明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1045) チェルノブイリから学ぶこと(馬場朝子さん講演会より)下

2015年02月25日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150225 08:00)

馬場朝子さんの講演のノートテークの続きです。

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チェルノブイリから学ぶこと(馬場朝子さん講演会より)下 
2015年2月24日 向日市まこと幼稚園礼拝堂にて 
主催:ミンナソラノシタ 後援:まこと幼稚園

生活面でどんなことがあったのかも取材しました。コロステンの人々が事故について知ったのは4月の末だったそうです。すぐに男たちがチェルノブイリに動員されていきました。それで何か大きいことが起こったと気がついたのだそうです。
5月1日にはメーデーがありました。旧ソ連社会では最大の祝日で、毎年みんなで大きなパレードを行っていました。
当時、ウクライナのトップの人々は事故のこと、汚染のことを知っていました。しかしメーデーを中止しませんでした。最も重要なメーデーを中止すると、一気に事故のことが世界中に知られてしまうからでした。このメーデーでのパレードで多くの人々が多量のヨウ素に被曝してしまいまいた。

5月中旬になってヨードを摂れ、ミルクを飲むな、自家菜園もののを食べるななどの指示が出されました。
5月20日になって子どもたちを町から遠く離れた地域に避難させることが発表されました。8月の末まででした。その頃のコロステンの空間線量は1時間あたり10μシーベルトでした。
当時のソビエト政府は放射線管理の基準線量を事故直後の1986年には年間100ミリシーベルトにおいており、それ以下は安全とされていました。87年は30ミリ、88年25ミリと下げられていき、それ以降は年間5ミリとされました。ソビエト全土の基準値でした。ちなみにご存知のように、今、福島では年間20ミリシーベルトが採用されています。

汚染地図はいっさい公表されませんでした。このため住民たちは汚染の実態をを把握できませんでした。
86年に前年にソ連共産党書記長となったゴルバチョフのもとでペレストロイカという改革がはじまりましたが、チェルノブイリ原発事故後にグラスノスチ=情報公開が行われだし、89年にはじめて汚染地図が公開されました。
このときコロステンの人たちは自分たちの町が汚染地帯にあることを知りびっくりしたのでした。

これ以降、大きな市民運動が全土でおこり大きな集会が催されました。原発作業員たちが中心になって起ちあがり、運動の核となりました。これに一般市民、被災地市民が合流し、とても大きな運動に発展しました。
1990年になってウクライナ政府が住民の保護の必要性を感じ、チェルノブイリ委員会を立ち上げました。12人の委員で構成されていました。
ここで問題になったのは被災者とは誰で、被災地とはどこかということでした。

上述のように、被曝限度値を年間5ミリシーベルトとするのが当時の基準でいした。しかし1985年にICRPから、被曝限度を年間1ミリシーベルトにすべきだという見解が出ていました。これを採るか5ミリを採るかで討論になりました。
議事録をみると、科学者はどちらの立場も、自分たちの基準を安全だと言っていました。5ミリという基準を唱えていたのはレオニード・イリイン博士でした。現在90歳の方で、ソ連放射線学のドンでした。(元ソ連医科学アカデミー副総裁)彼は5ミリでも厳しすぎると思っていたと語りました。
これらの論議を聞いて、ウクライナの政治家たちは科学的に結論がでないことを知り、政治的に判断することにしました。最大限住民を保護しようということで1ミリを採用しました。年間1ミリシーベルト以上の被曝でリスクがあると認めたのでした。

これに基づいて、被災地を4つのゾーンにわけました。年間の被曝線量が5ミリシーベルト以上のところは強制移住地域。1ミリから5ミリのところは移住権を与えられる地域となりました。
この被曝線量は、人々に即しては初期に測られていないために分からなかったので、土壌汚染が参考にされました。

この場合、移住権のある地域に残った人たち、リスクがある土地に住む人々への補償が必要とされました。
まず生活保障として次の措置がとられました。
毎月の補償金として給料が1割うわのせ。年金を早期に受け取れる。電気やガスなど公共料金の割引。公共交通機関の無料券配布。

