明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(292)「福島のコメ、全域で出荷へ」・・・なぜ?

2011年10月13日 01時30分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111013 01:30)

今夜はもう一つ情報を流します。一つは「福島のコメ、全域で出荷へ
二本松市でも基準値以下」というニュースについてです。同じタイトル
のニュースが産経ニュースから短く流れているので、全文を紹介します。

*****

福島のコメ、全域で出荷へ 二本松市でも基準値以下
産経ニュース 2011.10.12 13:20

コメの作付けが行われた福島県の全ての市町村で、一般米が収穫後の
本調査の結果、全て国の暫定基準値(1キログラム当たり500ベク
レル)を下回り、出荷可能となったことが12日、県への取材で
分かった。

県は先月23日、収穫前の予備調査で唯一、一定基準の200ベクレル
を超える500ベクレルちょうどの放射性セシウムが検出された二本
松市を「重点調査区域」に指定。本調査で調査地点を大幅に増やし、
監視を強化していた。

本調査では、500ベクレルを超えた場合、旧市町村エリアごとに出荷
が制限される仕組みになっているが、最終的に全ての検体で下回ること
が確認されたという。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111012/fks11101214460002-n1.htm

*****

テレビでは、このニュースを受けて、佐藤福島県知事が、嬉しそうに
「これで福島のお米の安全性が証明された」と述べているシーンが流さ
れていました。もちろん、そんなことはありません。福島のお米の放射能
含有量が、1キログラムあたり500ベクレル以下であることが証明されたに
すぎません。

この値が安全であるわけがない。ドイツが農作物などの基準としている
のは4ベクレルです。もちろん、これも安全基準値なのではありません。
全ての食材を全く取らないわけにはいかないので、やむを得ずリスクを
覚悟で認める基準値が4ベクレル以下なのです。


ところで、なぜ福島のお米の放射能汚染はすべて500ベクレル未満だった
のでしょうか。またホットスポットだった二本松ではなぜいったん500
ベクレルになったのか。あるいはそれが意味することは何なのでしょうか。

実は僕は仙台のある有機農家の方に、8月の段階で、こうした予測を聞いて
いました。「500ベクレル以上はほとんど出ないだろう」という予測です。
ほぼ正確にあっていました。その方は言っていた。「各地の土地の汚染状況
から500ベクレルは越えないことは今から見えている。つまり規制を越えた
コメがでないように設定したのが500ベクレルなのだ」と・・・。

二本松の場合は、設定条件に一番近いところにあったと思われます。そのため
いったんは500ベクレルちょうどという数字が出てしまった。しかしその後、
「監視を強化」して500ベクレル以下となった。これはどういうことでしょう?
監視の強化で汚染が薄まるはずがない。二本松の中でも、汚染の高そう
なところのコメを除外したのではないでしょうか。

ともあれこうして500ベクレルよりどれぐらい低い値なのかが分からない
コメが流出することになってしまいした。しかし選択が可能な消費者の中で
このコメを避けようとする方も多くなるでよす。そうなるとこのコメは、
外食産業や加工食品業者に流れやすい。コンビニなどのおにぎりなどにも
使われるのではないか。

その場合、これらの産業のモラルを嘆いても仕方がない。一番、悪いのは
こうした極端に甘い基準をかってに決めて、国民・住民の中に、汚染された
食物を蔓延させようとしている政府の姿勢です。スピーディーの情報を知ら
せず、人々を被曝から守らなかったこと、いや守れる自助努力の機会すら
奪ったことと、同じことが再び行われようとしている。

スピーディー情報を握りつぶした犯人も、いやそもそも、これだけの毒素を
まき散らした犯人も、ただの一人も逮捕されていないのですから、同じこと
が繰り返されるわけです。私たちは、またウソの情報で被曝させられつつあ
ります。しかも今度は、身体内部からです。


同時に、こうした構造では福島のコメ生産者も苦しい立場におかれるばかり
です。なぜなら福島産のものは買いたたかれやすくなるからです。そうでは
なく、規制をもっと強め、それを下回らないコメは、すべて東電と政府に
よって損害賠償の対象とすべきなのです。

政府が基準を甘くしているのはこのためでもある。コメが危ないという騒ぎ
を起さないことと同時に、可能な限り賠償金を払う可能性を切り縮めていく
ために、基準を甘くしているのです。この基準は同時に、どこから賠償しな
ければいけないかの基準値でもあるからです。

これらのために、汚染された食べ物が、大規模に市場に出回ってしまっている。
それが私たちの周りにある現状ですが、これを越えるためには、今からでも
基準の強化を求めていくことが大切です。同時に、この間繰り返していること
ですが、市民の側で、なんでもかんでも測定してしまうことです。

汚染された食料の蔓延の中で、子どもたちを守る態勢、私たち自身を守る
態勢を早急に作って行きましょう!




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明日に向けて(291)世田谷区の道路で高い放射線量(2.8μS/h)

2011年10月12日 23時30分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111012 23:30)

今日のお昼頃に、ストロンチウムが福島原発から250キロ離れた横浜から
検出されたことを情報として流しましたが、今度は東京都の世田谷区の
道路で、2.8μS/hという高い放射線値測定されたという報道が行われまし
た。これも重大ニュースです。

このニュースには注目すべき点が幾つかあります。一つには、横浜と同じ
く、この高い放射線も市民が発見して区に通報し、区による対処が行われ
たということです。報告がなされたのが3日、区が測った日が書かれてい
ませんが、2.8という値を確認して、高圧洗浄器で「除染」したものの、
数値が2.7とほとんど下がりませんでした。これが12日に発表されています。

市民が通報してから9日間も発表までかかっている。これも問題ですが、
それまで長い間放置されていたわけですから、その点の方が大きな問題
です。このことにも市民が積極的に測定を行うことの重要性があらわれて
います。ぜひ各地で高そうなところの測定を行いましょう。

ちなみに計画避難区域となった飯館村村役場前の12日の測定値(移動式
モニタリングポストによる)は、2.1μS/hです。世田谷区のこの場所の
値はこれよりもかなり高めです。非常に重大です。東京も場所によって
は計画的避難区域に相当する地域があるのではないか。いずれにせよ、
この値なら年間1ミリシーベルトをはるかに上回るので避難が必要です。


また区による対処ですが、これまでも指摘してきたように、高圧洗浄器の
使用は良いことではありません。そこにある放射性物質を「除去」するの
ではなく、移動させるにすぎないからです。下流に農地があればそこに入
るし、他人の家にかかったり、敷地に入ってしまう可能性も高い。

同時にこれまで行われた高圧洗浄器の使用では、作業者の被曝防護が余り
に軽んじられています。洗浄による水しぶきが作業者にかかっている。
これを飲みこんでしまうことはないのでしょうか。またしぶきがかかった
服はどうしているのか。そのままではないかと思われます。

この方式は、内部被曝への警戒が著しく低い中で行われています。除染は
高い放射線の出ているところ、それを出す放射性物質の多い所に近づく
作業なのですから、やはりそれを吸いこまないこと、飲みこまないこと、
衣服につけて移動させないことが非常に重要です。

こうした観点の弱さが、3日に報告されたものが6日に洗浄され、その結果
が12日になるという時間の流れとなってあらわれていると思われます。
作業者が危険であり、周りの人々が危険です。世田谷のことを離れた指摘
も含みますが、いずれにせよ高圧浄水器の「除染」をやめるよう行政を
市民の側から説得することが大切です。

同時にまた、今回の結果からも、雨水が集まるところなどでは、放射性物
質がその場に沈着してしまって、水では簡単に流れ落ちなくなることも、
現れていると思います。高圧洗浄器では移動すらも十分にはできないので
す。その場の放射性物質を十分にはがせないことが現れています。


ともあれ今日はストロンチウムが横浜から検出され、高い放射線が世田谷
で計測されたことが発表されましたが、両者の「発見」ともにイニシアチブ
をとったのが市民だったことを再度、強調したいと思います。まさに私たち
の自主的行動こそが、放射線防護のカギです。

今回、横浜と世田谷で、危険性を発見して下さった方々に感謝しつつ、さら
にこの問題のウォッチと分析を進めたいと思います。

****************************

世田谷区の道路で高い放射線量

NHK NEWSWEB 10月12日 18時18分
今月初め、東京・世田谷区の区道で1時間当たり最大で2.7マイクロシー
ベルトという高い放射線量が検出され、世田谷区は、この場所に立ち入らな
いよう呼びかけるとともに今後の除染を検討しています。

高い放射線量が検出されたのは、世田谷区弦巻の区道の歩道部分です。世田谷
区によりますと、今月3日、区民から「放射線量が高い場所がある」という
情報が寄せられたため、区が測定したところ、1時間当たり最大でおよそ
2.8マイクロシーベルトと周辺に比べて高い放射線が検出されたということ
です。このため高圧の洗浄器を使って歩道部分の洗浄を行いましたが、
放射線量はあまり下がらず、1時間当たり最大で2.707マイクロシーベ
ルトが検出されたということです。原因について世田谷区が専門家に聞いた
ところ、問題の場所は雨水が集まって放射線量が高くなったことが考えられる
ということです。この区道は小学校の通学路にもなっていることから、区は、
12日朝からこの場所をコーンで囲って立ち入らないよう呼びかけるとともに
今後の除染を検討しています。世田谷区は、ことし7月から8月にかけて区内
の小中学校や保育園、それに幼稚園で放射線量を測定しており、その際、高い
放射線量は検出されていませんでした。世田谷区は、子どもへの影響を重視し、
今月下旬から来月下旬にかけて区内の砂場がある258か所の公園について
調査することにしています。

東京・世田谷区で検出された1時間当たり2.7マイクロシーベルトという
放射線量は、文部科学省が積算の放射線量を計算する際に用いている、1日
のうち、屋外で8時間、屋内で16時間過ごすという条件で計算すると、
1日の被ばく量が38.88マイクロシーベルト、1年間にすると14.2
ミリシーベルトになります。これは国が避難の目安としている年間の放射線量
の20ミリシーベルトを下回っています。計画的避難区域に指定されている
福島県の飯舘村役場では、12日、移動式のモニタリングポストを使って
計測された放射線量が1時間当たり2.1マイクロシーベルトで、世田谷区の
値はこれよりもやや高くなっています。首都圏では、比較的高い茨城県の
北茨城市で、12日、0.14マイクロシーベルトが計測されています。
放射線影響研究所の長瀧重信元理事長は「文部科学省などによる上空からの
測定では、世田谷区では放射線量の高い場所は確認されなかったので、この
ような値が出たことに驚いている。ただ、地形や天候の関係で局地的に高い
線量になることはあり得ると思う。周辺の土壌や草木などから放射性物質の
種類を調べたり、どこから放射線が出ているのか調べて原因を突きとめるとと
もに、ほかにもこうした場所がないか調査する必要がある」と話しています。

