明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(2433) 広島の被爆死の真実を捉え返すー3 2.5キロ圏外でも多数の内部被曝死が起こっていた!(再再掲 NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2024年08月06日 08時45分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)

守田です(20240806 08:45)

2.5キロ圏外の多数の内部被曝が明らかに

NHKスペシャル「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」の内容の紹介の3回目です。
今回、紹介されているのは「いまだ解明されずにきた問題」とされている内部被曝についてです。
ナレーションがこう説明しています。
 
「国は広島の原爆による放射線をめぐって、爆心地から2.5キロより遠方では、直接的な健康被害はほとんどないとしてきました。
しかし広島市の被爆者動態調査では、2.5キロより遠いところで被爆しながら急性原爆症で亡くなったとされた人が500人以上いたのです」
 
実はここで2.5キロとされているラインももともとは2キロとされていました。
戦後にアメリカ占領軍が作った原爆傷害調査委員会(ABCC)が「放射線傷害は爆心地から半径2キロ以内でしか確認されていない」と言い張ったからです。
この2キロラインは外部被ばくの線量が100ミリシーベルトだったと推定されるところで、実はこれが日本政府だけが主張している「100ミリシーベルト以下安全論」の根拠にもされています。
これが2.5キロまで拡大されたのは、少しでも被害認定を拡大しようと、多くの被爆者が血のにじむような努力を重ねる中で政府の見解をあらためさせたためです。
 
しかしこの「傷害」は外部被曝だけを原因としたものでしかありませんでした。内部被曝による被害は一切、調べられて来なかったのです。ところが今回の調査でこの2.5キロラインの外にいた少なくとも500名の方たちが、急性原爆症で次々と亡くなっていたことが明らかになりました。
しかも番組は二つのタイプの亡くなり方を調べ上げています。1つは2.5キロよりも外で被災しながら、避難の途中に爆心地を通り、放射性の塵を吸ったと思われる方。そしてもう一方はこの2.5キロ圏に一度も入らなかったのに、すぐに容態が悪化して亡くなっていった方です。後者の方が住まわれていた家には、放射性物質が大量に含まれていた「黒い雨」が降っていました。
 
これらのことは今までも肥田舜太郎さんや矢ケ崎克馬さんなど、さまざまな方から繰り返し指摘がなされながら、データ的な裏付けがされてこなかったことがらでした。NHKは今回、この2.5キロより外でも多くの方が急性症状によって亡くなっていたことを裏付け、これまでの「2.5キロより外では放射線傷害は起こっていない」としてきた政府の見解の誤りを明確に正しています。政府は即刻、自らのあやまちを認め、放射線傷害は2.5キロより外では起こってないとしている見解を撤回すべきです。
 
以下、文字起こしを紹介します。なお今回が番組紹介の最終回になるため、番組の制作者や出演者、協力者、協力団体などのクレジットも紹介します。番組の作成に携われたすべての方への感謝を捧げます。
 
*****
 
原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日 放送)-3 
 
ビッグデータが明らかにする原爆死。
データはいまだ解明されずにきた問題に光を与えようとしています。


 
投下から2週間が経ったころ、人々の死因には変化が現れます。
それまで最も多かったのは焼死や圧焼死、火傷などでした。
ところが8月21日、この日を境に急性原爆症が上回ります。
 
広島市は動態調査で、当時、下血や下痢などの症状で、1945年の年末までに亡くなったと記録された人を急性原爆症としました。
急性原爆症で亡くなったとされた人たちがどこで被爆したかをデータをもとに可視化しました。
すると爆心地から遠くはなれた場所で被爆したにもかかわらず、多くの人が亡くなっていたのです。
国は広島の原爆による放射線をめぐって、爆心地から2.5キロより遠方では、直接的な健康被害はほとんどないとしてきました。
しかし広島市の被爆者動態調査のデータでは、2.5キロより遠いところで被爆しながら、急性原爆症で亡くなったとされた人が500人以上いたのです。
とくに数が多かったのが旧南観音町(みなみかんおんまち)です。
ここでは44人が亡くなったとされていました。
 
この地域で何が起きていたのか
私たちはデータを手がかりに亡くなった人たちの遺族を捜して聞き取りを行ないました。
その結果、一人の遺族が取材に応じてくれました。
奥本和彦さん。74歳です。
 
