明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1668)愛する京都を守るために(冨樫ゆたかさんインタビューその3)

2019年03月28日 23時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190328 23:00)

京都市政にチャレンジする日本共産党前京都市議(左京区)の冨樫ゆたかさんのインタビューの3回目、完結編をお届けします。今回は富樫さん、苦しかった時のことやお父さんへの思いを率直に語って下さいました・・・。

● 落選したときは起ちあがれなかった・・・

守田
前回(2015年)の選挙で11票差で落ちたときのことを聴かせてください。

冨樫
もうねえ、起ちあがれなくなりましたよ!あの結果がでたときは。なんかもうとにかく「申し訳ない」という気持ちでいっぱいですね。「あのとき自分がこうしたら」と繰り返し思うのですよ。
身体にもだいぶんこたえました。一気に弱くなって。強烈な病気にはならなかったけれど、体力がガクッと落ちました。落ち込みましたね。鬱にはならなかったけれど。
そのあと、どこに行っても誰にあっても、みなさんが「自分が悪かった」って言いはんのやわ。僕を応援した人、みんながトラウマになって。ああいう票差で負けると。 その前は58票差で勝ったのですけれどそうなると「あの一票はわしのがんばりでとれたんや」となるのですけどね。一票差で勝つか負けるか、大きな違いがあって。

そのあとに僕はいろんな選挙の立会人をしましたけど、そこで思ったのは、当たり前のことですが、有権者の一票一票は、どの党に入れたものであってもすごく大事な一票やということでした。 投票に対する見方が変わりましたね。どの一票も、結果としてその候補者が公約を守るかどうかは別問題ですけれども、すごく考えて投じられた票だと思うのです。それが見えるようになりました。

守田
でも負けてからどれぐらいで回復したの?

冨樫
二年ちょっとかかったんとちゃいますかね。

守田
二年ちょっともかかったの?辛かったねえ。

冨樫
そんな中で住民の人と一緒に活動して、その活動がある意味、自分を立て直してくれたのだと思います。こんな自分でも役に立てるんやな。議席は無くなったけれども経験が凄く役に立つなとか思いました。

守田
その経験が本当に生きるといいよねえ。

 


  糺の森を守るためパリのユネスコ本部まで共にいった仲間の中津めぐみさんと(冨樫さんFacebookより)

● 父への思いを胸に

守田
それにしてもこういう話はみなさん、知っているのですか?というのは話していて、お父さんが亡くなる一週間前のこと。自分でも一番、ぐっと来てましたよね。なんかそれ、もう癒されてもいいんとちゃうの。

冨樫
それはやっぱり、一生、つきまとうのではないかと思います。最初に立候補したときに「それをもっと話そう」とも言われたのですけれども、あんまり言っていると自分の心が持たなくなってね。心が削られていくのですよ。言うたびに。
それでもこの間、このことを話しているのは、他の人が「こういうひどい状態にある」というときに、それに共感する形では出すようにしているのです。それなら言えるのです。でもあのときのことだけを語ることにはしんどいものがあって。
それを考えたら、同じような場に立った家族で泣き寝入りした人が絶対に多いと思うのですよ。家族として労災申請をするなんてよほど勇気のある人ですわ。よほど愛情がある・・・と言うたら自分が愛情がなかったことになってしまうけれども。

守田
過労自殺が起こってしまった場合など、周りの人はみんな「自分のせいで死んでしまった」と思うよね。

冨樫
「一番身近な家族が、あのときにがんばれと言わなければ」と今も思うのですね。だから子どもとかが気軽に「死にたい」とか言ったらドキッとしますものね。 そもそも今の世の中、けっこう自殺が多いですよね。異常ですよね。人を追い詰める社会ですよ。だからかなり身近なところで自殺を経験する人が多いです。

守田
年間3万人。その周りに親しい人が10人いたとして30万人だものねえ。

冨樫
しかも毎年ですよ。

守田
実はさっきお父さんのことを聴いたときに、僕もちらっと「それを言えば」と言おうとも思ったのだけれど、でもそれは過酷やなあと思って。

冨樫
厳しいものがありますよね。でも逆に言うたらそれで励まされる人もいるかもしれませんよね。

守田
だからそんな風に言ったらいいんちゃう?自分のウリみたいな形で言ったらそれは自分が削られてしまうだろうけど。同じような罪の意識を持っている人がたくさんいるのではないかな。「そういうあなたはもう癒されて良い」と伝えてあげたいと思うな。

冨樫
本当にそんな風に思っている人はたくさんいるでしょうね。

守田
それってサバイバーズギルトとも言うのですよ。福知山線事故のときに、奇跡的に生き残った人がそれを罪に感じてしまうことが起こった。僕もそういう人を取材したけれど「奇跡的に生き残って良かった」と言われるのが一番辛いと言っていました。 それは実は普通に思うことで、だからそういうときはカウンセリングしなくちゃいけないのですよ。その辺が日本はすごく遅れていて。

冨樫
なるほどね。

● 寛容であたたかい社会を作りたい!

