明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1336)李容洙ハルモニの思いに応えたい!(開設式に参加して4)

2016年12月15日 11時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20161215 11:30)

イヨンスハルモニのお話の続きです。

1992年に名乗りを上げて以降、被害女性の先頭で奮闘を続けてきたイヨンスハルモニ。そんなハルモニを私たちは2004年に京都にお招きしました。

その少し前に私たちは、ナヌムの家を訪れた僕の親友の娘さんが「この罪はいま謝らないと永遠に許してくれる人がいない罪になってしまう」と言った事をきっかけに、被害女性を招いた証言を行うグループを立ち上げていました。そのグループで最初にお呼びしようとなったのがイヨンスさんだったのでした。これまで僕が書いてきた彼女の被害体験も、その時語ってくれた証言録から抜粋してご紹介しています。

その際、重要なことがありました。ハルモニの歌った歌についてです。ハルモニには何箇所かで証言していただいたのですが、二度目の証言でハルモニがこの歌を歌われたとき、冒頭の「カンコウ」という音に僕があることをひらめいたのです。

実はハルモニも「カンコウ」の意味を分からずに音だけを覚えていたのですが、僕はこれは艦上攻撃の「艦攻」のことではないかとピンと来たのです。

旧日本軍の攻撃機には航空母艦などから発進する艦上攻撃機と陸地から出撃する陸上攻撃機がありました。それらはつづめて「艦攻」「陸攻」と呼称とされていました。さらに97式艦攻、96式艦攻など「カンコウ」の名がそのまま機体名になっていた艦上攻撃機もありました。

これはハルモニにとっても非常に大きなポイントでした。ハルモニたちには被害体験の正式な記録があるわけもなく、関係書類の多くも日本軍によって消滅されており、主に自分の記憶しか頼るものがない。その中で自分の発言の信憑性を裏付けなければならないという過酷な立場におかれて続けてきたのです。

その点で「カンコウ」を「艦攻」と解釈するといろいろなことが見えてくる。

それで僕は新竹基地からの特攻隊の出撃を調べてみました。するとここは旧日本海軍の基地で、約130人の兵士たちが特攻に飛び立ったことが分かりました。使われた機体を調べてみると、97式艦攻や96式艦上なども確かにある。この他に99式艦上爆撃機、零式戦闘機(ゼロ戦)、彗星艦上爆撃機、天山艦上攻撃機、銀河陸上爆撃機、さらに93式練習機などがありました。零戦は戦闘機なので本来は機銃しか積んでいないのですが、特攻用には重い爆弾をくくりつけて使われました。

ハルモニの話のなかで兵士は「二人で乗っていく」と語ったというのですが、そうなるその飛行機は96艦攻だったのかもしれない。あるいは99艦爆も2人乗りでした。

このことを調べていて何とも言えない悲しさがこみ上げました。例えば96艦攻は戦争末期ではまったく時代遅れの複葉機でした。いや当時の日本軍の最新鋭機ですら米軍機と比べると遥かに性能が劣っていて、空中戦になるとほとんど米戦闘機の餌食になっていました。

そんな戦闘に、特攻作戦の最末期には練習生が使っていたばかりの複葉機(93式練習機)に、そのまま爆弾をつけて出撃させた例すらありました。

しかもこれらの飛行機には零戦をのぞいて2人から3人の兵士たちが乗っていた。もともとこれら「攻撃機」や「爆撃機」は空中から艦船めがけて魚雷を落としたり爆弾を落としたりするもので、そのために落とす係が必要なために、複数が乗る必要があったのですが、特攻の時にそんな乗員は必要なかったはずなのです。にもかかわらずこれらの機は、必要のない人員を詰め込んで特攻させられてしまったのでした。

僕はこのとき調べた事をハルモニに告げましたが、ハルモニを助けてくれた兵士が乗ったかもしれない飛行機が、当時からみてもまったく時代遅れのものであったことなどは話しませんでした。いや話せなかったのです。日本軍の愚かさで、ハルモニをさらに悲しませたくはなかったからです。

ハルモニは京都の証言集会でこの兵士とのふれ合いについてこう述べました。

「みなさん。日本人の中にはこのような人もいらっしゃいました。彼は私に対して『同じように私たちは被害者だ』ともいいました。『あまりにも愛している』とも言いました。韓国で私がこのような話をすると、嫌がる人もいると思います。しかし私は、いい人はいい人だ、愛すべき人は愛すべき人だと言わなければならないと思います。」

そのイヨンスハルモニと、私たちはその後にとても仲良くなって、京都の観光にもお招きしました。このときは僕と連れ合いが二人で住んでいる狭い我が家に、ハルモニに一週間近く泊まっていただきました。

そのとき僕は『ホタル帰る』という本をハルモニに紹介しました。九州の知覧特攻基地の兵士たちと、そのそばにあって、兵士たちの憩いの場となっていた富屋食堂のおかみさんの触れ合いを語った本です。映画『ホタル』の原作でもあります。

ある日、出撃を前夜に控えた宮川という兵士が「おばちゃん、俺は死んだらホタルになってここに帰ってくるよ」というのです。そしてその兵士が特攻で散った夜、実際に食堂にホタルが舞い込んできたのでした。

これは実話です。これをベースにした映画『ホタル』は、出撃前夜にアリランを歌った実在の朝鮮民族の兵士のことをクローズアップしつつさらに創作を加えているのですが、戦争の悲劇や、日本が朝鮮を植民地化し、戦争にも朝鮮の若者を動員していたこととどう向かい合うべきかなどを的確に描いており、多くの人に観ていただきたい作品です。「かの石原裕次郎氏が激怒した作品」と紹介した方が、観てみようという気持ち強めていただけるかもですね。

その原作である『ホタル帰る』の中に、食堂に集っていた実際の兵士たちの写真が載っているのです。航空帽をかぶって腕組みしている姿などが何枚かあるのですが、みんな泣きたくなるぐらいにイケメンなのです。

僕はそれをハルモニに見せてあげたかった。するとハルモニはとても興奮し、食い入るように何枚かの写真を見て「そうそう。こんな顔して、こんな風に帽子をかぶっていた」と何度も語ってくれました。 

その夜、ハルモニの枕元に、あのときハルモニを助けてくれた兵士が立ったのだそうです。ハルモニは彼を見て一晩中泣き続けたそうです。

翌日、目を真っ赤にはらして彼のことを語るハルモニの姿を見て、僕の心の中にもハラハラと涙が流れました。「この写真を見せたのはよくなかったのだろうか」という動揺もよぎりました。でも自分がいた基地のことを、執念をもって調べ続け、台湾の新竹にも何度か訪れたハルモニに何らかの手助けをしたかったのです。

そんなことがあったので、ハルモニは僕たちのことをとてもよく記憶してくださいました。そして今回、台北の式典でお会いするとそれはもうすごく喜んでくださった。それだけでなく、周りにいた人たちにあの歌を披露しだしました。そして言うのです。「日本人がすべて酷い人だったというのは間違いです。いい人もいました。そのことも伝えていかなくてはいけないのです」と。

16歳のとき、ハルモニは300人の日本海軍の兵士たちと同じ船に乗せられ、何度もレイプされました。台湾に渡ってからも酷い暴力を受け、電気拷問を受けて瀕死の状態にすらなりました。そんなハルモニをかばってくれたのは共に被害を受けていた女性とともに、たった1人の21歳の特攻を前にした若者でした。

それでもハルモニはこのように語り続けてくれています。 

ハルモニに深い感謝を捧げるとともに、ハルモニの思いとすべての努力に全身で応え続けたいです。

続く


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