寛永12年(1635)、下田奉行『今村伝四郎正長』によって下田市七軒町に創建された「了仙寺」。参道から境内にかけて数百株のアンリカジャスミンが植えられており、「ジャスミン寺」の別名を持ちます。
下田の「了仙寺」と言ってピンと来ない人も、「下田条約」が締結された寺と言えば「ああ!」と頷かれるかも。
嘉永6年(1854) 、黒船という圧倒的武力を誇示して浦賀に現れた『ペリー』率いるアメリカ艦隊。 開国を迫るアメリカに対し、時の幕府も遂に折れ、そのうねりは大きく日本を変えていきました。
嘉永7年(1854)3月、横浜村(現・神奈川県横浜)に於いて「日米和親条約」が結ばれた二ヵ月後、再び来日した『ハリス』との間に、先の条約の付属協定として「日米下田条約」が結ばれました。
「了仙寺」は、『ペリー』が来航して以降、彼らを応対する場所として使われていた処です。
ハリスの名前が先に登場したのが私としては少々不本意ではあるのですが、境内の一画に「お吉塚」が祀られています。ハリスの接待役として召し抱えられた事で「唐人お吉」と後ろ指をさされる人生を余儀なくされ・・どこまでいっても、何年たっても付きまとう唐人の名に身も心も疲れ果て、角栗の淵に身を沈めた悲しいお吉さん・・・願うのはただ一つ・・安らかに。
境内墓地の入口に立つ三基の五輪塔は、二代・四代・五代の下田奉行の墓とされています。 正面からではないので認識できる「五輪塔」は一基のみ、どの下田奉行のものかは不明(^^;)。 これらの「五輪塔」は江戸時代初期の物で、下田市史跡として、また「了仙寺」は国史跡に指定されています。
伊豆半島に位置するこの場所は、古くから人々が住み着き、集団での生活が営まれていたと云われています。 了仙寺の境内にある横穴遺跡は、1300年以上前の古墳時代に作られた横穴墓と推定。
発掘調査のさい、人骨と共に出土した装飾品の規模から見て、被葬者は地元の長のような存在ではないかと云われています。穴は約10m程で、先は浸食により反対側へと抜けているとか。興味はありますがさりとて、潜ってみたいとは思いません(笑)
ぼんやりと明るく見える竹簾の向こうはどことつながっているのでしょうね。いずれにしても、古墳時代の遺物と、近代日本の幕開けとなった歴史が同居なんて、理屈抜きに感動です。
「了仙寺宝物館/黒船美術博物館」には、黒船・開国の資料などが展示されているそうです。興味がない訳ではありませんが、それよりも私たちの興味はどうしても寺社彫刻に・・(^^;)、この獅子と獏、凄いでしょう。赤く彩色された口をあけて参拝者を見下ろす姿、異人さんたちの目にはどんな風に映ったのでしょうね。
本来であればもっと歴史あるお寺の佇まいを画像に残したかったのですが・・観光バスでの来場者に二人とも圧倒されて(^^;) 団体さんに慣れていない二人。遂に待ちくたびれて、早々に参拝を切り上げてしまいましたとさ(笑)
参拝日:2011年11月10日
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