「これが父ですね」
亡くなったのは父の正市さん。当時37歳でした。被爆したあと連絡がとれなくなりましたが、一週間後、無傷で帰宅したと言います。


 
奥本
「「元気じゃ元気じゃ」というふうなことで、家族が再会して絶頂期の喜びを感じて、「広島はああだったこうだった」という話をですね、村人の、この近所の方にも説明していたようですよ。「私は運がよかった。助かった」と」
 
「この辺りになるかと思います」
正市さんは被爆してからの自らの足取りを家族に話していました。
職場の南観音町で被爆した直後、避難の途中で爆心地近くのけが人の救助に手を貸していました。
その後、県北部、家族が疎開していた村に向かいました。
身体に異変が起きたのは、帰宅して一週間後のことでした。
 
「吐血が始まる。洗面器を持って来たらぶわーっと血が出る。触ると髪の毛が抜けるというのが繰り返し」
そして8月26日。治療に向かう大八車の上で正市さんは亡くなりました。
 
原因も分からず苦しむ正市さんを家族はなすすべもなく、看取るしかなかったといいます。
「なんで原爆で37歳で亡くなったのかなあという思いの方が強いですね。
もう70年経ってもまだ苦しんでいる。
「なにか私たちがしたか」それだけですね。悔しい」
 
爆心地から2.5キロより外にある南観音町で被爆してなくなった正市さん。
その体内で何がおきていたのか。
 
広島大学の名誉教授の星正治さんです。
放射線の人体への影響について研究を続けてきました。
正市さんの足取りをみて可能性を指摘したのは、爆心地で小さい埃の粒を吸い込んでおきる内部被曝です。
 
原爆の炸裂により建物の土壁などが一瞬で放射能をおび、その後、大量の粉塵が飛散したと考えられています。
原爆投下直後に爆心地に入った人々は、放射能を帯びた大量の埃を大量に吸い込んだ可能性があります。
国は原爆による内部被曝の線量は極めて小さいとしています。
しかし星さんはそう断言するには研究がまだ十分ではないと感じています。
 

「どうも怪しいというか何かあるとずっと思い続けてきたわけです。
それを証明しようとしてきたわけだけれど、証明がすごく難しいわけですね」


 
これは星さんが繰り返して来た実験の映像です。(カザフスタンにて)
放射能を帯びた粉じんをねずみに吸い込ませています。
これまでの実験結果によると、ネズミの体内では粉じんが付着した肺の細胞が破壊されたことが分かっています。
正市さんは原爆が炸裂した直後に爆心地近くに入ったことで死に至った可能性があるといいます。
内部被曝が人々の死に影響した可能性が、今回のデータ解析からあらためて浮かび上がったきたのです。
 
「いわゆる直爆の放射線はほとんどないわけですから、その人たちがおそらく放射線による影響を受けたような脱毛とか下痢とかの症状があるということは、今まで分からなかった放射線の影響がある可能性があると思っています。これは解明していかないといけないと思います」
 
さらにビッグデータからは爆心地に近づいていない人の中に、同じようなケースがあることがわかりました。
爆心地の西にある旧己斐(こい)町です。ここでは67人が急性原爆症で亡くなったと記録されていました。
山に囲まれたこの町で何が起きていたのか。私たちは亡くなった人のうち4人の遺族を捜しあてました。
取材の結果、その4人は爆心地に近づいていないにも関わらず4ヶ月以内に亡くなっていたことが分かりました。
 
遺族の一人 大塚叔子さんです(74歳)。
当時、76歳だった曾祖母のヒロさんと2歳だった従兄弟の啓一さんを亡くしました。
大塚さんが当時住んでいた家の平面図をもとに説明してくれました。
 
大塚
「ここです。ここで朝ご飯を食べていて、光を感じて倒れた」
 
曾祖母のヒロさんと従兄弟の啓一さんは、暫くして下血などの症状を発生したといいます。
「寝たきりで起きてはこれなかったみたいで、離れにいって食事を与えたりしてたけれども、受付はしなくて、水を飲ませるしかないみたいな感じでした」
家族は懸命に介抱しましたが、下血がひどくなり、2人は2ヶ月以内に亡くなりました。
「ただただ何が起こったか分からないという感じで、腸からどろどろとしたようなものが出て、亡くなってしまった」
 
なぜ2人は亡くなったのか。大塚さんはある写真を見せてくれました。
写っていたのは自宅の庭にあった灯籠です。上の部分がどす黒く見えます。その原因は原爆の後に降った放射性物質やすす等を含む黒い雨だと言います。