世田谷区環境総合対策室の斉藤洋子室長は「現場は小学校の通学路で、近く
には幼稚園や保育園もある。心配する保護者の方がいると思うので、専門家
とも相談してできるだけ速やかに除染などの対応をとりたい」と話していま
した。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111012/k10013213371000.html
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明日に向けて(290)放射性物質:横浜でストロンチウム検出

2011年10月12日 12時00分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111012 12:00)

重大ニュースです。福島原発から約250キロ離れた横浜市からストロン
チウム90が検出されました。1キログラム195ベクレルと高い値です。
先日の80キロ圏内の100か所の調査で79キロ地点から検出されたので、
確実にその外に飛んでいるとの推論を出しましたが、なんと今度は
250キロです。

このことが意味することは重大です。かなりの広範囲にわたるストロン
チウムの汚染の可能性があるからです。にもかかわらずこれまで政府や
行政が問題にしてきたのはセシウムばかり。文科省原子力災害対策支援
本部は「横浜での検出は確認中だが、検出されれば80キロ圏外では初
めて」と述べたそうですが、このコメントはひどい。

まるで他人ごとのようですが、ここにはこれまで様々な放射性核種の
飛散の可能性が各方面から指摘されていながら、きちんとした計測を
行ってこなかったことがあらわれています。「80キロ圏外初」という
のは、80キロまでしかきちんと測って来なかったので、そこまでの
データしかないことのみを意味しています。

「初」といったって、今初めてそこに出てきたのではない。おそらくは
3月の時点からそこにあったのです。それが7カ月も検出されなかった。
しかも今回、発見したのは住民による自主調査によるものです。これが
なければ、まだまだ先まで、ストロンチウムは「ない」ことになっていた。
今、プルトニウムが45キロより外には「ない」ことになっているように。

これらから結論できることは、市民の側での自主的な調査をさらにどん
どん進めて、汚染の実態を浮き彫りにする必要があるということです。
汚染実態を隠し続けている政府は、「測らないこと」で実態隠しをして
います。しかし隠された危機こそ最も恐ろしい。それを明るみに出すこと
が、私たちの身を守ることにつながります。

測定のためには、各地の研究機関など、調査を受け付けているところの
利用が可能ですが、概して値段が高く、ニーズが多くて、待たされること
も多い。そのために必要なのが市民放射線測定室を各地に立ち上げていく
ことです。すでに石森農園での「小さな花・市民放射能測定室」立ち上げ
を紹介しましたが、こうした流れをぜひ後押しして行きましょう。

市民が自ら測定し、分析し、科学し、思考し、前に進む。私たちが切り開
いていくべきなのはそうした時代です!

*****************************

放射性物質:横浜でストロンチウム検出 80キロ圏外初

毎日新聞 2011年10月12日 11時24分
横浜市港北区のマンション屋上で、放射性物質のストロンチウムが検出
されたことが、民間分析機関の調査で分かった。同市は調査結果を受け
て再検査を始め、近く結果がまとまる見通し。東京電力福島第1原発の
80キロ圏外でのストロンチウム検出は初めて。

マンション屋上にたまった堆積(たいせき)物を住民が採取し、8月に
「同位体研究所」(同市鶴見区)で測定したところ、ストロンチウム90
(半減期約30年)を1キロ当たり195ベクレル検出。9月中旬、
市に連絡があった。

横浜市は福島第1原発から約250キロ。ストロンチウムはこれまで
福島市など80キロ圏内では検出されていたが、文部科学省原子力災害
対策支援本部は「横浜での検出は確認中だが、検出されれば80キロ
圏外では初めて」と話している。

市は当初、ストロンチウムの検査は予定していなかったが、研究所の
調査結果を受け、区内3カ所で測定を進めている。【山下俊輔、杉埜水脈】
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111012k0000e040037000c.html
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明日に向けて(289)防災訓練と原発災害訓練

2011年10月11日 23時30分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111011 23:30)

このところ、連続講演で走り回っています。8日、9日にベジタリアンフェス
ティバルに参加させていただいてお話し、放射線相談会なども開催しまし
た。避難中の親子などたくさんの方とお話できました。また今日11日は、
亀岡市でママさんたちを中心とした集まりに呼んでいただきました。

それぞれに新たな素晴らしい出会いなどもあり、充実した時間を過ごすこと
ができました。後ほど、報告を書きたいと思いますが、いまここでお伝えし
たいのは、この間、参加したある大学の寮における消防訓練の場での講演
についてです。消防局の隊員の方たちもいる場でお話しました。

ちなみに消防局の隊員の方たちを僕はとても尊敬しています。素晴らしい力
を持っていて、311大震災でも各地から被災地に集結して大活躍をされました。
原発災害では、東京都のハイパーレスキュー隊が見事な放水をしてくれた。
しかしこのとき、多くの隊員の方たちが被曝してしまっています。

10年とちょっと前の茨城県東海村でおこったJCO事故のときも、救急隊の方が、
臨界事故が起こり、作業員の方たちの重度の被曝が起こっていることを告げ
られずに現場に呼ばれたために、放射化したこれらの方たちから被曝をして
しまいました。それだけに消防隊の方にも聞いていただけるのは嬉しかった。

この日は簡単なレジュメを用意していきました。まず最初にこれをご覧いた
だきたいと思います。

*********

原発災害に対する心得

知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)
1、災害時に避難を遅らせるもの
○正常性バイアス⇒避難すべき事実を認めず、事態は正常と考える。
○同調性バイアス⇒とっさのときに周りの行動に自分を合わせる。
○パニック過大評価バイアス⇒パニックを恐れて危険を伝えない。
○これらのバイアスの解除に最も効果的なのは避難訓練

2、知っておくべき人間の本能
○人は都合の悪い情報をカットしてしまう。
○人は「自分だけは地震で死なない」と思う。
○実は人は逃げない。
○パニックは簡単には起こらない。
○都市生活は危機本能を低下させる。
○携帯電話なしの現代人は弱い。
○日本人は自分を守る意識が低い。

3、災害時!とるべき行動
○周りが逃げなくても、逃げる!
○専門家が大丈夫と言っても、危機を感じたら逃げる。
○悪いことはまず知らせる!
○地震は予知できると過信しない。
○「以前はこうだった」ととらわれない。
○「もしかして」「念のため」を大事にする。
○災害時には空気を読まない。
○正しい情報・知識を手に入れる。


原発災害を耳にしたときの対処
1、情報の見方
○出てくる情報は、事故を過小評価したもの。過去の例から必ずそうなる。
より深刻な事態が起こっていると捉える。
○「直ちに健康に害はない」と言われたら、「直ちにでなければ健康に
害がある」と捉え、害を防ぐ行動をとる。
○周囲数キロに避難勧告がでたときは、100キロでも危険と判断し
直ちに避難。

2、避難の準備
○災害を起した原発と自分の位置関係を地図で把握し、気象情報から
風下がどこかを確認する。分からなければとにかく原発から離れる
検討をする。
○マスク、傘、雨合羽必携。幾つか代えを持つ。
○お金で買えない一番大事なものを持ち出す。その場に戻ってこられ
ないと想定することが大事。どうでもいいものは持っていかない。

3、避難にあたって
○可能な限り、遠くに逃げる。逃げた先の行政を頼る。
○雨にあたることを極力避ける。降り始めの雨が一番危ない。
○二次災害を避けるべく、落ち着いて行動する。


放射線被曝についての心得
1、知っておくべき放射線の知恵
○放射能から出てくるのはα線、β線、γ線。エネルギー量もこの順番。
○空気中でα線は45ミリ、β線は1mしかとばず、γ線は遠くまで飛ぶ。
○このため外部被曝はγ線のみ。内部被曝ですべてのものを浴びる。
○より怖いのは内部被曝。外部被曝の約600倍の威力がある。(ECRR)

2、被曝を避けるために必要なこと
○外部被曝を避けるには必要なのは、放射線源から離れること、線量の
少ないところにいくこと。
○内部被曝を避けるために必要なのは、放射線源から離れ、線量の少ない
ところにいくとともに、チリの吸い込みを避けること、
汚染されたものを飲食しないこと。

3、放射能との共存時代をいかに生きるのか
○元を断つ。
○あらゆる危険物質を避け、免疫力を高める。前向きに生きる。

*********

まず初めにお話ししたのは、「明日に向けて」(277)で触れた「正常性バイ
アス」についてです。防災心理学の言葉で、危機が目の前に迫っているのに、
危機を危機として認識せず、事態は正常だと思い込んでやり過ごそうとする
バイアス=偏見のことです。

同調性バイアスとは、いざというときに周りの様子をうかがい、合わせてし
まうこと。判断停止に陥り、付和雷同してしまうことです。この場合、幸い
にも周りに積極的に逃げ出そうとする人がいる場合には、結果として避難が
可能になりますが、誰も動かない場合は、逃げ遅れてしまう可能性が高い。


防災心理学では、この正常性バイアスこそが、避難を妨げる最も大きな壁だ
と指摘しています。ではこの心理的ロックを解除するにはどうしたらいいの
か。そこで指摘されているのが、あらかじめの避難訓練の実施なのです。人は
シミュレーションがあれば、現場でもそれに沿って行動できるからです。

原発災害でも同じことが言えます。あらかじめの避難訓練が最も大切です。
実地訓練ができれば一番ですが、なかなか難しいので、図上訓練を行うといい。
自分の近くの原発を調べて、避難経路を確認するなどするとよいですが、原発
や放射線の危険性を学ぶことも、図上避難訓練の一部となります。


もう一つ、大事なのは、災害に遭遇したときの心理として、人が、パニック
過大評価バイアスに陥りやすいことです。311後にも「パニックを起こしては
ならない」という言葉がしきりに語られましたが、実はその結果、危険情報が
伝わらない方が、肝心の危機が隠されてしまうため危険なのです。

