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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

藩校・明倫館跡と明倫学舎本館 in 山口県萩市

2024年04月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

平安古で雨をやり過ごすこと小一時間、日頃の行いが良いのか😅、暗い灰色の空は徐々に秋色の青空にかわり、それにつれて周囲も明るさを増してきました。まずは萩市江向の中央公園。ここに日本近代軍制の確立者『山県有朋』の騎馬像が建立されています。

昭和2年(1927)、陸軍省は長崎出身の彫刻家『北村西望(せいぼう)』に作成を依頼。昭和4年に完成した像は霞が関の陸軍大臣官邸に置かれました。その後、大東亜戦争時の金属供出や敗戦後のGHQによる銅像追放をなんとか逃れ、昭和22年(1947)に上野公園に、昭和37年(1962)には作者のアトリエがあった井の頭公園に置かれた後、1992年に萩市の現在地に移設されました。

中央公園に隣接する「旧萩藩校明倫館跡」

昭和10年(1935)10月10日、藩校の貴重な遺構と跡地に建てられた日本最大の木造2階建校舎「明倫小学校校舎」は、1996年12月20日:文化庁登録有形文化財山口県第1号に指定されています。

「東西両端と中央玄関の棟に藩校明倫館の聖廟と同じように鴟尾(しび)が置かれ、外壁は1階部分は簓子(ささらこ)下見板張、2階部分は白漆喰塗り。屋根のフランス瓦や連続する窓の意匠が特徴的で、モダニズムへの萌芽も見られる。」公式HPより

雨に濡れた緑の植え込みと白漆喰の壁。橙に色着いた木々のコントラストが綺麗すぎて、その場を立ち去るのが惜しくてたまらない・・

学舎に向かって右手に建つのは、孔子を祀った聖廟の前門で、市指定文化財「観徳門(かんとくもん)」。当時、南門と聖廟との中間にあり、万歳橋を渡り、聖廟を巡らす石柵内への入口になっていました。一時、本願寺萩別院に移され客殿門となっていましたが、昭和57年に現在地に移されました。

観徳門に向かい合う、木造平屋建入母屋造桟瓦葺の建物「有備館」は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したものです。南北に長い建物で、北半分は板の間で39畳の剣術場、南半分は土間で54畳の槍術場、各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室があります。また「他国修業者引請剣槍術場」でもあり、かって坂本龍馬も来萩し試合をしたといわれています。

他にも「明倫館碑」「南門」「水練場」など、見学したい場所はあったのですが、この後の行程を考えると、そんなにゆっくりもしていられません。慌ただしく外観を見ただけの「明倫小学校校舎」でしたが、記憶に残る美しい建物でした。

2014年3月まで授業が行われていた明倫小学校校舎は、新たな萩の観光起点「萩・明倫学舎本館」として生まれ変わったと、観光案内で知りました。

訪問日:2012年11月13日

🌸明日は今古萩から浜崎町界隈の紹介です。

 

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平安古(ひやこ)地区伝統的建造物群~其の二 in 山口県萩市

2024年04月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

武士のうち重臣の多くは三の丸である堀内に居住しましたが、平安古では開墾が進むのに並行して数多くの武士が屋敷地を構えました。保存地区は橋本川沿いにあり、江戸時代の地割りをよく残し、当時の屋敷構えをうかがうことができます。

昨日に続く平安古地区の町歩き、スタートは平安古町満行寺筋に残る「村田清風別宅跡」長屋門。藩政改革を行い明治維新に長州藩が活躍する財政的基盤を築いた人物。藩政にたずさわった約25年間を、この地で過ごしたといわれています。

「15歳で明倫館に入り文武を修得。藩主・毛利斉房の小姓役を命じられ、以来13代・毛利敬親まで5代の藩主に仕え藩政の中枢に参画。天保の改革で手腕を発揮し、藩の殖産「米・蝋・塩・紙」は清風の幼名から長州のシロベエとも呼ばれた。弘化2年(1845)63歳で三隅に隠居。人材育成に力を注ぎ、吉田松陰をはじめ多くの人々が清風の教えを乞う為に三隅の山荘を訪れている。安政2年(1855)、平安古別宅で逝去・享年73歳。」萩観光サイトより