己斐町で何が起きていたのか。
 
原爆による放射線の影響について研究を続けて来た広島大学特任教授(大学院放射線物理学)の静間清さんです。
「ちょうど己斐の駅があってこう‥」
まず動態調査と取材の結果をみてもらいました。
 
静間
「確かに驚きますね。こういうデータを見ましたら。特に市内にも入っていないような方でしたら、考えられることとしてはフォールアウト、それが全てフォールアウトなのかどうかは分かりませんけれども、何らかの影響があったとすれば、フォールアウトかなというのはその意味では驚きです」
 
原爆でおきたフォールアウト。爆発直後、大気中に放出された放射性物質が拡散し、その一部が雨等とともに地表に落ちる現象です。
8月6日、原爆投下の2~30分後から己斐町には雨が降ったとされています。
これまでの研究でこの雨には放射性物質が含まれていたことが分かっています。


当時、己斐町で干されていた洗濯物です。静間さんはここから残留する放射性物質を測定しました。 
原爆由来のセシウム137が検出されました。
己斐町は三方を山に囲まれた特有の地形です。雨水が谷に沿って集まりやすくなっています。
静間さんは放射性物質を含む雨が、この地域で濃縮された可能性を指摘しています。

この地域について、国は「フォールアウトによる放射線量では、健康への影響は認められない」としています。
しかし静間さんは放射性物質を含んだ水を体内に取り込んだ場合、健康への影響は出る可能性があると言います。
 
静間
「人が浴びる外部線量、体の外から浴びる線量ですが、それだとすぐ死亡に結びつくようなそんな線量にはならないと思います。
それを何らかの形で体に取り込んだということがあれば、被曝線量は少し高くなるのではないかと思います。
死亡に結びついたかどうかは置いておきまして、影響が出た可能性はあると思います」

データ解析から見えてきたもの。
それは放射線の影響が少ないとされてきた地域に見過ごされた死がまだ残されてるという重い事実でした。

広島市役所原爆被害対策部調査課です。
原爆被害の実態を正確に伝えるため、大学と協力しながら今も動態調査を続けています。

広島大学原爆放射線医科学研究所 大谷敬子研究員
「被爆者個人個人を追いかけてたんじゃ分からないことが数を追いかけてくると見えてくる。
今私たちがこうしてやっているっていうのは未来のため、今後のために何か役に立てるんじゃないか」
 
被爆者55万人のビッグデータ、原爆被爆者動態調査。
そこから見えてきたのは、一人一人の命が無残に奪われていった死の現実でした。
原爆が投下された日、生きながら焼かれ命を奪われていった人々。
命を取り留めた人が、傷つきながらも生きようとした痕跡。
治療を求めた先で家族に会う希望すら奪われ、亡くなっていきました。
放射線の影響が及ばないとされた地域では、いまだ亡くなった理由が分からない死もありました。
被爆者55万人のデータは、核兵器がもたらすあまりにも残虐な死の実態を改めて突きつけています。


 
語り 新井浩文
取材協力 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
     広島大学原爆放射線医科学研究所
     広島女学院 水野潔子 野邊英子
     佐伯晴将 七條和子 田村克巳 村上秋義
 
資料提供 広島平和記念資料館 広島市公文書館 国土地理院
     松室一雄
     広島市市民局文化スポーツ部文化振興課
     Hoover Institution Archives
 
写真提供 尾糠政美 川原四儀 木村権一 中田左都男
 
撮影   森山慶貴
照明   堀口武士
音声   森嶋 隆
映像技術 佐山りか
 
映像デザイン 妻島 奨
CG制作   鈴木 聡
VFX     長谷川翼
音響効果 福井純子
編集   関口正俊
コーディネーター 野島理紗子
リサーチャー 坂本千晃
取材   阿部博史 長尾宗一郎
 
ディレクター 葛城 豪(葛の下は「ヒ」)片山厚志
制作統括 樋口俊一 高倉基也
     今井 徹
 
制作 著作 NHK広島
 
とても貴重な調査、取材、番組制作に関わってくださった全てのみなさんに心から感謝しつつ、 番組紹介を終わります。

#原爆死 #広島 #原爆死ヒロシマ72年目の真実 #黒い雨 #内部被曝 #フォールアウト #放射能 #放射性物質

*****

8月6日、9日午後7時より京都市三条大橋で原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジルを行います。LIVE配信も行います。リアルで、またバーチャルで、ご参加下さい。
詳しくはFacebookイベントページをご覧下さい。(画像をクリック↓↓↓)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(2432)広島の被爆死の真実を捉え返す―2 原爆は血管を破裂させ人々を悶絶死させた(再再掲 NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2024年08月06日 08時30分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)
守田です(20240806 08:30)