守田
福知山線事故の時に、ある工場がそばにあって、その人たちがたくさんの工具と氷を持ってきたのだよね。 一両目が駐車場に飛び込んでしまってガソリンが飛び散っていたから、電動工具を使えない状況だったのだけれど、その人たちが手工具で人々を助けたわけ。挟まった人の患部を氷で冷やしたりしながら。
だからその人たちはすごい英雄なのだけれども、多くの人がその後に鬱になってしまったそうなのです。「自分がもう少し頑張ったらあと一人助けられたのに」って。 そう思うのはある種の人間の美しさでもある。だからそういうことがあったら必ず大量のカウンセラーを派遣して癒さなくてはいけないのですよ。でも日本はそれがめっちゃ遅れていて。

フィンランドのバルト海でフェリーボートが沈んだことがあって、なんでも後ろのハッチがあいてしまって水が入ったとかで、僕は最初にニュースを聞いたときには「なんて技術力の低い国なんだ。安全性が確保できてないじゃないか」と思ったのね。 そうしたらボランディアが続々と集まってくる。「何をするんだろう。ボランティアでは海は潜れないだろうし」と思っていたら、なんとそれは「悲しみを共にするボランティア」なのですよ。
何百人かの人が死んでその家族が続々と集まってくる。そこに分け入って肩を抱いて一緒に泣いたりしているのですよ。

冨樫
(顔を覆って泣き出す・・・) ・・・そうですね。いやいや。

守田
冨樫さん、癒されてくださいよ。そんなんお父さん、罪なんて思ってへんて。それにその思いを生かして人を救おうと頑張ってるんやから、お父さん、絶対に誇りに思ってくれてるって。

冨樫
いやいや。想像できるだけになんとも。喜んでいると思いますけどね。

守田
絶対にそうだよ。絶対にそう。 ・・・そのボランティアの若い人がインタビューされていてね、「こんなに辛いボランティアはないんです。だってこれは辛い思いをしにいくボランティアですから」って言うのだね。すごいなあと思って。

冨樫
そうですねえ。そういうことを経験する人が多ければ多いほど、社会全体が寛容になっていきますよね。だから近くでちっちゃいことがあっても「あのときはこうやったな」って考えを巡らすことができますよね。

守田
本当にそうだよね・・・。

さてそろそろ時間ですね。 今日はありがとうございました。本当にいい話がたくさん聞けました。多くの人に伝えたいです。ぜひこれからも頑張ってください。というか一緒に頑張りましょうね!

冨樫
ありがとうございました。 頑張ります!


冨樫さんを再び議会に送らないわけにはいかない!いろいろな人士が街頭で応援演説(冨樫さんFacebookより)

終わり

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明日に向けて(1667)愛する京都を守るために(冨樫ゆたかさんインタビューその2)

2019年03月28日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190328 08:00)

京都市政にチャレンジする日本共産党前京都市議(左京区)の冨樫ゆたかさんのインタビューの2回目をお届けします。

● 市会議員には京都を守りたくて自分から手を上げた!

守田
それで市会議員になったのはどんなきっかけからだったのですか?

冨樫
僕は大学を出て共産党の左京地区委員会に就職したのです。父が亡くなったのはその年の11月24日でした。 その後、10年間、共産党の左京区地区委員会にいました。いったん家を出たのですが、父が亡くなったので自宅に戻って北区から通っていました。市会議員には2007年になりました。

守田
10年経って「市議にならないか」と誘いを受けたわけ?

