車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

芦屋警察旧庁舎玄関 in 兵庫県芦屋市

2023年12月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

芦屋市公光町に建つ「芦屋警察署庁舎」。その南東部にロマネスク様式の旧庁舎正面玄関が残されています。玄関後部の新館は、色調や窓の形状などが旧庁舎の外観と適合するよう配慮され、言われなければ全部が当時の建物と錯覚しそうです。

昭和2年(1927)に竣工された石造庁舎は正面玄関のみとなりましたが、アーチや正面上部に配されたミミズクの彫刻などが、今も往時の面影を伝えています。

旧庁舎玄関アーチの「ミミズク」は、夜警を象徴する鳥。実はお子様たちにはとても馴染み深い「アニメ:トトロ」のモデルでもあります。

芦屋には「国指定重要文化財:ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)」をはじめ、他にも幾つかの歴史的建造物が残されているのですが、生憎と未訪問のままです。いつか機会があればと思いながら、市内の渋滞などを想像するとつい億劫になってしまい、結局このままで終わってしまいました。

訪問日:2009年9月19日

 

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ご当地マンホールとマンホールカードA&B in 兵庫県芦屋市

2023年12月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

芦屋市(あしやし)は兵庫県南東部、大阪と神戸のほぼ中間に位置し、兵庫県で二番目に面積の小さい自治体です。神戸市、西宮市に隣接。市域は南北に細長く、北は六甲の山並み・南は大阪湾に面し、気候温和な自然環境と便利な交通環境などに恵まれています。

市内北部や中部は高級住宅地として名高く、特に六麓荘町は豪邸が立ち並び、住民間の建築協定を景観条例に押し上げ、全国に先駆けたいわゆる「豪邸条例」が可決、施行されました。(敷地面積400平方メートル以上の土地にのみ、戸建住宅の新築が許可される)。市内南部は谷崎潤一郎の小説『細雪』の舞台になったことでも知られます。「市の木:黒松」「市の花:コバノミツバツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「知性と気品に輝く活力ある国際文化住宅都市」

明治22年(1889)、町村制施行により、菟原(うばら)郡精道村が発足。

1896年、郡制の施行により、武庫郡・菟原郡・八部郡の区域をもって、改めて武庫郡が発足。

1940年、武庫郡精道村が市制を施行、芦屋市となりました。

デザインストーリーマーマンホールには、「芦屋市シティプロモーションのロゴデザイン」がそのまま使用されています。

芦屋市役所:下水道課内にも「芦屋市シティプロモーションのロゴデザイン」が飾られています。

芦屋市役所:下水道課の展示マンホールは、「市の木:黒松」と「芦屋浜と芦屋川の清流」。

実際に設置されているカラーマンホールは、展示蓋ほど華やかな色彩ではありません。

芦屋川沿いには、海岸まで約2キロにわたって黒松が植えられ「芦屋公園」として整備されています。

もう一種類のマンホールには、故牧野富太郎博士命名の「市の花:コバノミツバツツジ」が抽象的に描かれています。

カラーマンホールは、芦屋市清水町の小さな公園の一画に一枚だけ設置されています。

市章は、大正12年3月31日に制定された精道村章をそのまま引き継いだもので、【精道村は、山を負い海に臨み風光明媚の地にして、芦屋・打出・三条・津知の旧4カ村から成り、円満、平和にして隆々として発展の勢あり、すなわち、山、海、四、円平、旭を図示す】公式HPより


撮影日:2008年5月5日&2009年9月19日&2017年4日6月&2018年8月18日

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2018年8月11日、第8弾として全国76自治体で76種類(累計364自治体418種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。芦屋市Aのカードは「芦屋市役所下水道部 下水道課」で頂けます。

2018年に設置されたマンホールには、芦屋にふさわしい「シティプロモーションのロゴマーク」がデザインされています。

【芦屋市の象徴的なモチーフである「国指定重要文化財旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)」や「六甲山頂」「桜」「クロマツ(市木)」 「コバノミツバツツジ(市花)」「ヨットハーバー」を、親しみやすく華やかなイメージにまとめたシティプロモーションのロゴマークをプリントしたデザイン蓋です。 本市の魅力である <まちなみ・文化・緑や海などの美しい自然> のすべてを「憧れ」の一言に凝縮し、それらを「日常」として親しみを感じていただきたいという希望が込められています。 なお、このデザイン蓋はJR芦屋駅北側と阪神芦屋駅北側に1つずつありますので、是非探してみてください。】