行政に携る人々や、理屈っぽい男性(僕のその一人ですが)などがかかりや
すいバイアスですが、実は人はそう簡単にはパニックを起こさないのです。
それは今回の311大震災・大津波・原発災害時に多くの人々がみせた整然たる
行動にもあらわれています。


これらから導き出される結論を、箇条書きにしたものが、「知っておくべき
人間の本能」と「災害時!とるべき行動」です。これは、『防災オンチの日
本人 人は皆「自分だけは死なない」と思っている」』山村武彦著、宝島社
からの引用ですが、実に的確な指摘だと思います。

ここに書かれたことはあらゆる災害についてあてはまることです。このため
この点を理解していると、あらゆる災害時に適用できます。火災でも地震で
も複合災害でも、同じ心理が働くからです。ぜひこの内容はプリントして、
学校や会社など、公の場に貼りだしておいて欲しいものです。


さて、当然にもこの内容は原発災害にも該当します。そしてそれは特別な訓練
をしていない限り、原発の運転手や営業会社、管轄官庁、政府などをも飲みこ
んでしまいます。行政がパニック過大評価バイアスにかかるだけではない。
正常性バイアスにも同調性バイアスにも陥るのです。

いや原発災害こそその可能性が高い。なぜか。「事故が起こるのは天文学的確
率」などといってリアルな想定をできてないからです。いやリアルに事故が想定
できるなら、原発は危険すぎて運転を許されなくなってしまう。そのため運転を
続ける限り、事故をリアルに想定できないのです。絶対的な負のスパイラルです。


このため、スリーマイル島事故でも、チェルノブイリ事故でも、事故当初、運転
員も管轄部署も、「信じがたいような楽観的な見方をした」ことが記録されて
います。いざというときの対処をしてないので、異変が起こっても、誤報では
ないかとか考えて、俄かには事実を受け入れられないのです。

福島原発事故でもそうでした。事故直後にヘリで現場にむかった管首相に対して、
原子力安全委員会の斑目委員長は「総理、日本の原発は壊れません。大丈夫です」
と語ったとされています。管首相もそれを信じてしまった。両者ともに完全に
正常性バイアスにはまってしまったのです。


また多くの行政がはまったのは同調性バイアスでした。これは行政に色濃く存在
する「事なかれ主義」によっても加速されました。このため自ら独自に「逃げよ」
という判断を出せた県や市町村はほとんどなかった。このため住民は逃げる決定
的チャンスを失いました。

マスコミもまた正常性バイアスと同調性バイアスに色濃くはまってしまいました。
すべてのテレビ、新聞が、政府の安全宣言を繰り返す広報のようになってしまっ
た。この深刻な事態を、今なお、わがこととして捉えかえしている大手メディア
はありません。とても残念なことです。


これらが合わさりながら、「パニック過大評価バイアス」もより強く働きました。
危機の可能性を語るだけで、「パニックをあおるな」というバッシングの対象に
なり、ますます危険情報が隠されてしまうようになりました。正常性バイアスと
同調性バイアス、パニック過大評価バイアスはセットになってより強力になった。

いや、今もそれは働き続けています。それが原発事故がまったく収束していない
事実を覆い隠し、さらに非常に危険な放射線被害が広がりつつあることにもマス
クをしてしまっています。まさにこのような状態の中で、私たちは原発災害から
身を守る真の方向性を切り開いていく必要があるのです。


もちろん、実際にあったことはこうしたバイアスだけでなく、意図的な事故隠しや、
危険を知りつつ安全を宣言するなどの犯罪的行為の重なりであり、それはまた別に
批判されなければならないことですが、ここで強調したいのは、正常性バイアスは、
事故の可能性を憂いて、対策を取ってないものに等しく襲ってくるということです。

これらからぜひ、各地で、こうした点を頭に入れた原発災害訓練を推し進めること
を呼びかけたいと思います。それは現に進みつつあるむ放射線被曝への構えを強化
し、必要な避難を促進することにもつながります。それは脱原発の声の高まりにも
連なって行くものだと僕は思っています。

僕自身、呼んでいただければどこへでも講師で赴きます。どうぞ声をかけてください!





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明日に向けて(287)殺された人びとへの追悼と祈りをこめて―キャンドル・ビジルへのお誘い―

2011年10月08日 10時00分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111008 10:00)

連続投稿をお許しください。今日、10月8日は、アメリカ軍がアフガニスタンに
空襲を開始してから10年目の日です。この10年間の「対テロ戦争」で殺された
全ての方たちを追悼して、本日、午後7時より8時半まで、三条大橋の上で、追悼
のキャンドル・ビジルを行います。すでに一度、案内を流していますが、再度
掲載させていただきます。お近くのみなさま。どうかご参加ください。

昨日、「封印された原爆報告書」というNHKドキュメントの内容を文字起しした
ものを掲載しました。この報告書は、日本陸軍を中心に、日本政府のもとで作ら
れたもので、例えば広島で被ばくした17000人の子どもたちの詳細なデータが記載
されていました。

爆心地からのどれぐらいの距離では何人中、何人が死亡したのかなどのデータで、
原爆の殺傷能力を明らかにした初めてのものでした。当時、アメリカ側から調査
に関わった人物はこれを「革命的」と形容しました。このデータにより、対ソ攻撃
で、アメリカは広島原爆の何発分をどの都市に落とせば壊滅を引き起こすことが
できるかという重要な事実を知ることができたというのです。

日本人の手によって集められた子どもたちの痛ましい記録が、アメリカ核戦略の
礎となっていったのです。許すことのできないことがらです。

日本政府によるアメリカ軍事戦略への加担、賞賛はこれだけにとどまりません。
太平洋戦争末期の日本本土空襲を指揮したのは、アメリカ戦略空軍のカーチス
・ルメイという将校でした。ルメイは一般市民への無差別爆撃を指揮した戦争犯罪人
ですが、日本本土空襲の功績を買われて、その後もアメリカ空軍の指揮官として
働き、朝鮮戦争やベトナム戦争での無差別爆撃をも指揮しています。

このカーチス・ルメイに対して、日本はなんと勲章を送っています。理由は航空
自衛隊の育成に貢献したからだといいます。日本本土にじゅうたん爆撃を行い、
何十万という非戦闘員、女性・子ども、お年寄り等々を殺害した犯人を表彰して
しまったのです。もし「国辱」という言葉を使うのならば、こういうときに使うのが
ふさわしいのではないでしょうか。


アメリカはその後も、空襲戦略を続け、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク
戦争と、繰り返し無差別爆撃を繰り返しています。僕はこの一因として、日本が、
戦争直後からアメリカに徹底して媚を売り、日本の国民・住民殺害の記録を、
データとして差し出し、積極的に核戦略に加担していったことがあったと思えて
なりません。

いくら惨く相手国の国民・住民を殺しても、徹底した力を示せば、やがて相手は屈服し、
自分たちになびく。そうしたまったくあやまった教訓を、日本政府はアメリカに
与えてきてしまったのではないか。

こうした点は、使用されている兵器にもあらわされています。これらの空襲の中で
繰り返し使われているのが、クラスター(収束)爆弾です。爆撃機が親爆弾を投下
すると、空中で割れて、無数の子爆弾がばら撒かれる。殺傷能力の高さなどから、
国際的に批判が集中している爆弾ですが、そもそものクラスター爆弾の始まりも、
日本本土空襲に使われた焼夷弾でした。親爆弾の中に八角形の円筒状の筒が無数に
込められ、油を詰めて落としたのです。それが日本の諸都市に猛火を呼び起こした。

この爆弾はアフガニスタンでもイラクでも多用様されました。太平洋戦争における
日本本土空襲の経験の上に重ねられてきた米軍の戦闘経験が、朝鮮戦争、ベトナム
戦争、湾岸戦争を経て、アフガニスタン空襲にまで連綿と受け継がれてきているの
です。

そればかりか、これらの戦争では、まるで新型爆弾の見本市みたいに、あらゆる
新型爆弾が投入されました。湾岸戦争から登場した劣化ウラン弾も多用され、多くの
地域が放射性ウランによって汚染されてしまいました。オサマビン・ラディン
一人を匿ったという理由で、たくさんの、まったく関係の無いアフガニスタンの
方たちが、殺傷されました。イラクは大量破壊兵器など持っていなかったのに、侵略
され、フセインが処刑されてしまいました。

そして私たちの国はそれを支持し続けました。それがこの10年、いや第二次世界大戦
から連綿と続いてきていることがらです。そのつながりの中で、原子力発電が生まれ、
アメリカ製の原子炉が地震国日本に50以上も建てられ、そして311の大震災で、原発が
崩壊し、たくさんの放射能が飛び出して、私たちを襲っているのです。

こうした全ての流れを断ち切りたい。

そのために今、自分たち自身のこととしてこの10年の国家暴力による犠牲者を追悼
する時間をみなさんとシャアしたいと思います。今宵夜7時より、京都・三条大橋の
上でお待ちしています。

*********************

殺された人びとへの追悼と祈りをこめて
 ―キャンドル・ビジルへのお誘い―

とき 10月8日(土)19:00~20:30頃まで
ところ 三条大橋周辺
主催 ピースウォーク京都 090-6325-8054
peace@pwkyoto.com
http://pwkyoto.com/

10月8日はどんな日?
2001年の「9・11事件」の報復に、米軍がアフガニスタンへの空襲を始めた日。
(干ばつに苦しむアフガンの人々に爆弾の雨を注いだのは、誰に何を報復するため?)
巨大な国家暴力が次々と牙をむき続けた10年、10月8日はその始まりの日だった。

アフガニスタンからイラクへ、あのとき始まった「戦争」は、まだ終っていない。
(イラクには大量破壊兵器なんてなかったのに)
日米同盟という“つきあい”で、私たちもまた、にんげんの命を奪い、
地球の命をも脅かすこの戦争に加担させられてきた。

戦闘機の上からの視線ではなく、地面を逃げまどう人の視線で、
「殺すな!」 と、ただそれだけを叫びたくて、
小さな一人が、いても立ってもいられずに、
「ひとりの歩みから」を始めた10年でもあった。
世界中の小さな一人のうねりが、何かを変える流れにつながるのを夢見て。

でもこの時間の中で、ありとあらゆる新兵器が殺人に使われ、劣化ウラン弾も
たくさん使われた。
放射能は今このときも、かの地の子どもたちや未来の命を脅かし、奪い続けている。

10年の後に3・11を経て、同じたくさんの放射能を浴びた私たちの大地から、
この10年の暴力の中で失われた命に想いを馳せ、
手の上に灯した小さな炎を見つめる時間をともにしよう。
すべての戦争犠牲者に哀悼を。
命を脅かすモノを「やめることができない」愚かさに終止符!の思いを込めて。

10月8日、三条大橋を灯りのリングで包み込みましょう。
希望の明日への歩みを始めるために、ともに悼む時間をご一緒しましょう。


What is “October 8th”?
It’s the day when the US started to bomb Afghanistan in the name of
retaliation against the tragedy of September 11th, 2001.
Who on earth was that against and what on earth was that for?
– throwing a shower of bombs and bullets over Afghan people who were
suffering from long period of drought.
Huge acts of violence by nations have recurred successively these
10 years.“October 8th” is the day it actually started.

