多くの引揚者を泊めました。昭和21年末、仙崎が引揚港の役割を終えるまで、この港に上陸した人々は約41万人でした」現地案内より
訪問日:2012年11月14日