訪問日:2018年8月13日

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マンホールカード、頂きました。

2020年6月1日、第12弾として全国53自治体で62種類(累計535自治体667種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「芦屋市B」のマンホールカードは「芦屋市立美術博物館」でいただけます。

1990年に設置開始されたマンホールには「芦屋川」と「市の木:クロマツ」がデザインされています。

「芦屋川と市木のクロマツが描かれたデザイン蓋となっています。 芦屋川沿岸は、市民の日々の生活において身近で親しみのある場所であり、六甲山系の緑を背景に河川を軸として河岸のクロマツや桜の並木と宅地内の生垣、樹木及び御影石の石積等が一体となった緑豊かな美しい眺望景観が形成されています。 寛政八(1796)年に発刊された”摂津名所ヅ図会”にも、芦屋川と浜辺の松林と六甲山麓を望む景観が描かれています。 また、「ヨドコウ迎賓館」や「芦屋仏教会館」「芦屋警察署旧正面玄関」「ぬえ塚」等、芦屋市の歴史を物語る文化財や歴史遺産が数多く佇んでおり、重要な地域となっています。」

 

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ご当地マンホールとマンホールカードB&C in 兵庫県川西市

2023年12月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

昨日に続いての川西市マンホールの紹介。「清和源氏発祥の地 川西」を発信する川西市の駅前に建立された騎馬武者像は『源満仲』。清和源氏とは、清和天皇を起源とする氏族で、その歴史は今から1000年以上前にさかのぼります。清和天皇のひ孫にあたる源満仲公は、川西の多田盆地に移り住み「多田院」を創建しました。この「多田院」は現在の「多田神社」のことで、多くの観光客が訪れる観光スポットとなっています。のちの時代に全国で活躍した源氏の武将たちはこの満仲公の子孫であることから、川西市は清和源氏発祥の地といわれています。

新たに設置されたマンホールには、「多田神社南大門」と「市の花:りんどう」「市の木:さくら」がデザインされています。

池田市マンホールサミット展示蓋

「黒川公民館」と特産品の「一庫炭:菊炭」、「市の花:りんどう」がデザインされたマンホール。

池田市マンホールサミット展示蓋

マスコットキャラクター「きんたくん」がデザインされた、デザインストリーマーマンホール。

清和源氏の祖である源満仲の子・頼光の家来で、四天王の一人『坂田金時』をモデルに誕生した『きんたくん』。3歳の元気いっぱいな男の子です。

撮影日:2019年12月15日

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マンホールカード、頂きました。

2020年12月17日、第13弾として全国50自治体で50種類(累計557自治体717種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「川西市B」のマンホールカードは、「川西市上下水道局経営企画課」でいただけます。

2019年に設置開始されたマンホールには「多田神社南大門」と「市の花:りんどう」と「市の木:さくら」がデザインされています。

「中央に「多田神社」南大門、その横に市花「りんどう」と市木「さくら」を配したデザインマンホール蓋です。 多田神社は、天禄元年(970年)に源満仲公によって前身である多田院として建立されました。 第56代清和天皇の曾孫にあたる満仲公は、川西の多田盆地に移り住み、武家の棟梁としてここを本拠に清和源氏の礎を築きました。 後世に名を馳せた源氏武将たちは、全てこの満仲公の子孫であることから、川西はわが国における源氏と武士団発祥の地と言われています。 毎年4月には、鎧・兜に身を固めた源氏武者が練り歩く懐古行列、川西市源氏まつりのメインイベントとしても催されます。」

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2021年8月17日、第15弾として全国50自治体で22種類(累計557自治体717種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「川西市C」のマンホールカードは、「川西市上下水道局経営企画課 (3階)」でいただけます。

