幕末の時代を駆け抜けた勤皇の志士たち・・あるものは凶刃に倒れ、あるものは賊逆の汚名の下に断罪され、あるものは上手に立ち回り、維新の担い手として明治政府の立役者となり・・・
天保9年4月13日(1838年5月6日)、北川村柏木の山深く、北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として誕生。名は「道正」。通称「福太郎」、「光次」、のち「慎太郎」と名乗ります。
安政元年(1854)、間崎哲馬に従い経史を、翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を会得。安政4年(1857)、野友村庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね)と結婚。文久元年(1861)には武市が結成した土佐勤王党に加盟して、本格的に志士活動を展開。
土佐藩内で尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに脱藩し、同年9月、長州藩に亡命。以後、長州藩内で脱藩志士たちのまとめ役となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役として奔走。
『坂本龍馬』らと共に薩長同盟の斡旋に尽力し、陸援隊隊長として維新回天の立役者となるも、慶応3年11月15日(1867年12月10日)京都近江屋事件にて横死。享年三十歳。
生家の一隅に架けられたお軸には、慎太郎を見送る際に妻:中岡兼が詠んだ
【嵐山 たかねの桜 おりかざし 帰れわが背子 花散らぬまに】
緑深い山々を背景に、新しい時代の幕開けに向って一歩を踏み出す『中岡慎太郎』。維新の夜明けを見ることなく散った生涯でしたが、彼の一歩は新たな時代への一歩となりました。
「中岡慎太郎の生涯・業績の紹介と顕彰活動を行う歴史資料館」として設立された「中岡慎太郎館」。
その入り口近くに、幕末では珍しい慎太郎の笑顔の写真が掲示されています。彼の頬に当てられた手、膝にかかった着物の袖などから隣に女性がいると想定されているそうですが・・無邪気にはにかんだ笑顔を見ると、何故か鼻の奥がツンとなって・・
この砂像はおそらく上の写真をモデルとしたのでしょう。横に優しい誰かを添えても良かったのにと・・思ってしまうのは、きっと私が女だからでしょう。
中岡慎太郎生家の下には、天正二年(1574)に長宗我部元親の軍と戦い、討ち死にしたという『北川玄蕃』の居館跡。建立されていた詩碑に関しての資料が無く、全文の詳細(○○部分)も不明。「至って玄蕃の城敗れ○○ 謀られし恨みを残す戦のはて」
一度は訪ねたいと思っていた慎太郎の生家への訪問も叶いました。慎太郎橋の親柱に刻まれた難しい顔の慎太郎さんに見送られ、私たちは北川村を後にします。
室戸岬の先端近く、太平洋を見据えるように立つ中岡慎太郎の像は、安芸郡青年団が主体となって昭和10年(1935)に建之。建立に至る詳細は高知市立龍馬記念館のサイトに掲載されています。
訪問日:2018年6月18日
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