冨樫
いや、僕は選ぶ側やったんです。地区委員会の常任委員会で候補を選考する作業をするのですけれどもそこにいて。それで「このままでは自分が出なあかんのちゃうか」という雰囲気になりました。 ちょうど結婚して左京区に引越したのですが、地区委員長から「ちゃんと考えて住む場所を決めなあかんで」とかも言われて。 それで前任者の山本正志さんが体調のこともあり引退の意思が非常に硬く、「誰が立候補すんねん!」とかいう雰囲気が強まって「ほんなら出よう」と思いました。 沖縄の翁長さんが生前に「イデオロギーよりもアイデンティティ」と言ってはったことがありましたが、まさに当時の僕も、その京都の人間としてのアイデンティティが立候補する動機としてすごく大きかったですね。 当然、共産党員として過労死のないような、労働時間の短い、楽しい社会を作りたいという気持ちはありました。でも僕には「京都市の市会議員やから決意した」というところもあります。

守田
京都市だから?

冨樫
京都に対する思い入れが強かったからなのですよ。僕が高校生の時はちょうど京都市の中心部にのっぽビルが次々と建っていく時代だったのです。「これはもうダメちゃうか?京都は」と思たんです。 京都のいいところにどんどんビルが建って、町家がどんどんつぶされていった。新聞にもそのことが書かれていて刺激を受けました。 マンションが増えて、全体的に住宅の高さもあがって、うちの家から舟形が見えてたのに見えにくくなくなったんですよ。京都の人にとって「うちの家から(送り火の)何々が見える」というのがプライドなのですよ。 そのプライドが壊されていき、京都の中心部から大文字も見えない雰囲気になっていって、危機感が強まりました。「これ以上はもうあかんでしょう」とすごく思っていたのです。

一方で大学に入って地方から来た人と接して京都愛が深まった面があります。例えば京都の外から来た人って「地蔵盆」があることにびっくりしはるじゃないですか。それがだんだん自分の中でプライドになっていく。 大学で「京都って地蔵盆ってあるらしいね」とか言われると「あるよ~」とちょっと誇らしく思うようになったのです。子どものころはあることが当たり前やったんやけど。 それで「京都には大事なもんがあるんや」との思いが募るだけ、それが壊されていることに痛みを感じたのです。

それだけじゃなくて議員としてやっていくうちに「京都会館問題」が起きたのですよ。(守田注 1960年に作られた文化的価値の高い京都会館が解体・改築され、同時に私企業のロームに名前が売られてロームシアター京都に変えられてしまった問題)。 それでいろいろな建築家の人たちの話を聞いているうちに、もっと京都そのものが好きになっていったのです。 それまでも町家が潰されてのっぽビルになっていくのは嫌でしたけれど「町家はそんなに建築的な意義があるんや」と建築家の方たちに教えてもらえたのです。それでだんだん自分も町家に住みたくなりました。

京都会館は前川國男さんと言う方が設計されたのですが、最初は「フライタワー」というニョキッと煙突のようはものが出ている構造を描いてはったのだけれど「京都の木造建築の町にはこれはあわへん」ということになって削ってしまった。 しかも南禅寺を思わせる屋根にせなあかんということで六角形になった。そういう前川さんの考え方を、学者の方たちに教えてもらえました。それで京都の木造建築の意義の深さも理解できて、ますます京都への思いが強くなっていったのです。 しかもこの運動に関わってくる人もみんな京都好きなのです。京都の価値が壊されることに敏感に反応する人たちが集まってきてはった。 それではじめは賃貸マンションにずっといればいいと思っていたのですが、子どもができて手狭になったこともあって町家に住んでみようかなと思いたちました。 一生懸命に探したら一軒だけあったのです。ボロボロやったのですけれど、それ以降町家暮らしです!

 


「左京みんなのデモ」に参加する冨樫さん。参加は毎回(冨樫さんFacebookより)

● 運動をすればするほど京都が好きになっていく

守田
冨樫さんは下鴨神社の糺の森を守る運動や、南禅寺のそばの無鄰菴の周りの景観を守る運動にも関わってきていますが、そこには京都愛という個人的な動機も強くあったわけですね。

冨樫
そこに関わるにはやっぱり愛情がないと!だからこそすごく共感するのですよ、地元の方たちが大切なものが壊されようとしていることに怒らはることに。 僕はもともとは文化とは縁のない人間やったんですよ。大学も経済学部でお金の力で世の中をよくしようと思っていたぐらいで。でも京都が壊されていくことへの危機感はありました。 そやから「市会議員に」と言われたときに、自分の中ですっと入ってくるものがあったのです。それでやるからには、頼まれて出たのではなくて、やりたくて出たという思いで頑張りたいと思いました。だから自然な形で立候補にいたったかな。

守田
そしたら下鴨神社のこととか無鄰菴のこととか「まさにこれが自分のやるべきことだ」ということなのですね。 だから無鄰菴の周りの住民の方たちから「白馬の王子」だなんて言われるんだな。だって「一番、思いを分かってくれる人」ということでしょう?そこまで言ってもらえるのって(笑)

