鉄道博物館訪問の続きです。
ヒストリーゾーンの1回にある車両をおおむね見終わった後は、昨年秋に新設された21-2の0系新幹線先頭車展示施設を見に行きます。
新幹線0系の先頭車は、新大阪側が21形で東京側が22形となっています。その中で、21-2ということは、新大阪側先頭車の中で2番目に製造されたと言うことになります(一般に、製造順に数字が増えていきますが、番台の変更や製造順の変更もあり、必ずしも全ての車両がこのようなわけでもありません)。私が0系に乗車したのは全て後期の車両だったので、このような初期型には乗ったことがありませんが、父は若い頃に利用していたらしく、非常に懐かしかったようです。
エントランスの自動扉
21-2の先頭部。ひかり前頭と呼ばれる、初期のアクリル製カバーへ換装済み
方向幕がないため、サボによる列車案内
側面の非常用脱出口。車体中央部にある。後の0系からは消えており、初期型だけの装備
0系の台車。かなりきれいな状態にされていた
0系を見終えた後は3階、2階の展示を見ていきます。その前に、定番のヒストリーゾーン上方からの撮影を行いました。
定番の写真
C57形を前に、481系、475系、181系、20系など。いずれも父には乗車の記憶があり、懐かしいものだったとか
こちらはDD13、EF66(EF90)、ED75等の機関車群
昨年の訪問時は混んでいて素通りしたHOゲージの運転も見ました。
が、このHOゲージのヤードは日本一大きいと言うだけあってかなり広い物の、反面全体が見づらい。
座席も角度が浅く、けっして見やすいとは思えないですね。もう少し構造を考えるべきだったのでは?
HOゲージの模型鉄道ジオラマ
暗いので走る車両の撮影は困難
とにかく広くて車両数も多いが、広すぎてわからん
3階の新幹線を横に見るビューデッキ
ミニ運転列車を上から見る。このミニ運転列車、単に運転するだけではなく、実はCTC制御の状況も展示している場所がある
模型運転を見終えて、またぶらぶらと。今回の企画展は第3回コレクション展『井上勝と鉄道黎明期の人々』。
井上勝(いのうえまさる)氏は日本の鉄道の父とも呼ばれる方です。
「吾が生涯は鉄道を以って始まり すでに鉄道を以って老いたり まさに鉄道を以って死すべきのみ」
いかな鉄道好きと言えどここまで語れる物かと言う名言を残されてます。
その功績は、初代鉄道頭(てつどうのかみ)として新橋~横浜の日本初の官設鉄道開業へ尽力しただけでなく、信越本線碓氷峠の開通、日本鉄道の上野~青森(現在の東北本線/IGRいわて銀河鉄道/青い森鉄道)の開業など数々に関わっています。また、東北本線の開業に伴い土地を失った農家のために、岩手県の盛岡西部に農場を開拓しました。そのとき、農場の開拓に協力した日本鉄道の後の第三代社長「小野義真(おのぎしん)」氏と、資金面の強力をした三菱の第二代社長「岩崎弥之助」氏、そして井上勝氏の3名の名を取り、その農場は「小岩井」と名付けられました。
井上勝氏はその他にも日本初の鉄道車両製造会社、汽車製造合資会社(現在は川崎重工→川崎車両に吸収合併され消滅)も起こしています。
中の資料はなかなか読むには大変ですが、勉強になりました。
企画展の入り口
展示物にあった佐賀藩が作成した日本初の蒸気機関車模型。もちろん、日本初の鉄道模型だ。佐賀県立博物館から借り出していた貴重品の鉄道記念物
だいたい3時間くらい見て終了。
実家へ寄って帰りました。
私にとっては生まれる前だとか、子供の頃になくなったものが多い鉄道博物館ですが、父にとっては非常に懐かしいものも多かったようです。父の日記念に連れてくるにはいいところでしたね。
ヒストリーゾーンの1回にある車両をおおむね見終わった後は、昨年秋に新設された21-2の0系新幹線先頭車展示施設を見に行きます。
新幹線0系の先頭車は、新大阪側が21形で東京側が22形となっています。その中で、21-2ということは、新大阪側先頭車の中で2番目に製造されたと言うことになります(一般に、製造順に数字が増えていきますが、番台の変更や製造順の変更もあり、必ずしも全ての車両がこのようなわけでもありません)。私が0系に乗車したのは全て後期の車両だったので、このような初期型には乗ったことがありませんが、父は若い頃に利用していたらしく、非常に懐かしかったようです。
エントランスの自動扉
21-2の先頭部。ひかり前頭と呼ばれる、初期のアクリル製カバーへ換装済み
方向幕がないため、サボによる列車案内
側面の非常用脱出口。車体中央部にある。後の0系からは消えており、初期型だけの装備
0系の台車。かなりきれいな状態にされていた
0系を見終えた後は3階、2階の展示を見ていきます。その前に、定番のヒストリーゾーン上方からの撮影を行いました。
定番の写真
C57形を前に、481系、475系、181系、20系など。いずれも父には乗車の記憶があり、懐かしいものだったとか
こちらはDD13、EF66(EF90)、ED75等の機関車群
昨年の訪問時は混んでいて素通りしたHOゲージの運転も見ました。
が、このHOゲージのヤードは日本一大きいと言うだけあってかなり広い物の、反面全体が見づらい。
座席も角度が浅く、けっして見やすいとは思えないですね。もう少し構造を考えるべきだったのでは?
HOゲージの模型鉄道ジオラマ
暗いので走る車両の撮影は困難
とにかく広くて車両数も多いが、広すぎてわからん
3階の新幹線を横に見るビューデッキ
ミニ運転列車を上から見る。このミニ運転列車、単に運転するだけではなく、実はCTC制御の状況も展示している場所がある
模型運転を見終えて、またぶらぶらと。今回の企画展は第3回コレクション展『井上勝と鉄道黎明期の人々』。
井上勝(いのうえまさる)氏は日本の鉄道の父とも呼ばれる方です。
「吾が生涯は鉄道を以って始まり すでに鉄道を以って老いたり まさに鉄道を以って死すべきのみ」
いかな鉄道好きと言えどここまで語れる物かと言う名言を残されてます。
その功績は、初代鉄道頭(てつどうのかみ)として新橋~横浜の日本初の官設鉄道開業へ尽力しただけでなく、信越本線碓氷峠の開通、日本鉄道の上野~青森(現在の東北本線/IGRいわて銀河鉄道/青い森鉄道)の開業など数々に関わっています。また、東北本線の開業に伴い土地を失った農家のために、岩手県の盛岡西部に農場を開拓しました。そのとき、農場の開拓に協力した日本鉄道の後の第三代社長「小野義真(おのぎしん)」氏と、資金面の強力をした三菱の第二代社長「岩崎弥之助」氏、そして井上勝氏の3名の名を取り、その農場は「小岩井」と名付けられました。
井上勝氏はその他にも日本初の鉄道車両製造会社、汽車製造合資会社(現在は川崎重工→川崎車両に吸収合併され消滅)も起こしています。
中の資料はなかなか読むには大変ですが、勉強になりました。
企画展の入り口
展示物にあった佐賀藩が作成した日本初の蒸気機関車模型。もちろん、日本初の鉄道模型だ。佐賀県立博物館から借り出していた貴重品の鉄道記念物
だいたい3時間くらい見て終了。
実家へ寄って帰りました。
私にとっては生まれる前だとか、子供の頃になくなったものが多い鉄道博物館ですが、父にとっては非常に懐かしいものも多かったようです。父の日記念に連れてくるにはいいところでしたね。