● 原爆は血管を破裂させ人々を悶絶死させた

前回に続いてNHKスペシャル「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」の内容の紹介を行ないます。
今回は原爆特有の火傷について報じているところを扱っています。とくに特徴的なのは爆心地から500mから1.5㎞の範囲で、即死は免れたもの3日後から一週間後にかけて多くの方が火傷で亡くなっていったことです。
番組はここを「死のドーナツ地帯とも呼べる地域」と名指しています。
 
ここで起こった火傷は、通常のそれと違っていました。原爆は強烈な光線によって血管内部で水蒸気を発生させ、血管を熱破裂させたからでした。
このため即死を免れた人々の血管の周りの組織が徐々に死滅していき、3日間のうちに悶絶死が訪れました。
さらにその3日間を生き延びても、火傷の傷口から細菌が入り込んで感染症が起こり、人々は激しい痛みと高熱のうちに一週間で亡くなっていきました。
ある小学校に作られた救護所では、亡くなった方のうち最も多かったのは14歳、15歳の少年少女でした。
 
この火傷の研究を行っている日本熱傷学会の元理事、原田輝一医師は、番組の中で以下のように語っています。
「あらゆる意味で害が大きい。ひょっとするとこの爆弾というのは軍事目的で使うものではなくて、一般市民を標的にして、一般市民を苦しめる効果のほうがはるかに大きいものじゃないかなというふうに感じますね。
そこまで長引く苦痛をもたらすという爆弾は、おそらく他にはないんじゃないかなと思いますね」
 
以下、文字起こしをご参照ください。
 
*****
 
原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日放送)-2 
 
ビッグデータを手がかりに追う原爆死の実態。
解析によって死のドーナツ地帯とも呼べる地域があることが分かってきました。
そこで被爆し即死を免れた人々が、翌日以降集中して亡くなっていたのです。
爆心地から500m以内で被爆して亡くなった人は6日の9,530人から翌日には218人に激減。
代わって死者が増えたのがその周縁部500mから1.5㎞の間にあるドーナツ状の地域です。
7日には1,940人。8日には1,226人増え、その後も毎日600人以上の死が1週間にわたって積み重なっていきました。


 
この地域で被爆した人たちの死がなぜ続いたのか?
ビッグデータをもとに原爆の被害について研究を続ける人がいます。
日本熱傷学会の元理事、原田輝一医師です。
この地域で被爆した人が多く亡くなり続けたのは特殊なやけどが原因だと考えています。
 
原田
「深いですね。深くぼろっと落ちて 皮膚のすぐ下のところでおそらく血管が発熱して熱破裂したということだと思います。
通常のね、熱傷(やけど)ではないまったく別のメカニズムが、やっぱり背後にあるんだろうと思います」
 
原爆で血管が破裂したと考えた原田さん。
被爆者が残した膨大な手記の中にその手がかりを見つけました。
 
「『青白い閃光が走ったとき、体全体がプーッと膨れるような感じは覚えているが熱いと感じたことはなかった』。
これは最初から光に当たったところがふくれあがっているという感じをあらわしていますね」
 
特殊なやけどの原因となったのは原爆が発した強烈な光線ではないか。
特殊な医療機器を通常以上の出力で使い、爆心地から2㎞までの地点と同じ強さの光線を再現。
血液をゼラチンで挟み血管に見立てたものに光を照射します。
すると血液から水蒸気が発生しました。
血液は膨張し細かな気泡がいくつも噴き出していました。
 
原田さんが推測する原爆の光線によるやけどのメカニズムです。
強力な光線が皮膚を通過し血管に到達します。
熱せられた血液から水蒸気が発生。血管を破裂させます。
これにより徐々に周りの組織は死滅。
皮膚が剥がれたまま2~3日かけて命が絶たれるといいます。
やけどによる死者の推移を見ると原爆投下の翌日から3日間で多くの人が亡くなっていた事が確認できます。
 