2019年に設置開始されたマンホールには「川西市立黒川小学校」と「市の花:りんどう」と「一庫炭(ひとくらずみ)」がデザインされています。

「川西市北部で、古くから茶席で使用されている高級炭「一庫炭」を生産している黒川地区をモチーフにしたマンホール蓋です。この地区では、一庫炭の原材料であるクヌギを約8年周期で輪伐し、人が常に手をいれることで、パッチワーク状の景観や豊かな生態系を持つ里山を作り上げてきました。また、明治時代に建てられた旧黒川小学校をそのまま利用している黒川公民館は、周辺の里山風景とマッチして、訪れる観光客の郷愁を誘っています。人の生活のために現在も利用されている里山は全国的にも珍しく、黒川地区は「にほんの里100選」や「北摂里山34」に選定されるなど「日本一の里山」と呼ばれています。」

 

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ご当地マンホールとマンホールカードA in 兵庫県川西市

2023年12月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

川西市(かわにしし)は兵庫県の東南部に位置する市です。東は大阪府池田市と箕面市に、西は宝塚市と猪名川町、南は伊丹市、北は大阪府能勢町と豊能町に隣接。東西に狭く、南北に細長い地形になっており、気候は温暖で北部は山岳の起伏に富み、その一部は猪名川渓谷県立自然公園に指定。南部は平たんで、市の中心市街地はここに形成されています。明治17年(1884)に三菱が日本国内初の飲料水工場を平野に創設。「平野水(後の三ツ矢サイダー)」として販売されました。「市の木:桜」「市の花:リンドウ」を制定。

キャッチフレーズは「あんばい ええまち かわにし」

昭和57年(1982)には、淀川水系一庫大路次(ひとくらおおろじ)川に、猪名川・神崎川沿岸の治水、川西市を始め猪名川沿岸各自治体への上水道供給を目的とした多目的ダム「一庫ダム」が完成。 16年の歳月と638億円を投じた高さ75メートルの重力式コンクリートダムは圧巻で、ダム湖百選に選定され、一帯は川西市民の憩いの場となっています。

明治22年(1889)、町村制の施行により、川辺郡川西村、多田村、東谷村が発足。

1925年、川西村が町制を施行、川辺郡川西町となる。

1954年、川辺郡川西町・多田村・東谷村が合併、川西市が発足します。

マンホールには「市の花:リンドウ」と、周囲に「市の木:桜」が描かれています。

池田市マンホールサミット展示蓋

「市の花:リンドウ」と、周囲に「市の木:桜」がデザインされた小型マンホール。

川西市役所 展示マンホール

川西市シンボルマークと「市の花:リンドウ」がデザインされた、水道仕切り弁

川西市シンボルマークと「市の木:桜」「市の花:リンドウ」がデザインされた空気弁。

川西市シンボルマーク付き消火栓

昭和29年8月1日制定の市章は「川西を図案化したもので、中央の「川」は川西の「川」と市内を流れる猪名川を兼ねて表しています。全体の円形は「西」を丸くしたもので、平和と円満を表しています。」公式HPより

撮影日:2008年5月17日&2019年12月15日

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2019年12月14日、第11弾として全国63自治体で66種類(累計502自治体605種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「川西市A」のマンホールカードは、「アステ市民プラザ」でいただけます。

1988年に設置開始されたマンホールには「市の花:りんどう」と周囲に「市の木:桜」がデザインされています。

「中央に̪市花「りんどう」、その周りを囲むように市木「さくら」がデザインされたマンホール蓋です。 清和源氏発祥の地である川西市。 昔、川西をひらいた源氏が旗印にササリンドウを使用しており、市内には、源氏にゆかりのある場所が多数あります。 毎年4月には川西市源氏祭りが開催され、沿道に飾られた桜提灯が、祭りの雰囲気を盛り上げます。また、さくらは「日本一の里山」と称される黒川地区をはじめ、市内の名所旧跡に咲き誇り、春の野山を彩っています。 生活環境を守るという公共下水道の大切な役割を通じて、川西市の美しい自然を守っていこうという思いが込められています。」

訪問日:2019年12月14日

 

