高梁川から引き込まれた小高下谷川を横切る伯備線、時折かなりの轟音と共に電車が走り抜けていきます。今時決して珍しくもない筈なのに、なぜか立ち止まってカメラを向けてしまう・・何なんでしょうね😊
高梁市の神社参拝の後は、楽しみにしていた「武家屋敷通り」の町歩き。パンフレットにいわく「約250メートルの坂道沿いには、今も備中松山藩の城下町らしい旧武家屋敷や土塀が残されており、独自の景観を作り出しています。」と言う事ですが、さてどんな風景に出会えるのでしょう。
白漆喰の壁がひときわ目を引く長屋門は、160石取りであった「旧折井家」。門の奥に見える母屋は江戸時代後期の天保年間に建てられたもの。建物は寺院や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りとなっており、市の重要文化財に指定されています。
こちら、「梶谷邸表長屋」の外壁に設けられた「武者窓」。城郭建築や武家屋敷の表長屋などの外壁に設けた、太い格子の付いた窓の事で、屋敷の中から外の様子をうかがう目的でつくられたものです。
町歩きの途中に気が付かずに通り過ぎないように、土塀の角に「高梁観光百選 梶谷邸の武者窓」の石碑が建てられています。
小高下谷川に架けられた御茶屋橋。かって橋の向こうには藩主の居館であった「御根小屋」がありましたが、今はわずかに石垣などに当時の面影を残すのみ。広大な敷地には「高梁高等学校」の校舎が建てられています。
「石火矢町ふるさと村 高梁市は今から300年前に、水谷勝宗が小松山に城を築いて以来、明治維新まで城下町としてこの地方の政治、経済、文化の中心として栄えてきました。現在の町並みでも石火矢町一帯は、城下町の町割りや土塀をめぐらした武家屋敷が残っています。”ふるさと”をいつまでも保存し、伝えてゆくために岡山県では”ふるさと村”として指定しています。環境庁・岡山県」
「高梁高等学校」の並びに、「TVアニメ:バッテリー」のロケで主人公の家となった「井岡邸」があります。恥ずかしながら😅 私「バッテリー」の原作もアニメも見たことがないのですが、主人公原田巧は、「飛びぬけた才能と傲慢なまでの自信を持つピッチャー」だそうです。
古い商家の並ぶ本町通りを歩いていると、過去と現代が奇妙にマッチした不思議な感覚に襲われます。黒く煤けて見える千本格子の二階の手摺り、白漆喰が美しいなまこ壁のお蔵、固く閉ざされた大戸・・・。それぞれの建物が持っている過去の歴史の一面、それはまた、今現在の日々の暮らしの一面でもあるのです。
本町通りでひときわ目を引く「旧池上邸」。享保年間にこの地で小間物屋を営み、両替商、高瀬舟の船主等を経て醤油製造で財をなした豪商、今も軒に大看板が掛けられています。
池上醤油醸造元
桜と柳の並木が続く紺屋川は、備中松山城の旧外堀として作られたもの。川を結ぶ橋には、古くから地域の人に守られてきた祠が今も残されており、情緒豊かな通りの風景を作り上げています。
賑やかな子供たちの声に立ち止まった門の前には、「藩校・有終館跡」の碑。建物は天保3年の大火で消失した後に再興されましたが、天保10年の大火で再び消失。嘉永4年、学頭(校長)であった『山田方谷』によって再興され、明治4年(1871)年の閉校まで多くの人材を育てあげてきました
紺屋川・住之江橋側に建つ「高梁基督教会堂」。明治22年(1889)に、『吉田伊平』によって、設計・建築されたもので、現存する県内最古の教会として県の史跡に指定されています。
高梁市頼久寺町で見かけた「旧順正寮跡の碑」。「順正女学校」は、明治14年(1881)に『福西志計子』が開いた「女紅場(裁縫所)」から発展した、岡山県初の女学校です。
工事用の柵の向こうに見えるのは、岡山県初の女学校舎で、のち寄宿寮に転用された「旧順正寮(県指定重要文化財)」。特に立ち入り禁止の札も無かったので、柵外から写真に収めてきましたが、ここって吉備国際大学高梁キャンパス内なんですね~
訪問日:2010年8月11日
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