冨樫
「白馬の王子」は恥ずかしいですが、でもまさに守田さんが言う通りなのでしょうね。 どこの場も関われば関わるほど奥が深いし、それにまつわる見識を聴けるから、結果として知識も積み上がっていくし、いろんなことがつながって理解できるようになってきたのですよ。 下鴨神社へ関わった時も最初から直感的に「これだ!」という思いがあったけれども、その後にむちゃくちゃ勉強したわけです。 この運動ではフランスのユネスコ本部まで住民のみなさんと行って、糺の森を守ることを訴えたのですけれども、そのときは交渉する時間が1時間ぐらいしかない。通訳も入るから実質は半分以下になる。 それでもユネスコの歴史や考え方を調べ上げ、ユネスコに一番響く言葉を言わなあかんとすごく言葉を練ったのです。

そのときにたまたま下鴨神社のそばに住んでいる方が元銀行員で海外に駐在していたこともある方でした。その方が全部、フランスに行く手配をしてくれはって、ご自身のコネもつかってくれはって、ユネスコへの交渉まで素晴らしい準備ができたのです。 住民運動の面白いところの一つはそういうところです。地域の普通の集まりにすごい人が来てはったりしてなんか素晴らしいことができてしまって。

糺の森の問題でみんなで勉強して分かったのはここには森が先にあったことです。シャーマン信仰があってその後に下鴨神社ができた。これを解明してくれたのは住民の北畠さんでした。 それで下鴨神社に対する見方がひっくり返りました。実は近代化のプロセスで糺の森の所有権が下鴨神社のものになってしまって主客が逆転してしまったのです。 そんな風に糺の森を守る運動をしていたら、それが南禅寺の無鄰菴のことにつながったし、そう考えれば下鴨神社のこともその前の京都会館への関わりがあってつながってきているのです。

守田
すごい!


無鄰菴など南禅寺周辺の庭園群を守ることを呼びかけた冨樫さんの活動報告(20180821)

● 京都を守ろうとする人と京都で金儲けのため美味しい所だけ吸おうとしている人とのせめぎ合いが続いている

冨樫
結局、京都が好きで京都の町を守りたいという人と、京都で金儲けをして美味しい所だけ吸おうとしている人とのせめぎ合いが続いていて、その中に入っていくと、さらに京都のあちこちのことがどんどんつながって見えてくる。

守田
うーん。冨樫さん。これはもう真正保守やね!ほんまにこれは素晴らしい京都愛やね。

冨樫
住民運動をやっているとそういうことを本当に感じます。高野川に無駄に架けられようとしている「北泉橋」という問題があるのですが、ここでも地元の方が昔の都市計画図をひっぱってきていろいろと調べてくださいました。 面白いのです。そこから京都の歴史が見えてくる。京都の都市計画は実は生き物で、行政が決めたことでもいろいろな事情で動いてきていることが見えてくるのです。硬直したものではなくて住民の声で変えられるし変えてきたものなのです。 だからいま「なぜ無駄な北泉橋を通すんだ」と声をあげることにつながるわけです。住民運動は本当に奥が深いなあと思います。

守田
そういう意味では前回、ぎりぎりで落ちてしまったのはすごく残念だったけれども、この4年間はすごくプラスになったのですね。市会議員をやっていたらそこまでできなかったんちゃう?

冨樫
できなかったですね。また議員としての権限がないのでいろいろなところで悔しい思いをするのですけれどもだから違うことで頑張らないといけなくていろいろな力も身に着けることができました。 逆に議員の権限の強さも本当によく分かりました。実際に議員の権限を失って運動をやってみて痛感しましたね。それを考えたら議員はもっと力を発揮せなあかんし、実際にベテランの共産党の議員さんはちゃんとやってはると思います。

その意味でこの4年間は、有権者のみなさんから「もっとちゃんと勉強して来い」と言われた年月だったと思います。 厳しい言い方やけれど、ある意味で正しく有権者が僕に審判をくだした。「まだまだ力不足やから勉強して来い」という11票差やったのではないかと思っています。

守田
感動するなあ。

冨樫
それだけに今度は「ちゃんと勉強してきました」「その勉強してきた力を生かさせていただきたい」と思っています。

冨樫さん作成のキャラ弁!しばしばお子さんのお弁当を担当(冨樫さんFacebookより)

続く

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