出雲市多伎町口田儀に、出雲神話からその名が生まれた「手引ヶ浦台場公園」があります。 公園内には大砲2門を復元、設置した「口田儀台場跡」があって、ちょっとした観光スポット。
幕末の頃、松江藩は外国船に備えて海辺の要所に「唐船番」という兵団を置き監視を行なうこととしました。 寛政12年(1800)、田儀浦にもこの唐船番が設けられ、田儀湾の東西2ヶ所に台場が置かれました。
ここに置かれたレプリカは、その当時に配備された三門の「和式大砲」と同じサイズのもの。
「和式大砲」の標準の先に広がる日本海は暗く、それはそのまま、その頃の人々が抱いていた不安の色を映し出している様に見えます。
東屋の下に設置されているのは、3/4に縮小された「洋式大砲」の複製。
四方を海に囲まれ、それゆえに隣国で繰り返された侵略などという歴史を知らずに来た日本。 日本各地に設置された大砲の音は、その穏やかな歴史に終わりを告げる合図となりました。
話を神話の世界に戻せば、多伎伎姫の鎮座する所を多伎と言い、田儀の町名もこれに因みます。【『大国主』の娘である『阿陀加夜努志多伎吉比賣命(あだかやぬしたききひめのみこと)』は、父神の言いつけにより多吉里(たきり)に来られ、ここでお住まいになられました。ある日、命が父神のおめしにより「杵築の宮」へ行くために、この浜辺を通りかけられると、海人が命の御出発を惜しんで、にわかに津波を起こして引き止めようとしました。やがて大波が激しく押し寄せて浜辺をふさいだため、命は沖の海神に向かって「私は今、父神のお召しを受けて杵築の宮へ参ろうとここまで来た。早く波を静め、潮を引かせて道を開かせ給え」と言われると、それまで荒れ狂っていた大波もぴたりとやんで、元の美しい白浜にもどりました。これをご覧になった命は、お供の者たちの手を引いて真一文字に稲佐の浜へと急がれました。そのいわれにより、この浜辺一帯を「手引ヶ浦」と呼ぶようになりました。】
神話の国・出雲では、何気なく通り過ぎる地域の名前一つにも、長い物語が隠されています。 時折目にする意味のないカタカナと番号だけの地名を見る時、簡便性だけで、はるか悠久の昔より受け継がれてきた神代の歴史が失われないようにと願います。
訪問日:2015年4月20日
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