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妖怪ベンチの妖怪たち in 兵庫県福崎町

2023年12月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

妖怪を使った町おこしに挑む福崎町には、世界各地の妖怪と並んで座れるベンチが14か所に設置されています。これを書いている時点でまた幾つか増殖したようですが・・

まずは「ファミリーマート福崎南インター店」『一反もめん』。初めて見た時は、コンビニの新たなイベントか??と何度かやり過ごした妖怪。

妖怪ベンチの一つと知って、しっかり画像に収めてきました。木綿というよりもミイラっぽい妖怪ですが、それにしても、本当によくできています。

「ひのストア」さんの『鬼』。一反もめんに続いて見かけたこの鬼も、お店の看板かなと思いつつ、あまりにも面白い構図だったので一応記念写真を(笑)。

もちろん、鬼さんとのツーショットスマホ自撮りにも便乗~😁 この後、町内の各所に妖怪がいると教えられ、急遽予定変更。マップ片手に妖怪探索。

廻った順番は適当なので、コースの参考にはしないで下さいね(笑) 「グルメミートにしおか」さんの『猫また』は、tibineko一押しの妖怪。

何故一押しかって? だって猫だから😊 我が家の愛猫も、尻尾が二又になろうと三又になろうと、いつまでも元気でいてくれるなら・・と真剣に願っていました。

ちなみにご亭主殿の一押しは「天狗寿司」さんの『天狗』。理由はその姿が身につまされて、とても他人には思えない😣

おでこがやたら広く見える頭(彼は、元々)。背中を丸めて眼鏡をかけて・・寸暇を惜しんで一心にノートPCにデーターを打ち込む姿は、もう心底身につまされるんだそうです。

仕事に疲れたら「福ふく温泉」さんで一風呂浴びて・・・でも『雪女』には気を付けて!!。出会う旅人に甘い言葉をささやき、気を許した瞬間に氷の息を吹きかけて・・・

雪女が嬉しそうに見つめている雪の塊、よ~~~~く見て下さい。そこに浮かび出ているのは憐れな男たちの末路の姿。

そうそう、ここにはなんとあの有名な『透明人間』が居るのですが、透明なので見えません。 仲良く肩を組んでいますが、やっぱり透明なので見えません😆

雪と言えば冬、では夏と言えば・・・やっぱり海ですよね。でも海にも危ない妖怪がいるんですよ。それが「ミートショップ松井」さんの『海ぼうず』

彼曰く、「俺は海の漢だ!坊主じゃないぜ」「赤いタコッチは俺様のペットだぜ」、だそうです(嘘だけど)。

「サタディサン」さんの前で誰かが大泣きしてる・・と、心配になって見に来たら、そこに居たのは体は子供、頭はジジィの妖怪『コナキジジイ』

どうやら折角買ってもらったアイスを落としてしまったらしい・・・こんな顔されたら、つい新しいのを・・・・もしくはグーパンチを👊

「ボンマルシェ」さんの前で人懐こくカタツムリの尾っぽを振るのは妖怪『スネコスリ』。夜中に道を歩いていると、足の間をこすりながら通り抜けて歩行の邪魔をする妖怪。もしも何もないところで足がもつれたら、それはこいつの仕業かも・・

「ヒサヤ(株)サラダ館」さんの近くには『一つ目小僧』がいて、突然目の前に現れて人を驚かして喜んでいるらしい😩。でも車の運転中は危険だからやめてね。ちなみにペットはカエルだそうです。

「焼肉ハウス北山」さんの『油坊』。油を盗んだ僧侶がこれに化けたという伝承に由来するそうですが、妖怪になったら火まで吹くようになって!!。しかも坊主だったのに、お肉食ってるし😆

町中を離れて山間の福崎町高岡まで車を走らせました。「神戸医療福祉大学」の構内には『タタミタタキ』がいます。夜中に畳を叩くような音を立てる怪物で、高知県出身の御亭主殿には馴染み深い妖怪かも・・って言ったら「知らん!」とつれない一言。

この力一杯の顔😆 でもね、本っっっっっ当ぉぉぉぉぉに迷惑だから止めてください!!