The target shifted from Afghanistan to Iraq and the war that started on
that day is not ended yet although it turned out that Iraq didn’t
have weapons of mass destruction.
Under the “political relationship” called Japan-US alliance, we
Japanese were obliged to support the war that took people’s lives
and also would threaten this planet’s life.

Just to cry out “don’t kill anybody!” for people trying to escape
on the ground, many little people have taken first steps spontaneously
these ten years, dreaming that tiny ripples from all over the world
would come together to become a big wave to change the world.

Various new weapons such as DU bullets have been used to kill people
these 10 years. Radiation continues to threaten and take children’s
lives in that area.

Experiencing “March 11th” 10 years later, and living on land severely
exposed by radiation, let us think of the lives taken by the violence
of these 10 years and look quietly at the small candle lights in our
hands together.

Let us express our grief and sorrow for all war victims and put an end
to our stupidity of not giving up holding and using weapons that
threaten people’s lives.

Let us surround Sanjo Ohashi Bridge with our candle lights on October 8th.
Come and join us to share some time to mourn and to start to walk ahead
together with hope for tomorrow.



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明日に向けて(286)訂正・被爆者認定と原爆症認定について

2011年10月08日 09時00分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111008 09:00)

明日に向けて(283)で、矢ヶ崎克馬さんを京都にお招きすることを紹介
しましたが、その中での僕の説明にあやまりがあり、ピースメディアを
主催している友人が、分かりやすい指摘をしてくださいました。ここに
ご紹介するとともに、合わせて僕の文章の訂正とさせていただきます。
混乱を招く文章を書いてしまい、どうも申し訳ありません。

指摘していただいたのは次の点です。

*********

この文章では、いくつか不正確な書き方をされています。

「(引用)…矢ヶ崎さんの研究は、政府によって、(もともとはアメリカ
によって)被爆者と認められたなかった方たちが、このままでは死んでも
死にきれないと被爆者認定を求める集団訴訟を求めたことに対し、被爆者
と弁護団の要請を受けて、裁判の証人として出廷するために、被爆者の
身体に起こったことを、物理学の立場から解明せんと始められたのでした
(ここまで引用)」

この文では、別個の概念・用語である、
A「被爆者認定(被爆者であることの認定=被爆者健康手帳の交付)」と、
B「原爆症認定(被爆者が、さらに「認定被爆者」となること)」
が混同されており、区別がついていません。

上記引用では、「被爆者と認められてなかった方たち」が裁判に訴えた
(Aに関するもの)、と読めてしまいます。
文中言及の訴訟は、Bに関するものであり、矢ヶ崎克馬さんは、例えば、
熊本「原爆症認定」集団訴訟などに関わっておられ、その証言によって、
原告勝訴に導いています。

このままでは、何を訴えていたのか、何が争われていたのか、理解されて
いないことになりますので、訂正を求めるものです。

**********

全くご指摘の通りです。

この点、矢ヶ崎さんにも連絡をして幾つか尋ねた点も含めて、もう少し
詳しく解説させてもらいます。

被爆者認定を受けている方は、2010年末現在で230,736人おられます。
これに対して原爆症認定を受け、医療保障を受けられている方は、同じ
統計年で7,197人。わずか3%にしかなりませんが、これでも2003年からの
原爆症認定訴訟の結果、大幅に増えたのです。それ以前はどうだったのか
というと、2003年の集団提訴段階で、わずか1%、2000人台でした。

どうしてこのようなことになっていたのか。そもそも原爆症認定制度とは、
広島、長崎で被爆された方が、原爆による放射線が原因とみられる病気に
かかり、治療が必要だと判断された場合に、国が原爆症と認め、医療特別
手当を支給するとされているものですが、この法律ができてから非常に長
きにわたって、国が認定基準を極めて狭く設定し、ほとんどの方の病を、
放射線に起因するものとは認めてこなかったのです。そのため被爆者の99%
近くが、この法律に基づく医療手当の支給を受けられずにきました。

とくに問題なのは、原爆投下後に市内に入った方たちを含め、内部被曝に
起因するさまざまな病の発症を、国がまったく認めてこなかったことでした。
そのために被爆者とは認定されても、身体に起こっているさまざまな病を
原爆症と認められない状態が続いてきており、今も全てが認められてはいな
い状態にあります。

2003年からの集団訴訟は、この理不尽なあり方の是正を目指したものでした。
被爆者認定を受けた方たちを主体に進められましたが、一部は被爆者という
認定すら受けられていない方たちも参加されたそうです。裁判は各地で勝訴
を重ね、19連勝という実績を作りだし、国の基準の見直しを引き出しました。
現在では爆心地から3.5キロ以内の被爆者、また原爆投下後100時間以内に、
爆心地から2キロ以内に入った被爆者にまで、認定基準がひろがっています。

しかしそれでも今、生きておられる被爆者の方たちの3%にしか認定がなされ
ていません。訴訟の勝利は大きな成果ですが、それでもまだまだ国による
被爆者への手当は非常に薄いものであるといわざるをえない現状です。


さらにこうした被爆者に冷酷な国の在り方は、そもそもの被爆者の認定基準
にもあらわれています。この点について矢ヶ崎さんは、著書『隠された被曝』
の中で、現行の被爆者認定基準の是正が必要であることを主張されています。

被爆者は、法律上、以下のように定義されています。
①1号被爆者(直接被爆者) 原爆投下の際、当時の広島市もしくは長崎市
の区域内又は政令で定めるこれらに隣接する区域内に在った者。
②2号被爆者(入市者) 原爆投下から2週間以内に爆心地から2キロ以内に
入った者。
③3号被爆者。原爆投下の際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能
の影響を受けるような事情の下にあった者。
1、近隣の地域で救援や治療・看護にあたった者。
2、黒い雨地域に在った者のうち健康管理手当が受けられる病気にかかった者。
3、海面の反射等で特に影響の強かった地域に在った者。
④4号被爆者(胎児) 上記被爆者から広島では1946年5月31日まで、長崎
では1946年6月3日までに生まれた者。


矢ヶ崎さんはこれを次のように改めるべきだと主張されています。解説を
加えながら、以下、紹介します。

(1)被曝期間を枕崎台風襲来までの期間に改めること。両市ともに9月17日まで。

枕崎台風とは戦後3大台風に数えられる大型台風で、両市とも大きな洪水が
起こり、残留放射能のかなりの部分が海に流れたと推測されます。ちなみに
アメリカと政府は、原爆投下がもたらした放射線の影響を語る際に、この台風
の後に計測された数値を論拠としています。かなり放射能が洗い流された後で
測ったものから類推したものを、広島・長崎に降った放射能の量としており、
これも被曝隠しの大きな一因となっています。

この主張を行うにあたって、矢ヶ崎さんは、放射性核種が、放射線を出して
「崩壊」する際に、別の物質に変わって、さらに放射線を出していく「崩壊
系列」について解き明かし、このため放射線の総量が、原爆投下直後をピーク
に下降線をたどるのではなく、むしろ一時的に上昇してから、下降していった
ことを解き明かしています。これらからも従来の2週間という期間はあまりに
短いと言えるのです。

(2)被曝距離範囲を広げること。

原子雲の広がった範囲はおよそ直径20キロでした。その範囲の全てで、被曝の
危険性があったわけです。なおこの原子雲の広がった範囲は、従来、いわゆる
キノコ雲の写真から、その高さを類推し、範囲を特定するという方法が取られて
きました。ここでも範囲を狭く捉える認定が行われ来たのですが、最近になって
コンピューターシミュレーションの発達により、雲が成層圏に達してそれ以上
上がれなくなり、横へ横へと広範囲に広がったこと、このため従来認定さ
れていた地域より、広範囲が放射能汚染されたことが確認されています。
これらからも被曝距離範囲をもっと広げることが問われています。

(3)3号被爆者の範囲を、9月17日までにひとりの被爆者にでも接した者全てに
拡大すべきこと。

これも従来、政府が内部被曝をまったく認めてこなかったために、被爆者の身体
に付着した放射能の埃を吸いこんだための被曝が無視されてきたことを批判した
ものです。

(4)放射線は電離という分子切断の作用を持ち遺伝子を傷つける。被曝2世等に
対しても「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を準用すべきである。

放射線が世代にまたがった被害をおよぼしていることを批判したものです。
アメリカと国がこの点をまったく認めていないことを批判しています。


以上、原爆症認定訴訟で争われたことと、前提としての被爆者認定基準のあやまり
について整理しました。これらの点については、さらに学習を深め、折にふれて
内容を更新していきたいと思います。

重要な指摘をしてくださった友人への心からの感謝を最後に書き添えて、この記事を
閉じます。


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明日に向けて(285)封印された原爆報告

2011年10月07日 23時30分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)

守田です。(20111007 23:30)

福島原発事故と放射能汚染の現実に対して、これから私たちが何をしなければならないかを考える時、私たちにとって大きな手掛かりになるのは広島・長崎での経験です。

中でもこの現実に対して、国が、そして原爆を投下したアメリカが、何を行ったのかということは、今、政府が取っている行動や、その背後で指図をしているアメリカの動向を解析する上で、非常に参考になります。

アメリカは一度も原爆投下を謝罪していません。また日本政府も、一度もアメリカに謝罪を要求していません。これほどの戦争犯罪が未だに正されずにいる。そしてその延長上に、現代社会があり、核兵器があり、そうして原発があります。

