水を湛えたお堀が往時の米沢城を偲ばせる松が岬公園。上杉家の史跡が点在する一帯には、二日に渡って紹介した上杉公縁の神社以外にも、見所が沢山あります。
城址公園の一画に残る「上杉記念館(旧上杉伯爵邸)」
明治29年(1896)、米沢城二の丸跡に上杉家14代:茂憲(もちのり)伯爵邸として建築されましたが、大正8年(1919)の米沢大火で焼失。六年後の大正14年(1925)、総檜・入母屋造りの純日本風の邸宅に再建されました。「鶴鳴館(かくめいかん)」と称された建物は、国登録有形文化財に指定されています。
現在は、米沢の郷土料理の原点とも言われる、鷹山公の「かてもの」を味わうことができる米沢唯一の館として開放。「かてもの」とは、飢饉の際に主食に植物等を混ぜ増やして、空腹を癒していた食物の事です。
敷地内には、藩の貧民救済、殖産興業、藩庫備蓄に務め、天明の大飢饉において、藩内に餓死者を一人も出さなかった米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」胸像が建立されています。
「明治天皇:行在所遺趾」碑。明治14年、東北巡幸中の明治天皇はこの地にあった南置賜郡役所に宿泊されました(郡役所は大正8年に焼失)
『霜滿軍営秋氣清數行過雁月三更越山併得能州景遮莫家郷憶遠征憶(霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁月三更越山併せ得たり能州の景さもあらばあれ家郷遠征を憶う)九月十三夜陣中作』天正五年(1577)、七尾城の戦いにて、兵士の慰労を兼ねた月見の宴で謙信が詠んだ漢詩。
「霜は真白く陣屋に満ちて、秋の気は身に沁みるばかり清々しい。空には幾列かの雁が鳴き渡り、真夜中の月は皎々と冴え渡っている。その月明かりのもとに越後・越中の山々と、更に今我が手に収めた能登の景色を見渡すことができる。ままよ、故郷の人々は我ら遠征の身を案じているだろうが今宵はそれを忘れて、心ゆくまで歓をつくそうではないか。」
某局の大河ドラマを記念して建立された『上杉景勝公・直江兼続』の主従像。台座にはドラマのタイトル「天地人」が刻まれています。
上杉鷹山が米沢に迎え入れられた際、義父:上杉重定は、歓迎の意を表して大手門前を流れる御入水川の橋を、新しく石橋に架け替えました。鷹山は、この新しい橋に気が付き、下馬をして橋の前で頭を下げて徒歩で橋を渡ったと云い、人々は鷹山の人柄に触れ、この石橋を「いただき橋」と名づけました。のちに石橋は割れてしまいましたが、その石で「建国記念の日」碑を建て、鷹山の人柄を伝承しています。
「伊達政宗生誕の地」碑。永禄十年(1567)、政宗はここ米沢城で産まれ、24歳で豊臣秀吉の命により仙台岩出山城に移封されるまでの青年期を米沢にて過ごしました。
「慰霊の碑」碑文「ふるさとの父母想い 妻や子のやすらかなれと祈りつつ 平和を願い散りし魂 戦後50年の節目の年に当り、あらためて、あの太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と、御霊の永遠の安寧を願うとともに、あの痛ましい悲惨な戦争体験を風化させることなく、戦争を二度と起こさない証として、ここに慰霊碑を建立する」
伝国の杜・置賜文化ホールの近くに「縣工発祥の地」碑。「明治30年(1897)、市議会議事堂を仮校舎として「米沢市立工業学校」が開校。染織科・染色科・機械科が置かれる。翌 明治31年に県に移管され「山形県工業学校」と改称。県内で唯一の工業学校であったため「県工」と呼ばれた」碑文より
米沢牛の恩人『チャールズ・ヘンリー・ダラス』記念碑。「東大の前身である東京開成学校の教授として日本に招かれていたダラスを、諸藩に先駆けて興譲館内に創設された洋学舎に英語教師として招聘。明治八年に米沢を去るにあたり、牛一頭を連れ帰り東京で英人仲間に馳走。その美味を賞賛され、横浜に移ってから添川村(現飯豊町)の佐藤吉之助を紹介し、横浜の牛肉問屋と特約させ、米沢牛として売出し、東京横浜で大評判となり『名産米沢牛』の名が世に広まった」碑文より
ラストは可愛らしい「野口雨情 詩碑」。大正15年4月、女流歌手第1号といわれた天童市出身の佐藤千夜子、作曲家中山晋平と共に来県した際、文学青年の集まりである「あづま詩社」の招きで米沢を訪れた折りの作品。
【 あづま山から兎がはねて ぴょんとここまでこえばよい 】
訪問日:2015年6月21日
おはよう御座います。
今朝も晴れた札幌。
夜から雪らしいです。
今日は仕事。
明日はゆっくり休みたいですね。
今日はこちらは一日 雪でした
団長さんちに比べると細やかですが
それでも慣れない雪道は危険が一杯です😓