高知平野のほぼ中心、大高坂山(標高44.4m)上に築かれた「高知城」。別名「鷹城(たかじょう)」とも呼ばれた平山城で、江戸時代には土佐藩の藩庁が置かれていました。現存する天守や本丸御殿、追手門等は、昭和25年(1950)に国の重要文化財に、また城跡は、昭和34年(1959)に国:史跡に指定されています。
2013年or2014年と二度に渡っての登城。友人が一人加わった事で、コースも、行く先々に目につく「気になるもの」も微妙に変化😅
石垣の上に見える黒っぽいものは「石樋」。説明によれば「高知は、雨の多い土地柄であり、高知城には排水のための様々な工夫が見られる。三ノ丸に降った雨水を集めて2か所の石樋から排水することにより、石垣内部に泥水が入り目詰まりによるゆるみが生じないよう設けられたものと考えられる。」
ゆるやかとは言え長い石段・・平山城だから、この程度でお城まで登れる事を思えばあまり文句は言えません。が、それでも長い😓
と言いつつも、お城の姿が見えてくると途端に足の動きが早くなるのだから、人間の心理って面白いというか、勝手と言うか😩
😍Jさん 😓私 😊ご亭主殿・・・三者三様の顔で天守を目指し
高知城本丸の搦め手の防備を固めた「黒鉄門」が見えてきました。黒く塗られているから「黒鉄門」と呼ばれているそうで、これも重要文化財の指定。さぁ、ここを潜ればいよいよ高知城本丸の入り口。
天守は南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式。
最上階の高欄は、徳川家康の許可を得て造ったといわれています。
外観もですが、城の内部に関しても全くのど素人。上段ノ間にある帳台構えが云々と説明されても「スゴイのね~😍」「凄そうだね・・・😊」まぁ、そんな感じなので、印象に残ったものと言えば展示された諸々の品とその謂れ。
そんな二人を尻目に御亭主殿が熱心に見ていたものが「鯨(いさな)漁」の模型。捕鯨は日本の文化であり、伝統に結びついた大切な生きる糧であった・・何も知らない・学ばない人たちにとやかく言われたくない。・・豚や牛や子羊は平気で食べる癖に・・・
展示品、私の一押しは「梅丸彫」と題された欄間。作者の「島村三四郎」は高知城内の欄間や板塀などの彫刻に関わった人物だそうで、この欄間は二の丸御殿内:お化粧の間に用いられていたそうです。
ご亭主殿の一押しは「一領具足(いちりょうぐそく)」の像。戦国大名:長宗我部氏が武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称で、『土佐物語』では「死生知らずの野武士なり」と書かれています。山内家の時代になって後、かれらは武士の扱いを許されず郷士となるのですが・・ちなみに坂本竜馬に代表される維新の志士たちは、その殆どが郷士の出身です。
ご亭主殿お気に入りの「鬼瓦」。
私一押しの「尾戸焼きの唐獅子」。
天守から見る高知の市街、眼下に広がる家々の輪郭や彼方にそびえる山々、さっき登ってきた石段も真下に見えています。
慶長6年(1601)、土佐国に入国した一豊は江戸幕府に築城の許可を願いでた後、百々越前を総奉行として築城の命を下し、ほぼ10年の歳月をかけて全城郭を完成させました。土佐藩の初代藩主:山内一豊の銅像は、1996年9月20日、一豊の祥月命日に再建されました。
山内一豊がまたがっている馬は、妻の千代が嫁入りの際に親から持たされ、「へそくり」として秘蔵していた黄金十両で入手したもの。この内助の功によって一豊は大いに面目を施します。
土佐24万石を襲封した山内一豊によって創建されて以来、約400年余りの歴史を有する「高知城」。ですが、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げ、土佐国を完全に統一した「長宗我部元親」。彼の存在無くして、土佐の繁栄は語れません。
高知市長浜に鎮座する若宮八幡宮の一画。永禄3年(1560)、22歳で初陣を迎えた槍の名手『長宗我部元親』が、長浜の戦いに出陣する前夜の姿を現した像が建立されています。
高知城とは直接関係はありませんが、城址の一画に『板垣退助』の像。「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語となったそうですが、本当に彼の言葉だったかどうかは疑問符だそうですよ😊。
訪問日:2013年3月19日&2014年3月21日&2018年6月17日
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