この脈絡の中に、放射線学も語られてきた。とくに放射線の人体への影響は、広島・長崎で起こったことの「解釈」の上に、論としての定立を見てきました。

その広島・長崎の経験が、戦後65年にわたって、非常に歪められてきたこと、真実が隠されてきたことが、昨年8月6日に放映されたNHKドキュメント「封印された原爆報告書」で、非常に鮮明に描き出されました。

僕はこの映像を、今年の8月4日深夜(0時15分より)の再放送でみて、それこそ鳥肌が立つような思いがし、すぐにツイッターで放映されている内容の断片を報告し続けました。

その後、この映像を探していたところ、友人が録画してくれていたものがあり、渡してもらえることができ、何とかそれを文字起ししたいと思ってきました。

そして11月19日に、京都に内部被曝の危険性を訴え続けている矢ヶ崎克馬さんを呼ぶことになり、企画の呼びかけが出されたことに合わせてぜひこの内容をシェアしたいとノートテークを実行しました。

みなさま。ともあれ内容をご覧ください。驚愕の事実が語られています。僕は改めて、「にんげんをかえせ」「核を許すな」の思いを強くしました。重要な番組を提供して下さった番組制作スタッフの方がたにお礼がいいたいです。

以下、いつものことですが、要約的なノートテークです。
また読みやすいように、小見出しを僕が入れています。このことをふまえて、ご覧ください。

********************************

封印された原爆報告書
NHKスペシャル 2010年8月6日放送
http://www.dailymotion.com/video/xkca1f_%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8_news


はじめに

アメリカ国立公文書館の資料室にあるフィルムが眠っていた。そこに映し出されたのは被害の実態調査に借り出された日本の日本の医師と科学者たちだった。その数1300人。被ばく地でしか得られない貴重な調査が行われていた。

報告書は全部で181冊。1万ページのおよぶ。戦後に日本を占領したGHQの資料の中におさめられていた。そこには被爆国日本自らが調べ上げた被害の実態が描かれていた。

学校にいた子どもたちがどこでどのようになくなったのか。教室の中の位置が描かれていた。また放射線が人間の臓器にどのような影響をおよぼすのか。200人の超す被爆者の遺体を解剖した記録もあった。

調査の対象となった被爆者は2万人。治療はほとんど行われず、原爆が人体に与える影響が調べられていた。報告書はすべて日本人の手で英語に翻訳されていた。この貴重な記録はすべて原爆を落とした国、アメリカに渡されていた。

われわれは数少ない関係者を取材していった。そこから浮かび上がってきたのは、被爆者の治療よりもアメリカとの関係を優先させていた日本の姿だった。

元アメリカ調査団の医師は語る。
「日本の報告書の内容はまさにアメリカが望んでいたものでした。」

元日本陸軍軍医少佐は語る。
「早く持って行った方が心証がいいだろうと。原爆のことはかなり有力なカードであったのでしょうな。」

封印されていた原爆報告書から、原爆調査の実態を明らかにする。


旧陸軍病院宇品分院にて

爆心地から4キロ離れたところに、当時のままに建っている建物がある。旧陸軍病院宇品分院。のちに181冊にまとめられる最初の調査がここで行われた。収容された被爆者は2ヶ月間でのべ6000人。むしろのような布団の上に寝かされていた。

大本営の元、宇品での調査を指揮したのは、陸軍省医務局だった。原爆投下2日後の8月8日に広島に調査団を派遣。敵国アメリカが使った新型爆弾の調査に乗り出していた。調査の結果は1冊の報告書にまとめられた。タイトルは「原子爆弾による広島戦災医学調査報告」。被爆者がどのように亡くなっていくのか、詳細なデータと共に記録されている。

調査を受けた被爆者の一人が生きていた。沖田博さん(89)。宇品の病院で生死をさまよった。当時、広島の部隊にいた沖田さんは、爆心地からおよそ1キロの兵舎で被ばく。突然、体に異変があらわれ、宇品に連れてこられた。病院に入っても治療はほとんど受けられず、毎日、検査ばかりが続いた。「こいつはいつまでいきいるか確認するためにみていたと思う」と沖田さんは語る。

沖田さんの様子も記録されていた。高熱を出し、白血球の数は通常の4分の1まで下がっていた。家族の懸命な看病で、一命をとりとめたが、その後は、恢復の過程が調査の対象となった。嫌がる沖田さんに構わず、さまざまな検査が2ヶ月間、続けられた。

「お前、モルモットじゃ!と言われたような気になりました。こんちくしょうと言いたいのだけれど言えない。くそっと思いながら態度には出せませんでした」と沖田さん。


アメリカ調査団へ日本の協力

広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾。その年だけであわせて20万人を超す人たちが亡くなった。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦とともに一気に拡大した。国の大号令で、全国の大学などから1300人を超す医師や科学者が集められた。調査は巨大な国家プロジェクトになり、2年以上の歳月が費やされた。

なぜ自ら調べた原爆被害の記録をアメリカに渡したのか。われわれはアメリカ公文書館に記録された報告書の中に答えを見出さんとした。するとある人物の名が浮かび上がってきた。アシュレー・オーターソン大佐。マッカーサーの主治医で終戦直後に来日したアメリカ原爆調査団の代表だった。

オーターソン大佐とともに日本で調査にあたった人物がカリフォルニアにいた。フィリップ・ロジ氏。92歳。調査団の中の最も若い医師だった。ロジ氏は、調査団がつくとすぐに日本側が報告書を渡したいと申し出てきたと語る。

「オーターソン大佐は大変、喜んでいました。日本がすぐに協力的な姿勢を示してくれたからです。日本は私たちが入手できない重要なデータを原爆投下直後から集めてくれていたのです。まさに被爆国にしかできない調査でした。」

報告書を渡していたのは、原爆調査を指揮する陸軍省医務局の幹部だった。その中の一人が小出策郎軍医中佐だ。30歳の若さで医務局入りしたエリートだった。陸軍が最初に行った報告書もすべて英語に翻訳されてオーターソン大佐にわたされていた。なぜ小出中佐は終戦前から調べていた内容をアメリカに渡したのか。

当時の内情を知る人物が生きていた。陸軍の軍医少佐だった三木輝雄さん。94歳。医務局長を父に持ち、終戦時は大本営に所属していた。報告書を提出した背景には、占領軍との関係を配慮する日本側の意志があったという。

三木さんは語る。
「いずれ要求があるだろうと。その時はどうせもっていかなけりゃいかん。それなら早く持って行った方が心証がいいだろうと。それで要求がないうちにもっていった」

「-なんのために心証をよくしようとしたのでしょうか」
「731(部隊)のこともあるでしょうね。」


三木さんがいう731部隊は、生物・化学兵器の効果を確認するために、満州で捕虜を使った人体実験を行った特殊部隊だ。ポツダム会談で、連合国は、捕虜虐待などの戦争犯罪を厳しく追及することを確認していた。小出中佐は、陸軍の戦後処理を任された一人だった。

終戦を迎えた8月15日に小出少佐に極秘命令が出ている。
「敵に証拠を得られると不利となる特殊研究はすべて証拠を隠滅せよ」

大本営にいた三木さんは、動揺する幹部の姿を間近にみていた。戦争犯罪の追求から逃れるためにも、戦後のアメリカとの関係を築くためにも、原爆報告書を渡すことは「当時の国益に叶うものだった」と言う。

「新しい兵器を持てば、その威力が誰でも知りたいものですよ。カーで言えば有効なカードがあまりないので、原爆のことはかなり有力なカードだったでしょうね」と三木さん。

自ら開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ。戦争に負けた日本。原爆を落とした国と落とされた国。二つの国の利害が一致した。


アメリカがもっとも欲しかったものは・・・

原爆投下から2カ月。アメリカの調査団が入ってくると、日本はその意向を強く受けて、調査に力を入れるようになる。小出中佐にかわって、アメリカとの橋渡し役を務めるようになったのが、東京帝国大学の都築正男教授だった。放射線医学の第一人者で、当初から陸軍とともに調査にあたってきた。

報告書番号14。都築教授が陸軍と共同で作成したこの報告書の中に、同時アメリカが最も必要としていたデータがあった。原爆がどれだけの範囲にいる人を調べた記録だ。対象となったのは、広島市内で被ばくした17000人の子どもたちだった。どこで何人死亡したのか、70か所で調べたデータが記されている。

爆心地から1.3キロにいた子どもたちは、132人中50人が死亡。0.8キロでは、560人全員が死亡している。8月6日の朝、広島市内のあちこちで、大勢の子どもたちが学徒動員の作業に駆り出されていた。同じ場所でまとまって作業をしていた子どもたちが、原爆の殺傷能力を知るためのサンプルとされたのだ。

調査の対象となった一つが、旧広島市立第一国民学校(現段原中学校)だ。そこに通っていた佐々木妙子さん、77歳。当時1年生で、空襲に備えて防火地帯を作る「建物疎開」の作業に動員されていた。学校には慰霊碑が建てられている。屋外で作業にあたっていた175人が被ばくした。佐々木さんのすぐ隣にいた親友、上田房江さんも亡くなった。

「ほんとごめんね。うちだけ生きてから。一生懸命、それこそお国のためじゃないけれど、疎開の作業に出て、帰るときには姿もないようなことではあまりにむごいですよ」

報告書によると、第一国民学校の1年生175人のうち108人が死亡。佐々木さんを含む67人が重傷となっている。

都築教授たちが調査を行った背景に、アメリカからの要請があった。アメリカ調査団の代表オーターソン大佐がこのデータに強い関心を示していた。
ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所、日本からのデータはすべてここに集められた。
オーターソン大佐は調査の結果を、「原爆の医学的効果」と題する6冊の論文にまとめていた。

研究所所員
「第6巻には子どもたちの被害のデータがあるので、政治的配慮から機密解除が遅れました」


17000人の子どもたちのデータから得られたのは1枚のグラフだった。爆心地からの距離と死者の割合を示す死亡率曲線だ。原爆がどれだけの人を殺傷できるのか、世界で初めてあらわされたこのグラフは、アメリカ核戦略の礎となった。

こうしたデータを元に、同時、アメリカ空軍が行っていたシミュレ―ションがある。ソ連の主要都市を攻撃するのに、広島型原爆が何発必要かを算出し、モスクワ6発、ウラジオストク3発、スターリングラード5発という試算を出していた。