萩城三の丸・平安古総門前の外堀に架けられている「平安橋」。玄武岩で造られており、無橋脚の珍しい橋と紹介されています。

平安橋から眺める萩城外堀。

外堀の石垣に目をやれば、重さに耐えかねたかのように水面近くまで枝を伸ばす柿の実。・・・一羽の鴨が何度も何度も枝をつついています。ややあって、見事に一個をちぎり落とし嬉々として水中に頭を突っ込んでいました😊 柿を食べる鴨を見たのは初めて、実に興味深いシーンでした。

怪しくなり始めた空模様に急かされて「平安古の総門跡」の碑。平安古地区から三の丸へは、外堀にかかる平安橋を渡り平安古総門を通って行き来していました。

萩市堀内の一画に残る「古明倫館跡」の碑。萩城三の丸の南門、平安古の惣門跡の北西100メートルの地にあった藩校明倫館。享保四年(1719)五代藩主毛利吉元によって創建。嘉永二年(1849)に江向に移され再建された新明倫館と区別して「古明倫館」とよばれています。

何となく怪しかった空模様・・・そろそろ元来た場所に向かわなければ・・・と思う間もなくいきなりの冷たい雨。

この「鍵曲(かいまがり)」がラスト。11月半ばの萩市内、雨の冷たさが足元から這い上がってきます。

しっとりと沈み込む長い築地塀。わずかに面影山の姿が見える。

旧田中義一男爵別邸の土塀が見えて来たところで、平安古地区の町歩きはひとまず終了。車内にもどって遅い昼食。車内食だからと言って決して有り合わせではありません😊、熱々のお味噌汁が、雨に濡れた体を温めてくれました。雨が通り過ぎるまで車内で待機、お天気が持ち直すようであれば、萩市江向にある「明倫館」へと向かいます。

訪問日:2012年11月13日

🌸明日は萩明倫館の跡地に建つ萩市立明倫小学校の紹介です。

 

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平安古(ひやこ)地区伝統的建造物群~其の一 in 山口県萩市

2024年04月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

国の伝統的建造物群保存地区制度が始まった昭和51年、堀内伝建地区とともに、全国で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された「平安古(ひやこ)地区伝統的建造物群保存地区」

平安古地区散策は、第26代内閣総理大臣をつとめた「旧田中義一男爵別邸」から。嬉しい事に敷地内に無料駐車が整備されており、効率よく市内散策を楽しむ事が出来ます。

「旧○○邸」の見学よりも伝健地区の町歩きを選択した今回の旅。とはいえ屋敷内に祀られているお社を見つけての素通りは、流石にできません🙏

御祭神が何方なのかも不明ですが、手入れの行き届いたお社の前には、おそらく初見で有ろうと思われる素敵な狛犬さんが神域を守護しておいでです。

耳に添うように真っ直ぐ背中に流れるたてがみ。尾は小さく腰の部分に張り付き、どちらかと言うと神殿狛犬を思わせるお姿。吽形さんには立派な角があります。これは予想外の素晴らしい出会いでした。

旧田中邸裏門

旧田中別邸を出て最初の見所は「平安古鍵曲(ひやこかいまがり)」。鍵曲とは、左右を高い土塀で囲み、文字通り道を鍵の手(直角)に曲げた独特な道筋の事。面影山に見守られるように、重臣たちの屋敷を守るために造られた平安古鍵曲は、城下町特有の街路の姿を残す景色としてパンフレット等でもお馴染みです。

長い築地塀の向こう。わずかにのぞく緑は、萩独特の景観に色を添える夏ミカン。

おそらく、かって上級武士の住まいであったお宅でしょう。特に案内等が無い限り、人様のお住まいは遠目で見るだけに留めています。

11月中旬の曇り空の下、赤茶けて見える土塀の続く道を歩いていると、新しい時代に向かって駆け抜けていく男たちの姿が見えるような・・それは一瞬の夢。

萩循環まぁーるバス停「久坂玄瑞(くさかげんずい)誕生地前」。松下村塾で、高杉晋作と共に「村塾の双璧」と呼ばれた久坂玄瑞は、師・吉田松陰の妹を娶っています。

「久坂玄瑞君追憶碑 :三条実美」
【 九重の みはしのちりをはらはむと こゝろも身をも うちくたきたる 】

尊王攘夷の急進派として知られた久坂玄瑞。元治元年(1864)7月19日の禁門の変(蛤御門の変)で負傷、朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で自害して果てました。享年25歳。