さらにこの3日間を乗り越え、命を取り留めた人を感染症が襲います。
深い火傷はなおりにくいため、傷口から細菌が侵入しやすくなります。
全身で炎症がおき、臓器が死滅。
激しい痛みと高熱に一週間ほど苦しめられた末に亡くなっていったのです。
 
「あらゆる意味で害が大きい。ひょっとするとこの爆弾というのは軍事目的で使うものではなくて、一般市民を標的にして、一般市民を苦しめる効果のほうがはるかに大きいものじゃないかなというふうに感じますね。
そこまで長引く苦痛をもたらすという爆弾は、おそらく他にはないんじゃないかなと思いますね」


 
火傷を負った人々はどこで亡くなったのか。
被爆した場所からの人々の動きを追っていくと、多くの人が特定の場所に移動した末に亡くなっていたことが分かりました。
最も多い173人が亡くなった場所、それは府中国民学校でした。
現在は府中小学校となっています。臨時の救護所に指定され火傷を負った人たちが集まって来た場所です。

当時の様子を知る人が見つかりました。
「ほんとうに懐かしいねえ。うん。なんか大きな声で拝みたいようだ」



吉田美江子さん。84歳です。当時12歳。
8月6日の夕方、校長から呼び出され、救護活動の手伝いをしていました。
講堂は火傷を負った人で埋め尽くされていたと言います。


 
吉田
「ほんとにまだ目に焼きついとるよ
頭と頭 足はこっち ずらーっと並べてあって」
 
当時広島にあった救護所の映像が残っていました。傷ついた人たちが、次々と運び込まれています。
痛みに耐えながら横たわる人々。
データによれば。府中小学校で亡くなった人のうち、もっとも多かったのが14歳と15歳でした。
そこで吉田さんは、同年代の子どもたちから家族への伝言を頼まれたと言います。
 
「『ここにおるけえ探しに来てくれ、連れにきてくれ言うてつかあさいや』
言うのが一番多いかった。みんな帰りたかったんよね。
それを偉そうげに「わかったよ。言うてあげるよ」とみな嘘をついたわけや。
嘘のつもりじゃないんよ。どこへ言うてっていいか分からんのじゃけん」
 
吉田さんが、その場しのぎの答えしかできなかった子どもたち。
家族に会えないまま、ここで息を引き取っていったと言います。
 
「ここに来たらよみがえるよ。顔がね。
精一杯やったんじゃけん。許してちょうだいね。ごめんね。
私なりに精一杯じゃった。ごめん。なんの力もなかったあ。
ごめんなさい。すまなんだねえ。ごめんね」


 
即死をまぬがれ 傷つきながらも生きようとした人々。
原爆特有の火傷が、家族に再会するという望みさえ奪っていった実態が浮かび上がってきました。
 
続く

#原爆死 #広島 #原爆死ヒロシマ72年目の真実 #死のドーナツ地帯 #府中国民学校 #死のドーナツ地帯 #原爆で血管が破裂した #悶絶死

*****

8月6日、9日午後7時より京都市三条大橋で原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジルを行います。LIVE配信も行います。リアルで、またバーチャルで、ご参加下さい。
詳しくはFacebookイベントページをご覧下さい。(画像をクリック↓↓↓)

原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジル2024~ヒロシマ・ナガサキの日に

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(2431) 広島の原爆死の真実を捉え返すー1 あの日たくさんの人が圧焼死していった(再再掲 NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2024年08月06日 08時15分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)

守田です(20240806 08:15)

原爆の非人道性をより深くつかまないといけない!

みなさま。本日8月6日はアメリカ軍が広島の人々を大量虐殺した日です。あらためて犠牲になられた方たちに哀悼の意を捧げたいと思います。同時にこの日に、
72年目にしてあらたな事実を突き出したNHKドキュメント(2017年放映)の文字起こしをお送りします。
これは「明日に向けて」に同年8月17日から3回に分けて連載し、2020年7月22日から写真も添えた新バージョンを作って連載したもの。
今回、3度目の連載を行います。今回は解説も加えます。ぜひ8月6日から9日のこの時にお読み下さい。

*****

原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日 放送) 

ナレーション
通勤通学の人々が行き交う朝8時の広島市。
72年前、8月6日の朝もここには同じ光景が広がっていました。
これは1945年の広島の航空写真。
無数の青い光は原子爆弾が投下されるまでの人々の動きです。
55万7,000人の被爆者のデータをもとに初めて可視化。
広島市の外から8万人が市内に向かっていた事が分かりました。
国のために動員された学生や女性たち。
多くの人がいつもと同じ朝を迎えていました。
そして8時15分…。
この人々の頭上に原爆は投下されたのです。

