明治時代の廃城令で取り壊されてしまった出石城。現存するのは堀、石垣などごく僅か・・と、これはなにも出石城に限った事ではありませんが・・もちろん、城址以外にも見所は沢山あります。
まずは出石のシンボルともいわれる「辰鼓楼(しんころう)」。城の石垣などの廃材を利用して明治4年(1871)に建てられた明治時代初期の時計台。
高さは本体が木造4層で13メートル、支える石垣が5メートル。建造当初は太鼓で時を告げていましたが、明治14年(1881)に旧藩医で蘭方医の『池口忠恕』が機械式大時計を寄贈。同年9月8日から時計台として稼働し、日本国内では北海道の札幌時計台に次ぐ、二番目に古い時計台として登録されています。
「大時計と池口忠恕」
「弘道小学校跡」碑
まるで洋風庭園にでも置かれていそうな休憩ポイントですが、実はこれ、旧出石町役場の車寄せ。
「旧役場は昭和13年に当町宵田出身の実業家竹内慶吉氏の寄贈により完成した建築です。~中略~ 更にその重厚な様式は昭和初期の洋風建築として高く評価されてきました。ここに旧役場車寄せを保存 ~後略~ 」碑文よりの抜粋ですが、高く評価されてきた建物は残せなかったんですね。
車寄せから見る、出石城復元東隅櫓
再び「辰鼓楼」の側まで戻って・・できればこの美しい建造物を見ながらお弁当などというシチュエーションに物凄く憧れるのですが、多分ここではそういった行為はダメだと思うので、素直に諦める事にします(笑)
「三の丸跡」の碑と「辰鼓楼」
「辰鼓楼」と「出石城大手門跡」の碑。昼食は「但馬出石:本陣」にて
ちなみに最初にオーダーした二人分😲 、本来は一人五皿が定番ですが、折よく二皿のサービス券を貰ったので、お一人様七皿!
更にもう一人前(五皿)追加で、ご亭主殿は十四皿、私も五皿頂きました。
j🐣さんが一緒の二度目の出石皿そばは「湖月堂」さん。
テーブルの上は三人分、j🐣さんは皿が多くて邪魔だからと追加注文の蕎麦を移している最中😄 。今回ご亭主殿とJさんは八皿、私は五皿いただきました。
合計21皿の注文でお皿の絵文字は5種類、本当は何種類あるんだろう?
本陣も湖月堂も、どちらもお食事をしながら「辰鼓楼」が見えます。出石皿そばのマスコットキャラクター『そば丸』もあちこちで見られます 😊
実は私・・今だから告白しますが、この玄さん通行手形がとっても欲しかったのです😓。でも湖月堂は、秋篠宮紀子妃殿下が「こうのとり未来・国際かいぎ」ご出席の折に、皿そばをお召し上がりになられたお店。流石にこの事実には玄さんとて太刀打ちできませんでした😊
訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日
出石皿そばは、ワンコそばに似ていますね。少しずつなのに、いつの間にか食べてしまうところ。
廃城令、廃刀令、断髪令など、明治時代は近代化のために、多くのものが消えていった時代でもありました。
廃刀令や断髪令は、政府が無理矢理命令したというより、近代化を求める武士や町人が進んでやったため、後追いで命令を出したという説もあります。
断髪や廃刀は致し方なしですが、お城はもう少し残しても良かったのではないかと思ったりします。管理するお金がなかったのかもしれませんね。
大時計や車寄せなど、今回はたくさんのことを教えていただきました。感謝します。
近畿なら滋賀県の彦根城。
明治天皇行幸の折に、名城を惜しみ破却を免れています。
これなどは天皇陛下の目に留まった幸運な例。
島根の松江城は、破却を惜しむ地元の有志によって、天守閣だけは買い戻され、今は国宝として現存します。
他にも似たような話が沢山あります。
その地域の人たちにとって「城」がどんな存在であったか。
それも城の運命を決める重要な要素だったかもしれませんね。