オーターソン大佐の研究をひきついだカリフォルニア大学名誉教授ジェームズ・ヤマザキ氏94歳は、死亡率曲線は、広島・長崎の子どもたちの犠牲がなければ得られなかったと指摘し、次のように語った。

「革命的な発見でした。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのですから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。まさに日本人の協力の賜物です。貴重な情報を提供してくれたのですから。」

建物疎開の作業中に被ばくし、多くの同級生を失った佐々木妙子さん。友人たちの死が、日本人によって調べられ、アメリカの核戦略に利用されていたことを初めて知った。

「ばかにしとるね、いいたいです。私は。手を合わせるだけのことです。私はもう何もできません。」


アメリカのためにだけ調査がつづけられた

日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師はどのような思いで被爆者と向かい合ったのか。山村秀夫さん、90歳。都築教授ひきいる東京帝国大学調査団の一員だった。当時、医学部を卒業して2年目だった山村さん。当時、調査はすべてアメリカのためであり、被爆者のためという意識はなかったという。

「結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談することもできませんから、とにかく自分たちで調べたら全部、向こうにだすと」

山村さんが命じられたのは、被爆者を使ったある実験だった。報告書番号23、山村さんの報告だ。被爆者に血圧を上昇させるアドレナリンを注射し、その反応を調べていた。「12人のうち6人はわずかな反応しか示さなかった。」山村さんたちはこうした治療とは関係ない調査を毎日行っていた。調べられることはすべて調べるというのが、調査の方針だったという。

「生きている人が生体にどういう変化が起きているか、少しでも何かの手がかりを見つけて調べるということで、そのときはそれしか考えられなかった。今となってみたら、もっと他にいい方法があったのかもしれないけれど、今と社会的な状況が全然違いますから・・・」


亡くなった被爆者も調査の対象になった。亡くなった被爆者は仮設の救護所などに運ばれて次々と解剖されたという。200人を越す解剖結果は14冊におよぶ報告書にまとめられている。そのうちの1冊に子どもの解剖記録が残されていた。報告書番号87。解剖されたのは、長崎で被ばくし、亡くなったオノダマサエさん。11歳の少女だった。

マサエさんの遺体はどのようないきさつで提供されたのか。長崎にいる遺族を訪ねた。おいにあたる小野田博行さん。正枝さんが解剖された経緯を、博行さんは、父、一敏さんから聞いていた。被ばくした正枝さんは、長崎市中心部の救護所に運ばれていた。兄、一敏さんがかけつけたとき、正枝さんは高熱にうなされ、衰弱しきっていたという。

「亡くなる数時間前に、兄ちゃん、家に連れて帰って・・・その言葉が最後の言葉だったようですね」と博行さん。

一敏さんは、正枝さんの遺体をおぶって連れて帰ろうとすると、救護所の医師たちが声をかけてきたという。

「将来のために、妹さんを解剖の方に預けてもらえないかと言われたようです。一度は断ったのですが、やはり親父もたくさんの亡くなった人を見ていますから、渡す気になったのではないかと思うのですよね。将来のためにという思いで」

被爆者のためにと預けた正枝さんの遺体。その後、どうなったのか、家族に知らされることはなかった。


正枝さんたち被爆者たちの解剖標本は、報告書と同時に、アメリカにわたっていた。放射線が人体に与える影響をより詳しく調べるために利用された。そして昭和48年、研究が終わったあとに、日本に返還され、今は広島と長崎の大学に保管されている。

小野田正枝さんの標本が長崎大学にあることが分かった。博行さんが写真でしか知らない正枝おばさん。正枝さんは肝臓や腎臓などを摘出され、5枚のプレパラート標本になっていた。

「これがおばさんですかねえ。こんな形でお会いするとは思いもしませんでした・・・」

アメリカでつけられた標本番号は249027。原爆被害の実態を伝えて欲しいと提供された11歳の身体が、被爆者のために生かされることはなかった。

原爆投下直後から始められていた国による被害の実態調査。この65年間、その詳細が被爆者に明らかにされることはなかった。平成15年からあいついだ原爆症の集団訴訟。自分たちの病気は原爆によるものだと認めて欲しいという被爆者の訴えに対して、国はその主張を退けてきた。


医学生の手記に綴られた入市被ばくの実態

30年以上、被爆者の治療に携わり、原告団を支えてきた医師の斉藤紀(おさむ)さん。181冊の報告書の中に、被爆者の救済につながる新たな発見はないか。斉藤さんが注目したのはある医学生が書いた手記だった。報告書番号51。ここにこれまで国が認めてこなかったある被ばくの実態が綴られていた。

手記を書いたのは門田可宗(よしとき)さん。当時19歳。山口医学専門学校の学生だった。門田さんが広島市中心部に入ったのは原爆投下の4日後だった。直接被ばくをしていないにもかかわらず、門田さんに原爆特有の症状があらわれた。いわゆる入市被ばくだ。長年、国は入市被ばくによる影響はないとしていた。しかし門田さんの手記に書かれていたのは、直接被ばくした人と同じ症状だった。

「8月15日、熱が39度5分まであがる。8月17日、歯茎とのどの痛みが増してくる。」

さらに8月19日、門田さんを不安に陥れる症状が襲う。体中に多数の出血斑が現れたのだ。

「私も原爆の被害者なのか。いや、そうではない。8月6日、確かに私は広島にいなかったではないか。不安のあまりその日は眠れなかった」

8月30日、門田さんは、被爆者の症状を記した新聞記事を目にする。そこに書かれていたのは、「全身に斑点状の出血があり」という自分と同じ症状だった。

「私の症状被爆者の症状とまったく同じではないか。ああ、なんということだ。私も原爆の被害者になってしまったのだ。」


斉藤さんは、門田さんの報告書がありながら、国がこれまで入市被ばくの影響を否定し続けてきたことに憤りを感じている。

「これまで言われてきた入市被爆者には原爆症はないのだという考え方が、根底から実は覆ってしまうというような意味をこれはもっている。そういった意味で65年もうずもれていた。うずもれさせられていた」と斉藤さん。


入市被ばくした女性の訴え

原爆症訴訟で、長年、国を訴えてきた被害者の中にも、門田さんと同じように入市被ばくした女性がいた。斉藤泰子さん(享年65歳)、3年前に被ばくが原因とみられる大腸がんで亡くなられた。

当時4歳だった泰子さんが、母、幾(いく)さん、97歳に連れられて疎開先から戻ったのは、原爆投下の五日後のことだった。親戚を探して爆心地近くに入り、一緒に歩き回ったという。
暫くすると泰子さんに、高熱や下痢など、被ばくによると思われる症状がでてきた。

幾さんは語る。
「連れて来なければそんなことはなかっただろうと思うのですけれど。ほんと悪かったなあと、今でも後悔しています。」

その後、白血球が減少するなど、原爆の後遺症に悩まされた泰子さん。59歳のとき、大腸がんを発症した。原爆症と認めて欲しいと訴えたが、国は被ばくはしていないと退け続けた。4年前、泰子さんは最後の法廷にのぞんだ。そのときの言葉だ。

「私は現在、末期がんで、余命いくばくもないと医師から言われております。もう私には時間がありません。国は、私のような入市被爆者の実態を分かっていません。多くの入市被爆者が、私以上に苦しんでいます。」

勝訴判決が出たのは、泰子さんが亡くなってから3ヶ月後の、平成19年のことだった。幾さんは、門田さんの報告書の存在がもっと早く分かっていれば、泰子さんが生きているうちに、救済されたのではないかと思っている。

「本当に、間に合いませんでした。かわいそうですよね。遅すぎましたね」と幾さん。


門田さんの思い

一人の医学生が書いていた入市被ばくの報告書。筆者の門田さんが岡山で生きていた。どのような思いで手記を綴ったのか。斉藤医師が聞きたいと訪ねた。

門田可宗(よしとき)さん、84歳。65年間、原爆の後遺症の恐怖と闘い続けてきた。心臓や腎臓や患い、療養中だった。

「日記を見ますと、8月19日に先生は出血に気がつかれていますが、ご記憶にありますか」「ありますよ。胸の辺りに皮下出血がありまして、こりゃいかんと、非常に危ぶんだんです。その当時はわかりませんので。」
「こうして訳されてアメリカにあることは」「まったく知らなかったですね。」

門田さんによると、日記を書いたのは山口の医学学校に戻ってからだった。山口まで訪ねてきた東京帝国大学の都築教授に日記を書くように進められたと言う。

「当時、研究者で名前がナンバーワンで出てきたのは都築先生ですからね。わざわざ山口医専おいでになったんです。直接面談しましたね、いろいろと質問されましてね。
そのときに、「今から日記を詳細につけるように」と言われたんですね。それで日記だけはずっとつけようと思ったのです。オーターソンというアメリカの軍医がきて、熱心に僕の日記を求めていることも分かった」

報告書の最後に門田さんは自らの意思を記していた。

「原爆症の研究のため、私はこの手記を書いた。もしこの手記が役立つようであれば非常に幸せである」。

「僕が残しておかないと誰が残すんだという気持ちがありましたね。医学に携るものとして多少、具体的なことを書いておかないと」。


一人の医師の使命として、自らの被ばく体験を後世に残そうとした門田可宗さん。その思いは、届かなかった。

65年前に失われた多くの尊い命。そして生き残った人たちが味わった苦しみ。その犠牲と引き換えに残された記録が、被爆者のために生かされることはなかった。世界の唯一の被爆国でありながら、自らの原爆被害に眼を向けてこなかった日本。封印されていた181冊の報告書が、その矛盾を物語っている。

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明日に向けて(284)福島原発作業員が死亡・・・体調不良?事故後3人目

2011年10月06日 23時30分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111006 23:30)

福島第一原発の現場から、作業をされている方が亡くなったという発表がなされ
ました。記事はとても短い。読売新聞発表のものを、全文、引用します。

***

福島原発作業員が死亡・・・体調不良、事故後3人目
読売新聞2011年10月6日19時33分

東京電力は、体調不良で病院に5日運ばれた福島第一原発の50歳代の男性作業員
が6日朝、死亡したと発表した。

男性は下請け企業に所属。8月8日から、福島第一原発で汚染水処理用のタンクの
設置作業などに従事していた。累積の放射線被曝(ひばく)量は2・02ミリ・シー
ベルト。東電は、被曝は死因に無関係とみている。同原発での作業員の死亡は、
事故発生後3人目。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111006-OYT1T01085.htm