旧萩城三の丸を囲む外堀の南に位置する萩市平安古町。橋本川に沿った東西約150m 南北約300mの範囲に残された伝統的建造物十一件、土塀、門は三十九件。まるで海を思わせる橋本川の情景。どこを見ても足を引き留められる景色の連続・・さて、どこまで紹介できるやら。

訪問日:2012年11月13日

🌸明日は平安古(ひやこ)地区伝統的建造物群~其の二の紹介です。

 

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金谷(かなや)神社 in 山口県萩市椿

2024年04月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

萩市椿に鎮座される「金谷(かなや)神社」。御祭神は『菅原道真公』。旧社格は郷社。別名「金谷天満宮、萩天満宮」とも称されます。

「鎌倉時代文治二年(1186)、長門守護佐々木高綱が大宰府より勧請し創建。戦国時代には毛利氏は当社を「長州第三天満宮」として庇護し、享保五年(1720)現在地に遷座。明治六年(1883)に金谷神社と改称。」「またここは城下町の表玄関ともいえる大木戸のあった所で、番所には常時番人を置き、日没には治安維持の為城下への出入りは差し止められていた」境内案内より

神橋には「文久貳壬戌(1862)十月」の刻

神橋正面に朱塗り二層の楼門

楼門の奥に割り拝殿

楼門格天井に描かれた干支

朱塗り唐破風の割拝殿の奥に拝殿

沢山の奉納額が架けられた拝殿回廊、「騎馬武者の図画」

割拝殿前左右より神域を守護されるのは、萩型狛犬の最古例となる「寛政六年(1794)十月十五日」建立の狛犬さん一対。吽形さんは小さな角を持ち、右前足の下にお約束の小さな丸石。阿形さんは波打つ口を大きく開けて、何かを訴えるような表情。

真横から見ても凛々しい吽形さん。真後ろから見る阿形さん、綺麗に刳り貫かれて広がる尾の美しさが際立ちます。

台座には小菊の浮き彫り、密集した花弁のリアルさが馥郁たる香りを想像させます。

割拝殿から見る楼門

神牛「昭和三十九年(1964)十一月五日 奉納者 伊藤五郎」の刻

神馬舎

木製の御神馬

池泉式の神池

兜を模したような大型の石灯籠・・巨大なスナフキンみたいだと言ったら、ご亭主殿、一瞬灯篭をガン見し・・大爆笑でした(笑)

亀趺、説明を画像に残さなかった為、仔細は不明。

境内にあった建物、祭りの際の寄り合いなどに使われたのでしょうか?

参拝日:2012年11月13日

🌸明日は「平安古(ひやこ)地区伝統的建造物群保存地区」の紹介です。

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JR萩(はぎ)駅舎 in 山口県萩市椿

2024年04月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

萩市椿に立地する山陰本線停車駅「JR萩駅舎」

大正14年(1925)に開通された国鉄美祢線(現在の山陰本線)にともない建設された萩駅舎。欄間を持つ上下窓、入口ポーチ、棟先を落とした切妻屋根、半円形のドーマー窓、白壁にエメラルドグリーンの柱や梁が露出するハーフティンバー構造・・ああ、乙女❓❓心をこんなにくすぐる駅舎に出会えるなんて、何て素敵な萩の二日目。

どの角度から見ても「タメ息~💗」しか出ない。

入り口には、大正末期から昭和初期に建てられた、日本で2番目の型式だという電話ボックス。復元と紹介されている、という事は、実際に存在していたもの。全てが手元の小さな機器で事足りて便利になり過ぎた現代では決して経験できない空間。「今、駅に着いたわ」「〇時の汽車で帰るよ」様々な言葉を届け続けてきた小さな世界。