健康を守る措置としては次の措置がとられました。
医療品の無料化。毎年無料検診を受けられる。非汚染食料の配給。有給休暇の追加。サナトリウムへの旅行券の支給。大学への優先入学。学校給食の無料化。
移住先での雇用と住宅提供もなされ、引っ越し費用や喪失財産も補償されました。

コロステンでは人口6万人のうち、5万8千人が被災者と認められました。
しかしその後にソ連が崩壊し、ロシアがソ連の責任を引き継がないと宣言したために、補償の予算がストップし、ウクライナは独自で補償を行わなければならなくなりました。
それでも当初は決められた補償額の半分以上は行っていました。しかし経済的危機に見舞われるなどする中で、現在の法律の実施率は14%にとどまっています。それでも国家予算の5%が費やされています。

法律で決まっていることが実行されていないことに対して、抗議の集会や実行を求める裁判も多く行われています。補償を求めた裁判を行えば、ほとんどは勝訴します。しかしそれでもなかなか実行されない。行政の側もは無い袖はふれない状況なのです。
この上に、昨年からは内戦状態になってしまいました。この中で補償はどうなっているのかというと、昨年、私が取材した時までは払われていました。戦争をやっているけれども払うと。
しかし国家が東西に分断してしまい、東側には振り込みができるシステムがないため、補償は東側には届いていません。無料のサナトリウム旅行券も行く先の多くがクリミアの施設だったのですが、ロシアに編入されてしまったために行けなくなってしまいました。

この補償がこの先見直されることはあるかのかというと、憲法違反になるのでその点は見直されないでしょう。憲法16条に次のようにうたわれているのです。
「ウクライナの環境を保全し未曽有の災害であるチェルノブイリ事故への対策に取り組むこと、ウクライナ民族の子孫を守ること、これらは国家のぎむっである」
このため憲法を変えないと、1991年にできた「チェルノブイリ法」をなくせないのです。

その点で法律はとても大事です。効力が長く続き、次の世代を守ることになるからです。もちろん住民の側に今も不満はあります。実際に補償されているものが少なすぎるからです。しかし法律があるからこそ要求できると住民たちは語っています。
認識しておくべきことは原発事故の補償は一世代では終わらないということです。何十年も続きます。一企業でまかなうのは絶対に無理です。国がやらざるを得ません。ウクライナは国家予算の多くの部分を費やし続けています。
これを考えると原発は安価などではまったくありません。一番高くつくものなのです。

今後のウクライナを考えるときに、大変心配なことは、ウクライナが国家破綻の瀬戸際にあって、IMFから融資を受けざるを得ない状態にあることです。IMF
はすでに融資の条件として社会保障をカットせよと要求してきています。
何十年も守られてきたチェルノブイリ法がIMFによって削られてしまう可能性があります。

放射能の被害は医学面でも分からないことがたくさんあります。その中で人々が不安の中にいるからこそ補償していかなくてはなりません。
それを考えると原子力は人間がまだまだ使いこなせないものであることが明らかだと思います。「科学」と言うと、なんだか規制などに適用できるはっきりとした数字があるかのように思えますがそうではないのです。
明確な基準が無い中で福島の人々は今、自分で判断しなくてはならない立場に置かれています。このようにそもそも判断できないことをさせることが原発の大きな罪であると思います。

明日は我が身です。今や私たちにはここは安全だというところがありません。福島原発事故の時にしたって、風向きが変わっていたら東京の汚染はもっとひどかったでしょう。だからすべての人が原発問題を自分のこととして考えることが求められると思います。
ウクライナは核兵器は放棄しました。原発もいったんやめたのですが、その後の経済的混乱の中で電力不足に陥って危機を迎えてしまいました。
そのため今は50%の電力を原発に依存しています。ベラルーシでも2011年に国内第一号の原発を建設する予定が発表されました。

私自身は今、ロシアに1年の半分、住んでいます。ロシアは大輸出国です。原子力ロビーの力も強い。そのため昨年などはチェルノブイリ原発事故の日である4月26日に何の報道すらされませんでした。
こうした巨大な力とたたかっていける道は、情報にしかないと思います。情報を寄せ集めて伝えていく。それしか圧倒的な力と立ち向かうことはできないと思うのです。

ノートテーク終わり

コメント
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