***

何よりもまず、亡くなられた方のご冥福を祈りたいと思いますが、同時に沸き上
がってくるのは、放射線被曝の影響は本当にないのだろうか?という疑問です。
またこの発表では死因が明らかではありません。そのため、「明日に向けて」の
タイトルで、「体調不良?」としましたが、疑問に思うことが多い発表です。

実は何の偶然か、この記事を読む前に、たまたま立ち寄り先で貸していただいた
『福島原発でいま起きている本当のこと』というブックレットに目を通していま
した。福島第一原発・元主任指導員の、淺川凌さんが書かれたものです。2011年
9月15日に第1刷が出たばかりのもの。宝島社の発行です。

その冒頭にあるのが「原発という『地獄の職場』」という一文です。「現場の真
実1」「汚染されているところでご飯食ってんだから・・・」というタイトルが
ついている。さらに小見出しに「サウナ状態のうえ息をするだけで消耗」と書か
れていて、原発サイトでの作業の過酷さが書かれています。

ポイントは放射線防護服を着なければいけないことにある。淺川さんは、立ち入り
禁止区域に一時帰宅する人の姿をテレビで見た人が多いだろうがそれとは全然、
違うと強調しています。作業員は放射性物質がしみ込んでくることを避けるために、
あの上に耐水性のあるカッパを着ており、服の中が完全サウナ状態なのだそうです。

さらにマスクがかなり苦しいそうです。マスクには吸う側と吐く側に弁がついて
いるのだそうですが、その開閉にけっこう力が居るという。つまり「呼吸するだ
けで消耗する」のだそうです。亡くなられた作業員の方も、8月8日から、真夏の
炎天下で、そのスタイルで働かれていたのでしょう。

淺川さんは、さらに東電が下請け作業員を人として扱わず、過酷な環境での過酷な
作業を押し付けている実態をも怒りをこめて暴露しています。その中で出て来るの
が、汚染された環境の中で食事を採らされている方がもらした「汚染されたところ
で飯食ってんだから」という言葉です。


さて、ここで問題にしたいのは、その状態でおよそ2カ月の間に2ミリシーベルト
被曝したことがどのように影響したかです。これが外部被曝だったのか内部被曝
だったのかによっても、相当に事情が変わりますが、かりに外部被曝だけだった
としても、強い影響があったのではないだろうか。

なぜなら現場作業そのものが、大変過酷で、この方や、作業されている労働者の
体調が悪化し、免疫力が低下していたことが十分に予想されるからです。そして
そのようなときに、放射線は人体に対してより大きなダメージを与えます。体調
不良による死というより、体調不良のもとでの被曝による死が起こりうる。

こう考える論拠は、これまでも紹介してきたジェイ・M・グールドの著作、
『死にいたる虚構 国家による低線量放射線の隠蔽』の中に、チェルノブイリ事故
による放射能の世界各地への飛散のあとに、免疫力が弱っているあらゆる層の
人々の死亡率が増加したことが紹介されているからです。ポイントを引用します。


「1986年夏にきわだって増加したのは、乳幼児、感染性疾患をもつ若年成人、高齢
者の死亡であった。これらの人たちには免疫系が相対的に脆弱であるという共通点
がある。そこに免疫障害を起こす原因が加われば病気やストレスに対しての抵抗を
妨害することになる。免疫機能が低下している高齢者はそれまでに既に病気の状態
といえるので、チェルノブイリの放射能は免疫系の抵抗力を一層、弱体化させたで
あろう」

「酔いをさませるほど驚かせる統計は、これまでになく死亡率を増加させた若年成
人の場合であろう。肺炎、感染性疾患、特にエイズ関連疾患による著しい死亡率増
加は1986年5月にピークとなり、ついで夏期に続くが、この背景には免疫障害がある
と思われる。」(同書p12~13)


こうした過去の例から考えられるのは、原発サイトにおける過酷な労働が、免疫力を
低下させており、そこに放射線被曝が重なることにより、より免疫力が低下し、体が
衰弱し、何らかの死因につらなっていったのではないか。放射線による急性症状では
ないにしても、被曝も影響した死だったのではないかということです。

これらを考えると、今、働いている方たちのことがさらに心配になります。低線量の放
射線が、晩発性のガンを引き起こしうるだけでなく、免疫系にダメージを与え、あら
ゆる死亡要因を強めてきたことが明らかにされないと、さらに犠牲者が増えるのではな
いか。いや今でも確実に免疫力の複合的要因によるダウンが起こっているはずです。


原発サイト内で作業されていた方の死が、わずか数行の新聞発表で「終わって」しまう
ことを許さずに、さらにウォッチを続けていきたいと思います。


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明日に向けて(283)矢ヶ崎克馬さんを京都にお招きします。(11月19日)

2011年10月05日 23時30分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111005 23:30)

内部被曝の脅威について、これまで矢ヶ崎克馬さんの語られている内容を、
何回かに分けてこの場に紹介してきましたが、ぜひ京都にお招きして、直接
お話を聞こうと言うことで、11月19日に講演会を立ち上げました。

前半で矢ヶ崎さんに内部被曝についての講演を行ってもらい、後半で、福島
から避難中の方、京都から茨城や福島に避難情報などを伝える「ほっこり通
信」を発信している方、そして先日、僕を信楽にまねいて下さった「あすの
わ」の方、都合3名の女性に登壇していただき、矢ヶ崎さんに意見を伝えたり、
質問をしてもらい、討論をしながら内容の理解を深めていこうと思います。
この後半の討論のコーディネートを僕が行います。


放射線の問題、人体への影響をめぐっては、「専門家」の間で大きく意見が
相違しています。政府寄りの「専門家」の中には100ミリシーベルトまでは
安全だと言う人すらいます。しかしこの国がもともと定めていた年間の
許容量は1ミリシーベルトです。この大きなギャップはどこから生まれて来る
のか。

僕自身、正直なところ、311直後、何を考え方の基準にしたらいいかよく
分からず、かなり混乱しました。放射線の害がどれぐらいからあるか、誰に
とっても経験的に、あるいは実験的に知ることができないため、文献から学ぶ
以外にないのですが、論者によって評価が大きく食い違っていたからです。

やがて僕がいきついたのは、6000人の被爆者を診てこられた肥田舜太郎医師の
見解でした。その肥田さんが現在の放射線学はウソが多いと語っている。とくに
最近の学者は誰も被爆者を診たことが無いのに、放射線の影響を語っている。
これらの人はアメリカの言ったことをオウム返ししているに過ぎないと、繰り
返し警告されていることが僕の胸に響きました。


ではどうしてそうなったのか。放射線の影響の疫学的データといえるものは、
広島・長崎の被爆者への調査の中で作られてきているわけですが、そもそも
アメリカは、原爆の非人道性を少しでも覆い隠すために、一切のデータを
隠すとともに、被爆者として認める範囲を非常に狭くしてしまったのでした。

爆心地から半径2キロ以内にいた人、また2週間以内に爆心地に入った人のみが
被爆者と認められた。しかし放射能を多分に含んだいわゆる「黒い雨」は半径
10キロ以上にわたって降っています。その雨にあたり、あるいは雨が入った
井戸水を飲み、雨で汚染された食物を食べて内部被曝したたくさんの被爆者、
あるいはまだまだ放射能が高い濃度で残留していた市内に、2週間以降に入って
被曝した方たちが、被爆者から除外されてしまったのでした。

そのため、アメリカが作った教科書の解説は、実際の被爆者(認定されてない人
を含めた本当の意味での被爆者)の実情にまったく合わなかった。しかも現実に
合わせて教科書を変えるのではなく、教科書に合わせて現実が解釈されたため、
現にさまざまな身体症状が出ている方たちがいるのに、放射線の被害は認め
られませんでした。そのため、多くの被爆者が塗炭の苦しみを嘗め続けてきたの
ですが、肥田さんは誰よりも早くから、そうした被爆者を診察し、被爆者に寄り
添い、共に歩んでこられました。いやご自身も被爆者ですから、まさに被爆者たち
の先頭にたって、歩みを進めてこられてきたと言えます。

この事実から僕は、放射線の人体に対する被害を一番よく知っているのは、肥田
先生だと感じ、その肥田さんが、アメリカのアーネスト・スターングラス教授と
出会い、初めて、自分の診てきた知見が理論づけられたと感じたと述べていること
から、このスターングラス教授らが解き明かしてきたものにこそ、放射線被害の
実際の姿があると考えて、その理論などに学んできました。


さらに一歩進んで、僕が学びだしたのが、矢ヶ崎克馬さんの諸論でした。僕が着目
したのは、矢ヶ崎さんもまたアメリカの書いた教科書から出発せず、被爆者の現実
から歩みだされていることでした。というのは矢ヶ崎さんの研究は、政府によって、
(もともとはアメリカによって)被爆者と認められたなかった方たちが、このまま
では死んでも死にきれないと被爆者認定を求める集団訴訟を求めたことに対し、
被爆者と弁護団の要請を受けて、裁判の証人として出廷するために、被爆者の身
体に起こったことを、物理学の立場から解明せんと始められたのでした。

その意味で、矢ヶ崎さんは、アメリカの教科書から自由なところで、被爆者の実際の
苦しみから出発しつつ、肥田さん臨床的経験知をも受け継ぎながら、理論的解明に
進むことができたのでした。そしてその矢ヶ崎さんが解明されたのが、内部被曝が
外部被曝と比べて、はるかに人体への打撃力が高く、危険性が格段に高いという事実
でした。そのため矢ヶ崎さんは、脱原発を唱える科学者の中でも、もっとも内部被曝
に厳しい評価をしており、汚染された食べ物などから体内に放射性物質を取り込む
ことへの徹底した防御を強く訴えられています。

僕はこの矢ヶ崎さんの知見に学んでこそ、子どもたち、妊婦さん、だからまた私たち
の未来を守れると感じています。そのため、一人でも多くのみなさんに、矢ヶ崎さんの
お話に直に触れて欲しいと思うのです。ぜひ京都周辺だけでなく、当日、足を運ぶことが
可能な全ての方に集まっていただければと思います。

みなさま。ぜひぜひ、起こしください。以下、案内を貼り付けます。

****************************

いまこそ原発を問う連続講座(第4回)