「自動電話」って、このレトロな電話機の事かと思っていたら、電話ボックス全部を含めての名称でした。

山陰本線は京都市下京区の京都駅から、中国地方の日本海沿岸を経由し山口県下関市の幡生(はたぶ)駅に至る鉄道路線。明治 45年(1912)に京都―出雲間が開通した後、昭和 8年(1933)に下関まで全通。その途中駅となる萩駅は、大正14年(1925)4 月、美祢線延長の長門三隅・萩間開通にともなって建設されました。

文化財のページにも「鉄道開通時のまま現存する数少ない駅舎の一つ。地方の発展を紹介するうえで存在が引用されるなど、地域史的にも重要な建造物である」と紹介される萩駅舎。木のぬくもりが温かい、現役の集札口。

ホームの向こうに見えるは景色はすっかり秋色に染まって・・ああ、電車が入ってきた。黒い武骨な汽車ならもっと素敵だったかもね😊

電車を見送ったら、駅社内に展示されている珍しいあれこれを見て回る事に。これは「回転式常備乗車券保管箱」。昔の切符は厚紙で出来た「硬券」と呼ばれる切符だったので、こうした保管ケースが利用されていました。

「警戒」のプレートは色によって=大雨・=大雪・=強風。一番?だったのはオレンジ=乾燥・・・乾燥が警戒に値する事象だった事にビックリ!

そのプレートの下に並ぶ臼のようなものは何だったのだろう?表面には曰くありげな文様が鋳型のように刻まれているのですが、説明を写し残さなかった為、今となっては全く不明。後でHPで検索すれば分かるだろうと思った私が甘かった・・😓

これも・・・正体が判らない。何故こんな珍しい展示品の紹介が無いのか、正直そっちの方が不思議に思える・・😓

館内に展示されていた「長州藩英国密航留学生:長州五傑」。上段左:遠藤謹助・中央:野村弥吉(井上勝)・上段右:伊藤俊輔(博文)、下段左:井上聞多(馨)・下段右:山尾庸三。

「鉄道の父・井上勝」、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで鉱山技術・鉄道技術などを学び、鉄道発展の礎を築いた人物。彼の越し方、功績は、是非とも「井上勝」で検索してみてください。

1996年に国登録有形文化財となり、1998年に当時の姿に復元・補強された「萩駅舎」。この日、予定していた萩の町歩きを全て終えて最後に立ち寄った萩駅。ライトアップされ薄くオレンジに染まった駅舎の温かさが心に残りました。

余談ですが「萩」という文字はわが国で作られた国字。つまり日本固有の漢字。古くは「生芽(はえぎ)」と書き、転じて「はぎ」になったと言われています。

訪問日:2012年11月13日

🌸萩市立ち寄りラストの画像が登場しましたが、明日は萩市椿に鎮座される「金谷神社」の紹介です。

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藍場川沿い~ふらり散策 in 山口県萩市川島

2024年04月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

萩市川島地区、萩を流れる阿武川の分岐にあたる川島樋門を起点に、幅1.5m、延長約2.6kmの人工用水「藍場川」

長州藩六代藩主・毛利宗広は、農業用の細い水路を川舟が通れるように大きく開削し、元文四年(1739)に新堀川まで開削。大川(松本川)より水を引いたので、それに対して溝川と呼ばれ、農業用水をはじめ防火用水、川舟による物資の運搬や水害時の水はけに利用されました。

後の明和年間(1764~1771)、藩営の藍玉座が設営され、そのため川が藍色に染まり、いつの間にか藍場川と呼ばれるようになったといわれています。今では川には錦鯉も泳ぎ、城下町らしい風情を感じる風景として、観光客の目を楽しませてくれます。人の気配を察して近寄ってくる鯉の大きさにビックリ(^^;)

川沿いにある小さな階段のような足場は「ハトバ」と呼ばれ、日々の暮らしの中で洗い場などに利用されてきました。建物の下、石垣の間に設けられた「竹の柵」の内側は個人用の台所として活用されています。