人々の動きを遡って見てみると、一人一人の命の軌跡が浮かび上がってきます。
郊外にあるこの5つの点。
一つ屋根の下に暮らす家族でした。
夫婦は幼い子ども2人を老いた母に預け出勤。
45歳の夫は北部にある工場で被爆しましたが助かります。
36歳の妻は勤労動員で市の中心部へ。
そこはまさに爆心地でした。

当時2歳で母親を失った柳原有宏さん(74)です。
 
映像、額に入った30代の女性の写真?
取材者 「お母様?」
柳原  「ええ」

まだ物心が付く前でした。
母の満子さん(享年36)
この写真だけが面影を知る手がかりです。


柳原
「これが母親だと言われてきたんですからね。ああ、美しい、きれいな方だなと思いながらですね。
会いたかったですね」

アメリカが広島に投下した原子爆弾。
その年だけで14万人の命を奪ったとされていますが、いつどこで、どのように命が奪われていったのか、詳細はいまだに分かっていません。
今回私たちは広島市が集めた55万人以上の被爆者の記録を初めて入手。
そのビッグデータを解析して、原爆による死、原爆死の全貌に迫ることにしました。
するとこれまで分からなかった死の実態が次々と浮かび上がってきたのです。

投下された日の死者は53,644人。
それぞれの被爆した場所が詳細に判明しました。
また死のドーナツ地帯とも呼べる特定の地域で被爆した人々が、翌日以降次々と亡くなっていました。
更に原爆の放射線がほとんど届かなかったとされる2.5k?より外の地域でも、謎の死が相次いでいた事も分かってきました。
 
放射線の専門家
「確かに驚きますね。まだ我々が知り得ないところで、何らかの関係があったのかなというふうに思います」

ビッグデータを手がかりに追った、死に至るまでの被爆者一人一人の姿。
人々の頭上に投下された核兵器は何をもたらしたのか。
72年目の真実です。

 
広島市原爆被害対策部。
その一角に被爆者の調査を続けてきた部署があります。
ここにいまだ公開された事のない記録が残されていました。
原爆投下の直後から作成されてきた資料です。
死亡した際の診断書。診察に当たった病院のカルテ。
市が集めた資料はこれまでに150点を超えます。
これらをもとに市はデータベースを作成。
原爆被爆者動態調査と呼んでいます。
その数55万人分に上ります。
これまで一人一人がどのように亡くなったのか詳しく解析されていませんでした。

2歳の時に原爆で母親を失った柳原有宏さんです。
この辺り(原爆慰霊碑付近)で亡くなったとされる母。
遺骨さえ見つかっていません。
最期を知りたいと思い続けてきました。
 
柳原
「やっぱり苦しいですね。
爆風に飛ばされて亡くなったもんやら、熱線で亡くなったもんやらですね。全然分からないですからね。
まあ、母のことを言えば、ついつい涙が出ますけど、それがずっと心の中にあるんだと思うんです」


一人一人がどのように命を奪われていったのか。
私たちは今回初めて動態調査のデータを個人が特定できない形で入手しました。
被爆した場所や死亡した場所。
そしてその日時。
死因や家族構成などのデータです。

更にここに別のデータを重ね解析しました。
火災の発生時刻や気象データ。
被爆者が描いた絵やNHKの取材情報などです。
これらを広島市の航空写真に落とし込み、解析することで、原爆死の全貌に迫ることにしました。


原爆が投下された8月6日、広島はいつもと変わらない朝を迎えていました。
この青い光は一人一人の自宅と被爆した場所を、結び移動を可視化したものです。
多くの人が市の中心部に向かっています。
原爆はこの人々の頭上で炸裂しました。


私たちは被爆した場所ごとにこの日の死者を数え上げていきました。
その数、53,644人。爆心地から3㎞以上離れた場所でも死者が出ていました。
8月6日の死者の数が被爆した場所ごとに可視化されたのはこれが初めてです。
いたる所で人々の命を奪っていた原爆。
動態調査のもとになった資料から人々がどのように亡くなったのかが分かってきました。
検視調書。
警察官が医師と共に遺体の確認を行った記録です。
焼死や、やけど。
そこには一人一人の死因が詳細に記録されていました。