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

    こどもたちを放射能から守るために
   ―知らされなかった内部被曝の真相―

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

3.11福島第一原発の事故からずっと、私たちの生活環境は放射能に汚染され
続けています。関西でも、市民による日常的な計測の必要性が話題に上って
きています。とくに感受性の強いこどもたちの未来を守るために、今、わたし
たちは何をしなければならないのでしょうか。

食べもの・飲み水の放射能汚染に、「安全なレベル」はあるの?家庭で気を
つけられることは?こどもたちのためにできることは?低線量被曝・内部被曝
の危険性について、信頼できる見解と正確な情報が求められています。矢ケ崎
克馬先生のお話を聞いて、一緒に考えてみませんか。

■日時:2011年11月19日(土)午後1:00~3:20(12:30開場)

■会場:京都市東山いきいき市民活動センター
3階多目的ホール(こどもスペースあり)

京都市東山区花見小路通古門前上る東入る南側
京阪電車「三条」駅、地下鉄東西線「東山」駅、「三条京阪」駅より徒歩5分
京都市バス 5,12,46,100,201,202系統 ・・・ 東山三条
5,10,11,12,59系統 ・・・ 三条京阪前

【アクセスマップ】
http://bit.ly/iLr6IZ
  
■講師:矢ヶ崎 克馬さん(琉球大学名誉教授)

1943年、東京生まれ、長野県松本育ち。広島大学大学院理学研究科で物性物理学
を専攻。理学博士。2009年3月、琉球大学理学部教授を定年退職し名誉教授に。
2003年から国を相手取った原爆症認定集団訴訟で「内部被曝」について証言を行い、
連続19回勝訴の礎となる。3.11原発震災後は、放射能汚染=被曝の深刻さを訴え、
全国で熱い講演を続けている。

■ディスカッション:矢ヶ崎さんと、子どもたちを被曝から守るために行動して
いる、福島から避難中・京都(ほっこり通信)・滋賀(原発のない明るい未来を
みんなでつくるネットワーク・あすのわ)の3名の女性たち。

【関連サイト】
京都のお母さんから~福島のお母さんへ  ほっこり通信
http://ameblo.jp/ima29/entry-10965014972.html
原発のない明るい未来をみんなでつくるネットワーク・あすのわ 
http://asunowa.shiga-saku.net/e617610.html

守田敏也さん(フリーライター)がディスカッションをコーディネートします。

1959年生まれ。京都市在住。同志社大学社会的共通資本研センター客員フェロー
などを経て、現在フリーライターとして取材活動を続けながら、社会的共通資本に
関する研究を進めている。原子力政策についても独自の研究を続けている。
震災後のデータ収集と鋭い分析力により、震災後、精力的に講演活動を行い、
多忙な毎日を送っている。

◎守田敏也さんのブログ「明日に向かって」:http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011

■参加協力券:500円
※開催資金の確保のために、参加協力券(前売りチケット)を販売します。
購入ご希望の方は下記問合せ先までご連絡ください。
※チケットがなくても、当日参加費500円で参加いただけます。

■スタッフ、協賛団体など、協力して下さる方を募集中です。
若いママ・パパ、学生さん、一緒にどうですか(会場に「こどもスペース」あり)♪   

■主催:「いまこそ原発を問う連続講座」実行委員会
http://d.hatena.ne.jp/genpatsu-iyayo/

■協賛:原発のない明るい未来をみんなでつくるネットワーク・あすのわ 
http://asunowa.shiga-saku.net/e617610.html

■問合せ・連絡先: 090-2199-5208(大須賀)

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明日に向けて(282)すべては一人の歩みから(えりあさんの初パレードの感想)

2011年10月04日 16時00分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)
守田です。(20111004 16:00)

ブログのコメントを通じて知り合った、「えりあ」さんのブログ「えりあ城」に
彼女が初めて脱原発集会&パレードに赴いた感想が載っていて、読んでいて、
なんだかとてもいいなと思い、転載させていただくことにしました。彼女のブロ
グには、たくさんの写真も載っていて、もっと雰囲気が伝わってきますが、あえ
てここでは文字だけで読んで、彼女の体験を追体験していただけるといいなと
思います。

僕が初めてデモにいったのは、もう30年以上も前のこと。でもそのときの様子は
今でもよく覚えています。なにせ見るもの、聞くものすべて珍しかった。それに
歩いていて、何とも言えない解放感があった。今でもきっと同じなんだろうなと
思います。

311から今日まで、もう何回ものデモ・ウォーク・パレードがありましたが、その
たびに、初めて参加したという方と会いました。そのたびに僕は、原発事故という
重い、息苦しい、深刻な事故の中にありながらも、確実に新しい可能性が生まれつ
つあるなあと感じてきました。そうです。すべては私たち一人、一人の、小さな歩み
から始まっていくのです。それが大きくなって、世の中の向かうところが変わって
いく。そう思います。

その意味で、えりあさんの初めてのパレード体験を、これまで何度も歩いてきた人、
最近、初めて歩いた人、次にデビューしようとしている人、そしてまだ迷って
いる人、歩くのはちょっとと思っている人、などなど、みなさんでシェアしたいなと
思います。

以下、どうぞお読みください。

******************************

6万人の脱原発集会&パレードに参加したよ。
http://ladyeria.seesaa.net/article/226874190.html

デモって今まで参加したことないから、どうなんだろ?って思ってた。
原発は反対って、福島の事故をみて、強烈に思って、毎日情報集めて、
本読んで、ブログやツイッターでは最近その事ばかりの私でしたが、
デモはちょっと苦手と思ってたんだ。
まず、集団が苦手だし、デモの様子とかをみると、反原発っていっても
いろんな考えの人がいるし、逮捕されたらやだし・・・とか。

でも、ネイティブアメリカンの人がデモをする意味って
歩くことは祈りで、瞑想で、学びだって、知って
そうだよな、と腑におちた。
歩く事も走ることも、踊ることも歌うことも、一緒だよなって。

周りがどうでも、自分は自分の表現として歩けばいいよな、
だいたい、原発村が巨大なんだから、大勢でのアピール大事だよな、
とやる気になる・・・。

で、行きましたよ。


当日になって、最近知り合いになったギタリストの友人に一緒にいこーって。
彼のブログ、原発関連多いです。いろいろデモに行ったり、署名活動も
されてるようで、彼の言葉で語られる言葉は共感もてます。デモの様子も
UPされてるのでみてね!

安部玲さんのブログ⇒http://ameblo.jp/aberei/


千駄ヶ谷の駅に着いた。めちゃすごい人・・・。でも、なんか嬉しい。
ただの人ごみではなく、同志だからだ。
改札を出ると、沢山ののぼりが・・・あがるわ。


で、ほどなくして、友人と落ち合い、集会場へと向かったのですが、人が
溢れていて、あまりの暑さに皆でちょっと苦しくなってきて、ひとまず休憩。
あとから、you tube で演説は聞きました。(笑)
熱気と歓声は聞こえたけど、演説ほとんど聞こえなかった~

演説皆さん、素晴らしいね~きいてね。
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1231

またお友達登場。お手製、脱原発ユタンポ。(ウォッシュボード?)


初めて会った人ばかりだけど、みんなユニークできさくな人達!
出会えてうれしーわー


パレードがはじまったよ。先頭は福島から着た人達や、東京に避難してる福島
出身の方々。
白いのぼりが光ってました。

その後ろに我々続く・・・
「福島を返せ~」
「日常を返せ~」
「福島の子供に笑顔を~」
「自主避難にも補償を~」等のコールが。


小さな子もがんばってたよ。


「原発はんたーい」
「海・川・山を守ろう」
「子供たちを守ろう」

声にしながら、練り歩いたよ。3~4キロかな。
途中、歩道や横断歩道の上からも応援してくれる人もいたり。
拍手や声援が暖かい。


私はこの、ドイツの脱原発パレードに使われていた旗を振っていたんだ。
海外メディアに特にアピールしたら、手を振ってくれてたよ。

デモに参加して、よかった。
デモ常連さんから聞くと、かなり平和なデモだったみたい。
逮捕者も聞いてないし・・・。
デモは祈りだ、その意味が分かったよ。
皆で練り歩くこと、口に出すこと、表現すること、
人と繋がること、
歴史のうねりを感じる事。

普段なかなか大声では言えない
原発反対~っていうのはすっきりするね。
(まだまだ、無関心なひとが多いよね・・・・)

原発のない社会を望みます。
一つの事故で、どれだけの人が故郷を奪われ、
どれだけの自然が汚れただろう。
そして、それは今後も続くんだ・・・。
こんな愚かな事は終わりにしよう。

声をあげよう。
普通の市民が声をあげていかないと、国は変わらないんだ。

今回は6万人の人が行動した。
もっと多くの人が、きっと全国から意思を共にした。
広げていこう。

さよなら原発1000万人署名 まだの方は署名してね。
http://sayonara-nukes.org/shomei/

私の母も、署名活動頑張っていて、大江健三郎さんのファンでもあるから、
デモ行ってきたよ!ってメールしたら

「凄い人が集まったのね。広がるといいわね。
明日は山梨にぶどう狩りに行ってきます。 来月は栗狩りで小布施に行きます」

だって~(笑) 果物狩りに今は夢中のようです・・・。


*************************

追伸:
ツイッターで私がつぶやいたこと

「原発反対とか、子供を守ろうとか、皆で声をあげ、練りあるきながら、
祈ってました。この要求って、人として、スゴイ当たり前のことだよなぁ。
渋谷の街でポカンとデモ行進をみてた若者達・・・彼等にも気付いてほしい」

に対してコメントを頂きました。

「一緒にどう?」って誘えたらすごいです。参加したくても無理な私の分まで
がんばって!

と。お身体の具合が悪いようで、デモなどは無理みたいです。


いろいろ考えました。
人って自分がこう、と納得しない限り、動かないと思う。
(私がそうだから・・・)
だから、私は発信してるけど、判断するのは各人だから、
それ以上の何かを求めすぎないように、基本的にしてるんだけど、
このようなコメントを頂いたことで、行動できる人は、
今以上に進化して行動すればいいのかな、と思った。

そんな事を気付かせて頂きありがとうございました!!

皆さんお疲れ様でした!!

まだまだがんばりましょ!!!


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