予定をすべて取りやめて廻った福崎町の妖怪ベンチ。ラストは妖怪と呼ぶには可愛すぎる『ふくちゃん・サキちゃん』。福崎町を盛り上げるためにこれからも頑張って下さいね😊

訪問日:2019年9月18日

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福崎:辻川山公園の妖怪たち in 兵庫県福崎町

2023年12月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

福崎町では「遠野物語」などの著者で民俗学者の『柳田国男』にちなんだ地域活性化の一環として2014年に「辻川山公園」に『ガタロ』を登場させました。

以来、妖怪による町おこしの立役者として雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ・・って、別の物語になってます(^^;)

あれから5年・・2019年現在、「辻川山公園」には実に様々な妖怪たちが住むようになりました。中でも一番の古株が『河童の河太郎(ガタロウ)』。彼は河童の兄弟のお兄ちゃん。尻子玉を取るのに夢中になって時間を忘れ、気が付いたらお皿が乾いて動けなくなって・・・!!そのまま固まってしまい、もうずっと池の畔にいるのです。

河童の『河次郎(ガジロウ)』は河太郎の弟。普段は池の中にいて、時間になると、水中から飛び出てきます。

2004年の訪問時は確か一匹だったのに、いつの間にか子分が二人!? いやそれとも結婚して子供が出来たとか?? う~~~ん、求む!詳細(笑)

暫くすると再び水中に戻る河次郎君たち。ところで河次郎君さぁ・・お兄ちゃんのお皿に水をかけて助けてやるという兄弟愛は無いのか??(笑) 

このガジロー君、最近は「福崎駅前観光交流センター」まで通じる秘密の地下トンネルを作って行き来しているとか。

しかも福崎町の妖怪代表として、観光客相手に日々将棋を楽しんでいるらしい。更に更に!!、地元を代表してマンホールのデザインにも登場しているし・・‥お兄ちゃんの存在、もう完全にガン無視(笑)

長考中・・・・

再び辻川山公園に戻って、長い金髪を見せびらかしているのは、地上3mの気味悪い小屋に住む妖怪『逆さ天狗』

時々、大好物の「もちむぎどら焼き」を持って小屋から飛び出してきます。もちろん逆さのまま(笑)

2019年の福崎訪問で初めてお目にかかった塑像妖怪も、迫力満点。第1回全国妖怪造形コンテスト:テーマは「天狗」。一般の部最優秀作品は稲村氏の「天狗の森の妖翁」・・そうか、天狗も年を取るのか・・・となると、この天狗は何万年生きて来たんだろう?

第2回全国妖怪造形コンテスト:テーマは「山の神」。一般の部最優秀作品は首藤氏の「森に吹く風」。小動物にも河童にも人気の猪様。

そういえば滋賀の息吹山に棲んでいた山の神も白い巨猪でしたね。

第3回全国妖怪造形コンテスト:テーマは「鵺」。一般の部最優秀作品は上野氏の「招き鵺」。金田一探偵が活躍した悪霊島では、「鵺の無く夜は恐ろしい」と言い伝えられています(笑)

こんなのと夜に出会ったら、もう余裕で死ねます(笑)

第4回全国妖怪造形コンテスト:テーマは「砂かけ婆」。一般の部最優秀作品は青千代氏の 「怪しい抜け道」

『砂かけ婆』と言えば水木さん描くあの顔が強烈かつ、可愛らしくて(笑)好きでした。

「鈴の森神社」看板前のベンチに、何やら怪しい緑の人影・・・

妖怪の名前は『油すまし』。ゲゲゲの村の村長さんは油を盗んだ人間の霊が化けたものですが、こっちの「油すまし」は、油そのものの妖怪っぽいですね。

福崎町にはまだまだたくさんの妖怪がいます。最近は住み心地の良さに憧れてか、いろんな国や場所から妖怪が集まってるらしく、みんな人恋しいのかベンチ付きで待ってるらしい(笑) 明日はそんな妖怪たちを紹介します。

訪問日:2004年12月6日&2019年9月18日

 

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柳田國男ゆかりの町を歩く~Ⅱ~ in 兵庫県福崎町

2023年12月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

民俗学 柳田國男もちむぎ麺のまち 福崎町」

「もちむぎ麺」とはあまり聞きなれない言葉ですが、曰く「うどんにあらず、そばにあらず、独特の食感と風味はまさに麺の中の逸品。」ざる麺から季節の和膳まで、いろいろお楽しみいただけるのがここ「もちむぎの館」。柳田國男とはあまり(全然)関係ありませんが、福崎町の代表を二分する食材です。