検視の拠点となったのは爆心地から1.2㎞離れた東警察署。
現在は銀行になっています。
当時の東警察署が写った航空写真です。
青で示したのは人々が亡くなった場所。
データは広島の街の1/3ほどに限られていました。
しかしここを詳しく見ることで、市全体の傾向をつかめるのではないかと考えました。
死因を詳しく見ていくと最も多かったのが黄色で示した焼死。
1,406人に上りました。
赤で示したのは聞き慣れない死因でした。
圧焼死です。
それはどのような死だったのか。
圧焼死が集中している地域を見てみると20人が同じ地点で亡くなっている場所がありました。
そこは女学校でした。
 
広島女学院。当時の校舎は原爆で焼失しましたが戦後同じ場所に再建されました。
8月6日の朝もここに144人が登校し礼拝が行われていました。
この日は久しぶりに学徒動員を解かれた女子学生たちが学校に集まっていました。
その一人が見つかりました。

「私はこの辺りにいたんです。」
当時17歳だった鎌塚寿恵子さん(89)です。



音楽を通じて仲よくなった親友と一緒に講堂にいたといいます。

それが成井明子さんでした。

 

鎌塚

「あの方、きれいなソプラノですからね。わたくしは低い方だから。
いつも2人で高音と低音で二重唱をやっていました。
それだけはやっぱり懐かしい思い出なんですけれども‥」

礼拝を終えた直後の8時15分。
原爆が炸裂。
鎌塚さんたちを秒速100mを超える猛烈な爆風が襲いました。

「光ったとたんにドカンですから。あっと思ったらもうつぶされたんです」
講堂は倒壊。
鎌塚さんと成井さんたち生徒は生き埋めになりました。
鎌塚さんはなんとかがれきの隙間を見つけ、脱出しましたが成井さんの姿はありませんでした。
 
「あの方の声だけ聞いて姿が見えないんですよ。
成井さんの声だってことがわたくしがすぐ分かってかけよったんですけれども
がんばって、がんばって、なんとかするからって‥」

その時、学校周辺はどのような状況だったのか。
ここに火災発生時刻のデータを重ねてみます。
学校のそばではまだ火災は発生していませんでした。
鎌塚さんは成井さんを助けたい一心でがれきを必死に動かそうとしていました。
1時間半を過ぎた頃燃え広がった火がついに女学院に迫ってきました。
友人たちはまだがれきの下でしたが、教師から逃げるように命じられ、泣きながらその場を後にしたといいます。
 
「一生懸命、こうやってたんです。どうにかならんかと思って。」
「それがどうしても助けることができなかったのは私の一番の苦しいというか思い出したらたまりません。
何年もたっても忘れることはできないんです」


広島には被爆者によって原爆投下後の様子が描かれたおよそ4,000枚の絵が残されています。
8月6日の様子を描いた絵の場所を特定しました。
そして赤い圧焼死による死者が集中した地域に絵を重ね合わせます。
そこで描かれていたのは倒壊した建物に火災が迫る様子でした。
がれきに挟まれた母と子が助けを求めています。
圧焼死とは生きながら焼かれ、亡くなった人の姿だったのです。
 
鎌塚さんはその後、成井さんがどのように亡くなったのか分からないままでした。
私たちは8月6日女学院で20人が圧焼死していたことを伝えました。
 
「むごいです。亡くなり方があまりにもむごたらしい。
わたくしも相当苦しかったけれど、この亡くなられた方は 火が来たんだもん。気の毒ですよね。ほんとに。
辛かったと思います。苦しかった。どんなに苦しかったろうねえ。
‥長い沈黙‥
会いたいです。わたし、成井さんに。もう一度会いたかったです」
 
8月6日、いつもと変わらぬ朝を迎え命を奪われていった53,644人。
その一人一人の軌跡は苦しみ抜いて亡くなった人々の姿だったのです。
 
続く

#原爆死 #広島 #原爆死ヒロシマ72年目の真実 #圧焼死 #広島女学院 #原爆被爆者動態調査 #広島原爆 #8時15分 #キャンドルビジル

*****

8月6日、9日午後7時より京都市三条大橋で原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジルを行います。LIVE配信も行います。リアルで、またバーチャルで、ご参加下さい。
詳しくはFacebookイベントページをご覧下さい。(画像をクリック↓↓↓)

原爆と核の犠牲者を追悼するキャンドルビジル2024~ヒロシマ・ナガサキの日に


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする