車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

明石(あかし)城 in 兵庫県明石市

2023年12月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

国の史跡:明石城跡を整備した「兵庫県立明石公園」。かってこの地には旧明石藩の政庁と藩主の居所であった「明石(あかし)城」、別名「錦江(きんこう)城」と呼ばれる美しい城がありました。

元和3年(1617)信濃松本藩主より明石藩主となった『小笠原忠真』は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城。その年、譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう2代将軍『徳川秀忠』より築城を命ぜられます。

築城と並行して城下町の町割りも実施されますが、これを指導したのは当時小笠原忠真の客分だった『宮本武蔵』であった事が、『播磨鑑』や『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』などの各史書に記録されています。

築城は人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上(ふなげ)城の木材を使用して着工。本丸の南東端に築かれた「巽(たつみ)櫓」には「船上城の遺材が使用されました。

復元された城壁によって「坤櫓」と繋がる「巽櫓」。その先には、日本標準時子午線上に建つ「明石の天文台」がはっきりと見えます。

伏見城の遺材が使用されたと伝えられる「坤(ひつじさる)櫓」。天守閣を持たない城においては、本丸の南西端に築かれた「坤櫓」がその代用を果たしたといいます。昭和32年(1957)6月18日、巽櫓・坤櫓は共に、国の重要文化財に指定されました。

二つの櫓はそれぞれ偶数月、奇数月の土日祝限定で櫓の一階部分のみが一般公開されます。私たちが訪問したのは9月:敬老の日。滅多に出くわさない幸運は逃してはいけません(笑)

天井の梁・・圧倒される緻密さと頑丈さ!

大小の鯱は櫓に設置されているものと同じだそうです。

展示コーナーでは他にも当時の古い瓦が沢山展示されており、瓦大好きなご亭主殿は一心不乱に瓦と睨めっこ。丸瓦の家紋が一つでないところに特に興味を惹かれたようです。

そう言えば明石城の城主は、寛永9年(1632)小笠原家が転封になってから越前家の松平直明が入城した天和2年(1682)までの50年の間に4人も城主が入れ替わっているのです。

城と言えば石垣、実は私、こう見えてお城の石垣を見るのがとっても好きなのです。なぜと聞かれても困るのですが、とにかく好きです(笑)

石垣の刻印も、その時々の時代背景がわかると、実に興味深い話が飛び出してきます。こうした刻印石は他にも幾つか見つけられました。

この日は三連休とあって何かの催しが盛大に行われていました。地元の名産品の屋台や出店もたくさん並び、本来なら滅多にない幸運に喜びたいのですが・・

あそこもここも、もっとゆっくりと見て回りたいけれど、私たちはタンデムで自宅まで帰らなければなりません。遠近乱(笑)の御亭主殿にとって、日暮れ時のバイクの運転はとても負担なのです。と言いつつ、碑らしきものが目に入るとふらふら~~と(^^;)

これは「県農発祥の地」碑。県農とは「兵庫県簡易農学校」の略で1897年4月1日、明石城址御料地(現在の明石公園)内に於いて、農学校が創立された記念の碑です。

帰る間際に見つけてしまった明石空襲之碑」

「昭和20年1月19日. 明石への最初の空襲は兵庫県下への最初の本格的空襲でもあり、川崎航空機明石工場が標的とされた。 B29爆撃機63機が川崎航空機明石工場に610発154トンの爆弾を投下、この空襲で263人が犠牲となり、その後も6月9日、6月26日と続き、7月7日には1,045トンの500ポンド油脂焼夷弾が投下。それによって市街地は火の海となり焦土と化した。死者・不明者の総数は1,560人、負傷者1,560人、家屋の全焼11,108棟、半壊2,614棟 

日本が先の大戦で敗者となった時、多くの方々が「人道に対する罪」を犯したとして、いわゆるA級戦犯と区分されて絞首刑にされました。勝者が敗者を裁く、それは見せしめ以外の何物でありません。二度と過ちを繰り返さないと言う自称知識人たちに問いたい!。「人道に対する罪」とは、二度の原爆に代表される、こうした一般市民を巻き込む無差別殺戮の事を言うのではないのですか? A級という言葉の本来の意味も知らず、アルファベットの一番最初のAだから、一番重い罪を犯した人と定義する自称知識人たちに本気で聞きたい!

訪問日:2009年9月22日

 

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