福崎町西田原に残る「三木家住宅」。三木家は姫路藩英賀城主の後裔で、明暦元年(1655)に姫路藩主の榊原家に新田開発を命じられ、辻川の地に移ったと伝えられる名家。以来明治4年(1871)の廃藩置県まで、代々姫路藩の大庄屋として地域に貢献してきました。 柳田國男が10歳から12歳頃まで三木家で生活し、著書『故郷七十年』に「三木家の四千冊余の蔵書を乱読したことが民俗学の基礎となった」と書き記しています。

建物九棟・表座敷が兵庫県指定重要有形文化財に指定されています。が・・・老朽化による全面修理が2010年11月から行われているそうで、修理から4年を経てもまだこの状態でした。

東隣に屋敷を構えるもと庄屋の三木家が、大正11年(1922)に辻川郵便局長就任。それを機に建設を始め、大正12年に竣工した「旧辻川郵便局」。

外壁は下見板張。上下階とも上げ下げ窓を配し、軒先に瓔珞(ようらく)をまわし、1階玄関ポーチの庇に「〒」をモチーフとした意匠で天井を飾るなど、洋風の郵便局舎の好例であるとして、2008年に国の登録有形文化財に指定。

「旧辻川郵便局 現地案内」

向かって右に掲載された写真部分の実写。

三木家住宅がある通りの歩道にあった観光プレートは「辻川界隈 銀の馬車道」。兵庫県中央部の播但地域に姫路・飾磨港から生野鉱山へと南北一直線に貫く道があります。“銀の馬車道”と呼ばれる歴史の道・・いつかはこの道をたどって生野銀山まで・・

柳田國男生家近くにある「福崎町立神崎郡歴史民俗資料館」。明治19年(1886)に神東・神西郡役所として、神東郡西田原村辻川(現 西田原の辻川区)に建設され、明治29年に神崎郡役所と改称。大正15年に廃止されるまで郡役所として使用されてきました。

昭和57年(1982)に現在地に移築・復元し、同年10月に資料館として開館。西洋の新古典主義建築の様式を取り入れた建物は本当に美しく、ただ見ているだけで幸せな気分になれます。

受付の窓口上に飾られていた「柳田國男」氏のサイン入り写真・・塑像やイラスト、銅像とは全く別の人物がそこにいました。

資料館の展示で印象に残ったのが、「八葉寺旧本堂の蟇股」。それがいかにも私らしいと御亭主殿😅。流水に水仙の透かし彫り彫刻で、寛文五年頃に建てられた本堂にあったらしいですが、詳細は不明😓 

資料館の前に展示されていた「伝山崎群集墳内出土:組合せ式家形石棺」

訪問日:2014年12月6日

 

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柳田國男ゆかりの町を歩く~Ⅰ~ in 兵庫県福崎町

2023年12月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

明治8年(1875)、田原村辻川(現福崎町西田原)の松岡家の6男として生まれた『柳田國男』。上京し東京帝国大学卒業後、農商務省などに勤めるかたわら各地を旅して、地方に残る習俗や伝承に注目し、【後狩詞記(のちのかりことばのき)】【遠野物語】などの民俗学への道となる書を著しました。

氏の故郷である福崎町には、國男氏自ら「私の家は日本一小さい家だ」と述べたという「県指定文化財:柳田國男生家」が残されています。

間口5間、奥行き4間、土間、3畳間と4畳半の座敷、4畳半の納戸、3畳の台所・・当時ここには両親と長兄鼎(かなえ)夫婦、國男、弟の静雄と輝夫(映丘)の7人が住んでいました。国男少年は、10歳くらいまでこの家で暮らしていたと言います。後に國男の母の実家がある加西市北条町へ移り、次に千葉県布佐へ移住することになります。

もとは辻川の街道沿いにあった生家は、昭和49年(1974)に国男少年にゆかりの「鈴の森神社」のそばに移築され一般公開されています。家だけを考えれば、日本一小さくは無いのですが、ここに7人の人間が暮らすとなると・・・日常のこまごま、あれこれを考えれば考えるほど、それは想像の域を超えます😔 

この肖像画は「鈴の森神社」に奉納された絵馬。上段中央左から「松岡鼎先生」「柳田国男先生」「松岡静雄先生」下段左から「松岡映丘先生」「井上通泰先生」。いずれも写真から描き起こされたもののようです。

柳田國男が子どもの頃によく遊んだと云う「鈴の森神社」。御祭神は『彦瓊々杵命(ヒコホノニニギノミコト)』配祀神『天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・太玉命(フトタマノミコト)』

「創建年代は不詳。社名に含まれる「すず」とは聖地の意味であるとされており、播磨鑑には大己貴命が峯相山より宍粟郡へ遷座したときに播磨の神々がここに集まったという記述がある。また、元々は現在の社地より北西にある古宮跡に神社があったという伝承がある。」現地案内より

松岡家ゆかりの神社として知られており、その関連から学業成就・合格祈願のご利益があるとされ、また、安産の神様としても信仰されているそうです。

開放的な拝殿の奥。本殿に続く神域の左右より守護される随身様。これほど全身がくまなく拝見できる配置は、かなり珍しいですね。

拝殿前より神域を守護されるのは耳垂れ浪花タイプの狛犬さん一対。国男少年はこの狛犬さんの背中に乗って遊んだそうですが・・・それはもうずっと昔の話なので、現代に生きる良い子は真似をしちゃいけません😅

【 うぶすなの 森のやまもも 高麗犬は 懐かしきかな もの言わねども 】

「町指定天然記念物:拝殿前のヤマモモの木」樹高約13m、幹回約3.3m。「国男は子供の頃、ヤマモモの木に登って実を食べようとしましたが、他の子どもたちが先にとってしまって一度も見た事が無かったと著書「孤猿随筆」に書き記しています。」現地案内より

「常盤 御前 都落の図」天保の作(約百五十年以前)で柳田国男が絵馬入りのハガキを使用し、使用ハガキは記念館に展示されている」現地案内より

神社の石段前より神域を守護されるのは仔取り・玉取りの狛犬さん一対。拝殿前の狛犬さんと比べると、もう少し後の奉納に思われます。

生家の側に建立された銅像と文学碑。

【 をさな名を 人に呼ばるる ふるさとは 昔にかへる ここちこそすれ 】

明治42年7月・國夫33歳の時。出石よりの帰り、辻川へ帰省した折 、幼馴染の友人たちに「くにおはん」と呼ばれて、その響きに少年時代を懐かしみ、故郷に残した一句だといわれています。

生家の東隣にある「柳田國男・松岡家顕彰会記念館」。日本民俗学の父とも呼ばれる民俗学者で福崎町名誉町民第1号の『柳田國男』をはじめとする、文学・民俗学・医学・美術などの世界で活躍した松岡家五兄弟の顕彰を目的として、昭和50年(1975)11月に設立されました。

館内には著作物、編集物(雑誌・刊行物)、原稿、書簡、葉書、机、卒業証書、御大典に着用した衣冠束帯などが収蔵されています。

柳田國男ゆかりの福崎町歩き、もう少し続きます。

訪問日:2014年12月6日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 兵庫県福崎町

2023年12月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

神崎郡福崎町(ふくさきちょう)は兵庫県南西部、中播磨北部に位置する内陸の町です。町名は「福田」と「山崎」から一文字を取った合成地名。加西市、姫路市、市川町に隣接。市川の中流部と、その支流である七種川流域を占め、周囲を低山と丘陵に囲まれた小盆地で、北西端にある七種山(683m)は七種の滝、つなぎ岩などの奇勝がある事で知られています。町の東部には溜池が多く見られ、最も大きいものは、姫路市にまたがる西光寺長池で面積26.0haと広大です。また日本民俗学を確立させた『柳田國男』の出身地としても知られています。「町の木:クロガネモチ」「町の花:サルビア」を制定。

キャッチフレーズは「活力にあふれ 風格のある 住みよいまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、神西郡福崎村、神東郡田原村・八千種村が発足。

1896年、郡制の施行のため神東郡・神西郡および多可郡の一部の区域をもって神崎郡が発足。

1925年、神崎郡福崎村と高岡村が合併、町制を施行して福崎町となる。

1956年、神崎郡福崎町・田原村・八千種村が新設合併し、改めて福崎町が発足。現在に至ります。

マンホールには「播但線の電車に乗るガジロウ」と、もち麦パスタを食べる「フクちゃん・サキちゃん」がデザインされています。

中央に「町の花:サルビア」両サイドに「町の木:クロガネモチ」がデザインされています。

中央に「市川」の清流、左手に「町の木:クロガネモチ」、右側に「町の花:サルビア」がデザインされています。(福崎町庁舎展示マンホール)