同じく石垣の間に設けられた板囲いの内側には風呂場があり、専用の「ハトバ 」も設けられ、洗濯などが出来るようになっています。

藍場川にはたくさんの石橋がかかっており、現在も生活の一部として使われています。御亭主殿が立っている旧湯川家への石橋は、一段高くゆるいアーチ状になっており、かつて物資を運ぶ船がその下をくぐっていました。

「旧湯川家屋敷」から歩いてすぐのところに「桂太郎旧宅」。御亭主殿はこの名前を聞いて「第2代台湾総督を勤めた人物で、あんた(私)の嫌いな日韓併合を主導した人物だよ。」と教えてくれました😅 

弘化4年(1847)、萩城下平安古に生まれ3歳の時にここへ移り住み、長じて
藩校明倫館に学び、戊辰戦争では参謀として活躍。明治維新後は陸軍に入り、明治31年(1898)に陸軍大臣となり、明治34年以来、3度にわたって首相を務め、国事多難な時期に手腕を発揮。大正2年(1913)に67歳で没しました。

「内閣総理大臣通算在職日数:2886日」の記録保持者だそうで、その後100年以上に渡り日本の憲政史上最長記録として名を残したそうですが・・第90代・96~98代の内閣総理大臣:安倍晋三氏により、在職記録は「3188日」に塗り替えられました。

藍場川をたどり、市街地に移ると、物資を運搬した舟が方向を変える為の舟まわし場があるのですが、流石にこれ以上行ってしまうと帰路が辛いので、私たちはこれにて回れ右(笑) 無事に萩市のカラーマンホールもGETできました。

大きなアオサギの姿を捉える事も出来ました。

昭和48年1月25日藍場川沿いの一帯は、城下町の生活の情緒を良く伝え残しているとして『 歴史的景観保存地区』に指定されました。

訪問日:2012年11月13日

🌸明日は鉄道開通時のままの姿を残す、美しい萩駅舎の紹介です。

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世界文化遺産:萩反射炉 in 山口県萩市椿東

2024年04月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

萩市椿東(ちんとう)に現存する「萩反射炉(はぎはんしゃろ)」。大正13年(1924)に国史跡に指定。2015年7月には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産に登録されました。

「当時は鉄製大砲を建造するには、衝撃に弱い硬い鉄を粘り気のある軟らかい鉄に溶解する必要があり、その装置として反射炉が用いられていました。 鉄を溶かす溶解室の天井が浅いドーム状になっており、そこに熱を反射させて炉内の温度を千数百度の高温にして鉄を溶かす事から反射炉とよばれました。」現地案内より

江戸時代末期、萩藩は外国からの脅威に備え軍事力の強化をはかるために、鉄製大砲の鋳造に必要な反射炉の導入を試みました。安政2年(1855)、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れますが、拒絶され、反射炉のスケッチのみを許されます。このスケッチをもとに萩反射炉を建設。

現存している遺構は反射炉の煙突部で、高さは10.5m。上部の約5メートルほどが二股に分かれていますが、実際はそれぞれ独立した2本の煙突となっています。

上部の一部が煉瓦積み、その下が安山岩と赤土で造られた石積みで、往時は漆喰で塗られていたと思われます。炉床と思われる遺構も煙突に対応して2つ発掘されており、その内の西側の炉床が主に使用されたと考えられています。

萩藩の記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に試験的に操業され金属の溶解実験が行われたということだけであることから、萩反射炉は試作的に築造されたと考えられています。2011年に訪ねた静岡県伊豆の国市にある「韮山反射炉」から見れば決して上々ではない萩反射炉ですが、それでもこれだけのものが残されていた事に感動。

静岡県伊豆の国市にある「韮山反射炉」

まるで見計らったかのように電車の近づく音。そういえばここは山陰本線のすぐ横だったっけ。こんな景色の中で見るせいか、何でもない一両電車も何故か特別に見えるから不思議だね。

そうか・・・ここは高台だから萩港が見えるんだ。沈みかけた夕日の中で見る海の色は、漁師町で育った私にはとても懐かしい景色に見えて・・柄にもなく故郷のことなど思い出してしまう。

「急がないと陽が沈むよ。明るいうちに今夜の車泊地に行かなきゃね。」御亭主殿の声に慌てて追いかける私。萩の一日目はここで終了です😊

訪問日:2012年11月12日

🌸明日は萩市内巡りの二日目、萩城下町の散策からです。

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厳島(いつくしま)神社 in 山口県萩市椿東

2024年04月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

萩市椿東越ヶ浜、笠山の麓・明神池畔に鎮座される「厳島(いつくしま)神社」。御祭神は『市杵嶋姫命(いちきしまひめのみことひめのみこと)・田心姫命(たこりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)』

「貞享3年(1686)萩藩2代藩主毛利綱広が、毛利元就が信仰していた安芸の厳島明神を勧請して分祀。越浜地区の氏神様として祭祀。」境内由緒より

鳥居の左右より神域を守護されるのは山口県内で時折お目にかかれる、ご亭主殿がほれ込んだ萩狛犬さん一対。同じように見えるスタイルですが、吽形さんは右前足の下に玉のようなものを隠しています。

阿形さんの後姿。肩に流れる羨ましいほど綺麗なたてがみ。真後ろのやや下から見た時に気が付く尾のハート💛 吽形さんの真正面、両肩から胸に流れるたてがみがまるでレースの襟飾のように見えて。山口県内でお目にかかるこのタイプの狛犬さんは実に個性的な仔が多く、どれも心惹かれます。

拝殿

拝殿左右に奉納された石の水盥。台座も含めて見事な細工。

貫彫刻の獅子と象。阿形獅子の飛び出した四角い舌も面白いと思うが・・

吽形獅子の思いっきりの上目遣いはかなり秀逸で・・笑えます(笑)

境内から見る明神池。こうして見るとまるですぐ目の前に海があるような錯覚を覚えます。

笠山の東麓にあり、その昔笠山と本土との間に砂州ができて陸続きになった時、埋め残されてできた「明神池」。大池、中の池、奥の池の三部分からなり、池は溶岩塊の隙間を通して外海とつながっており、外海の干満に応じて池の水も増減します。地元の漁師たちが漁の安全と豊漁を祈願して奉納した魚が繁殖し、マダイ、イシダイ、ボラ、エイ、スズキなど池の中には様々な近海の磯付き魚が泳ぎ、天然の水族館とも呼ばれているとか。

池の北側に弁財天が祀られていることから、昔は弁天池、また、藩主の茶室が建てられていたことから、御茶屋の池とも呼ばれていましたが、厳島神社の分祀により明神と呼ばれるようになりました。周囲は安山岩の溶岩が積み重なり、老樹が生い茂る景勝地で、国指定天然記念物に指定されています。

参拝日:2012年11月12日

🍀明日は萩市内に残る「世界文化遺産:萩反射炉」の紹介です。

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松下村塾界隈~ふらり見て歩き in 山口県萩市椿東

2024年04月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

松陰神社を辞し、駐車場を突っ切り300mほど歩いた先に、生け垣に囲まれた「伊藤博文旧宅」が見えてきました。

天保12年(1841)9月2日、当時の周防の国熊毛郡束荷村(熊毛郡大和町)で、百姓林十蔵、母琴子の長男として生まれた伊藤博文(林利助)。安政元年(1854)、博文14歳の時、父が家族を連れて萩藩の中間、伊藤直右衛門の養子となり、この家に住むことになります。

やがて17歳の時、近くの松下村塾に通い吉田松陰の教えをうけ、尊皇攘夷運動の志士として活躍。 28歳の明治元年、兵庫県知事に赴任するまでの14年間ここを本拠としました。

建坪27坪・・お世辞にも立派とは言えない茅葺き平屋建ての質素な建物。伊東博文旧宅と言えば、これまで瀟洒な洋風建築しか知らなかった私にとって、ある意味衝撃的ともいえる建物です。

その旧宅の隣、立派な玄関を持つ建物は伊藤博文別邸。明治四十年(1907)、博文は東京府下荏原郡大井村に、車寄せを持つ玄関、中庭をはさんで西洋館、書院、離れ等を備えた広大な別宅を建築。萩市へは往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れ座敷の3棟が移築されました。

「伊藤博文旧宅地 附伊藤博文別邸」は、共に昭和7年(1932)3月25日、萩市文化財に指定されました。

先にもまだ「玉木文之進旧宅」や「吉田松陰生誕の地」「松陰墓所」などがあるのですが、坂道は私には鬼門。ここから松陰神社へと引きかえします。とあるお宅の生垣外に吉田稔丸(としまる)(稔麿)誕生地碑。稔丸は、萩藩足軽・吉田清内の長男として誕生。16歳の時、幽室の吉田松陰に入門し、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と共に松門の四天王に数えられました。松陰の死後、尊皇攘夷運動に参加。元治元年(1864)、京都の池田屋旅館で新選組に襲われ負傷、24歳の若さで死去しました。

生誕地碑から東に約100メートル先に「松浦松洞出生の地」碑。松浦松洞は幕末の画家で長州藩の志士。20歳の時、漢詩を学ぶ為松下村塾に入門しました。安政の大獄によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残した人物です。

萩市椿東椎原、車に変える途次に見かけた「椎原公会堂」。帰宅後、萩市のHPなどで検索しても何もヒットしませんでしたが、この独特の古き良き時代を彷彿させる佇まいが妙に懐かしく・・

訪問日:2012年11月12日

🌸明日は明神池湖畔に鎮座される「厳島神社」の紹介です。

 

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松陰神社と松下村塾 in 山口県萩市椿東

2024年04月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

萩市椿東に鎮座される「松陰神社」。御祭神は『吉田矩方命(よしだのりかたのみこと)』

由緒「明治23年(1890)、松下村塾出身者らにより松下村塾の改修が行われた際、実家:杉家の手で松陰神社の前身である土蔵造りの祠を建立。明治40年(1907)、伊藤博文や野村靖が中心となり、祠を公の神社として創建すべく、山口県に請願書を提出。同年10月、県社の社格をもって創建が許可、祠を松下村塾南隣に移して本殿とし、元萩城の鎮守「宮崎八幡宮」の拝殿を譲り受け移築。昭和17年(1942)には桧皮葺の社殿が竣功するが遷座されず終戦を迎え、昭和30年(1955)10月26日に新社殿に遷座。」公式HPより

「翌31年、旧社殿を新社殿北隣に移し、塾生、門下生42柱を祭神とする末社・松門神社を建立。2010年に10柱を追合祀。2015年、沼崎吉五郎命を合祀。」公式HPより

境内には、松陰先生が杉家の物置小屋を改築して安政4年(1857)年に主宰した、私塾「松下村塾」が往時のままに残されています。

「吉田松陰幽囚(ゆうしゅう)ノ旧宅」。天保年間築の杉家旧宅。

安政2年(1955)12月、萩城下の野山獄より出牢した松陰は、この邸内の3畳半の1室に幽囚。松陰はここで家族などに対して講義を行い、やがてその波は松下村塾の教育へと発展。明治維新を成し遂げた数多くの人材がこの塾より巣立っていきました。

萩市椿鹿背ケ坂にある「道の駅:萩往還」に設置された「松陰記念館」

館内には、松下村塾を再現したコーナーが展示されています。

「幽囚室」

「松下村塾の控えの間」

「吉田松陰幽囚ノ旧宅西面 式台玄関」 松下村塾は2015年7月5日、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

「吉田松陰歌碑」:昭和37年(1962)建立。安政6年(1859)10月20日付けで家族に宛てた遺書の中で詠われた和歌が彫られています。

【親思ふ こころにまさる親ごごろ  けふの音づれ 何ときくらん】

「皇太子殿下行啓之所 大正十五年(1925)五月三十日」

「明治維新胎動之地」昭和43年(1968)、明治維新100年を記念して建立。揮毫は故佐藤栄作元総理。

松陰記念館の前に並ぶのは『伊藤博文・山県有朋・木戸孝允』『天野清三郎・野村和作』の銅像。

『品川弥二郎・山田顕義』とご亭主殿。私は当然😍『高杉晋作・吉田松陰・久坂玄瑞』。ちょっと偉そうにポーズをとってみました(笑)

参拝日:2012年11月12日

明日は松下村塾界隈に残る史跡などを紹介します🍀

コメント (4)
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