昭和32年7月10日制定の町章は「全形を以って、円満協和を表し、両鋭角は町の発展を象徴し、かたかなの「ク」を二つ組み合わせて「フク」とし図案化したもの。」公式HPより

福崎町キャラクターの『フクちゃん・サキちゃん』は、市川の駒ヶ岩に棲む河童の兄妹。趣味は揃って「民俗学をツールとする旅(旅行)」と「もちむぎパスタ食べ歩き」です。

撮影日:2009年5月3日&2019年9月18日

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2019年8月7日、第10弾として全国61自治体で61種類(累計455自治体539種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「福崎町」のマンホールカードは、「福崎町役場上下水道課窓口」でいただけます。(福崎駅前観光協会に変更)

2018年に設置開始されたマンホールには「播但線の電車に乗るガジロウ」と「フクちゃん・サキちゃん」がデザインされています。

「福崎町は、日本民俗学の父である柳田國男の故郷であり、彼の著書「妖怪談義」の登場する様々な妖怪をつかった町おこしに取り組んでいます。 可愛い緑の河童の兄弟「フクちゃん・サキちゃん」やリアルな赤い河童「ガジロウ」も彼の著書「故郷七十年」に出てくる河童をモチーフに誕生し、福崎町のキャラクターとして活躍しています。 マンホール蓋には福崎町を南北に走る播但線(姫路から和田山)の電車、福崎町の北西端に位置し、近畿観光百景にも選ばれている七種の滝、福崎町特産の「もちむぎ」も描かれています。 この蓋は、JR福崎駅周辺整備事業の完成を記念して設置したものです。」

福崎駅前で将棋を打つ『ガジロウ』

訪問日:2019年8月17日&2019年9月18日

 

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旧二見村役場&旧明石郡公会堂 in 兵庫県明石市

2023年12月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

明石市二見町東二見にある白いモダンな建物は昭和13年に建てられた「旧二見村役場」。現在は「明石市二見市民センター」として利用されています。

主産業が漁業の町であった二見村にこの洋館ができた時、村の人たちはどんな思いでこの建物を眺めたのでしょう。特に大きなガラス面を持つ半円形の階段室は、今の時代に置いても斬新です。

建物の随所に見られる丸枠に半円の開き窓は、まるで二見を象徴するかのようにも見えて、実のところは旧明石市の市章に似ている所為だと気が付きました。

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続いて訪ねたのは、明石市相生町にある「明石市立中崎公会堂」。明治44年(1911)4月に、当時の明石郡の1町・11村が共同で「明石郡公会堂」として建設したもので、建設費は地元の寄付などで賄われました。市内最古の公共施設で、2000年に明石市の都市景観形成重要建築物に、2012年に国の登録有形文化財(建造物)の指定を受けました。

設計を行ったのは、東大寺大仏殿の修繕にも携わった経験のある『加護谷祐太郎』。当時は西洋風の建築様式が流行しており、それらは今も各地に残されていますが、ここではあえて奈良時代や鎌倉時代の建築スタイルが採用されました。

下屋を回した入母屋造や唐破風の車寄せなど、仏教寺院を思わせる外観に、エンタシス風の加工が施された角柱や、鎌倉風の虹梁・蟇股、大仏殿風の繰形など、細部の意匠にも伝統的な和風様式が採り入れられています。

こうした設計については、廃城令で失われた城に代わるシンボルを求める地域住民の意向や、西洋文化ばかりが有難がられる時勢に逆らって日本古来の文化を貴ぼうという意識があったのだろうと推測されています。

落成記念では『夏目漱石』の講演が行われましたが、彼はこの建物について「成程あれ程の建物を造れば其中で講演をする人を何処からか呼ばなければ所謂宝の持腐れになる許でありませう」と評したといいます。

その後も『菊池寛』『佐藤春夫』の講演が開催されるなど、明石郡の人たちの自尊心を大いに満足させる結果となったようです。

この中崎公会堂の西に、『東郷平八郎』の筆による「日露戦争忠君碑」が建立されています。青々と茂った松に隠れてしまって、その美しい書体をきちんと見られなかったのが残念。

訪問日:2010年5月8日

 

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