明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(2448)国は「入市被爆」の記録を黙殺し被曝影響を否定し原爆の本当の恐ろしさを隠してきた(再掲 NHK「封印された原爆報告書」より―3)

2024年08月16日 13時00分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)

守田です(20240816 13:00)

入市被爆のデータが無視されていた

封印された原爆報告書』文字起こしの3回目です。
今回、扱われているのは「入市被爆」の問題です。「入市被爆」とは、原爆投下時には広島市内にいなかったものの、後から救護や親せき探しなどのために市内に入って起こった被曝のことです。
原爆が放った中性子線が、あたったものを放射性物質に変えてしまう(放射化)のため、そこから発せられた放射線に当たったり、市内にたくさん残っていた死の灰を身体の中に取り込み、内部被曝するなどの形で被曝しました。
しかし政府は一貫してこの被害を認めてきませんでした。「そうした被害を示すデータがない」と主張してです。

ところが当時、医学生として援護のために四日後に広島市中心部に入った方が、原爆症特有の症状を発し、そのことを手記の形で記録に残しており、それが報告書に盛り込まれていたのです。
国は明らかに、後から広島市中心部に入って被曝した方がいたことを知っていたのです。にもかかわらず無視し、被曝の危険性を隠してきたのでした。

なお説明を加えておきたいのは、「入市被爆」「入市被ばく」という表記の仕方についてです。NHKが使ったテロップでは「入市被ばく」となっています。
原爆の被害は「被爆」と書かれるので、「入市被ばく」のことも「入市被爆」と書かれるのが普通です。
しかし番組が扱ったのは、明らかに放射線による被害でした。このためNHKの担当者の方も、迷った末に「被ばく」と使われたのではかと思います。

僕も当初はこれに従い、「被ばく」という表記を使ったのですが、その後、被爆二世の森川聖詩さんとの会話の中で、やはり被爆者運動の中で歴史的に使われてきた「入市被爆」という表記を尊重すべきだと判断して直すことにしました。
なお同じことは「被爆」「被曝」のどちらを使うのかという点にも該当します。もともと原爆による「被爆」には「被曝」の意味が含まれているので、こちらだけでも良いし、あるいはこちらだけにした方が良いとも思えます。原爆による被爆と、核実験や核施設によるそれとを分断されたくないからです。
しかし「内部被曝」などは、もはや特有の語として定着しているとも言えます。それで最近は「被爆・被曝」などのようにも表記しています。



*****

封印された原爆報告書 (NHKスペシャル2010年8月6日放送) 文字起こしその3

原爆投下直後から始められていた国による被害の実態調査。この65年間、その詳細が、被爆者に対して、明らかにされることはありませんでした。平成15年から全国であいついだ、原爆症の集団訴訟。 

 

『自分たちの病気は原爆によるものだ、と認めて欲しい』と訴える被爆者たちの訴えに対し、国はその主張を退けてきました。

30年以上、被爆者の治療に携わり、原告団を支えてきた医師の斉藤紀(おさむ)さんです。 



181冊の報告書の中に、被爆者の救済につながる新たな発見は無いか?斉藤さんが注目したのは、ある医学生が書いた手記です。

斎藤医師
「学生さんが書かれた・・・門田(もんでん)さんという方ですけれども・・・」

報告書番号51。ここにこれまで国が認めてこなかったある被爆の実態が綴られていました。

手記を書いたのは門田可宗(もんでんよしとき)さん。当時19歳。山口医学専門学校の学生でした。
門田さんが広島市中心部に入ったのは、原爆投下の4日後の事でした。直接被爆をしていないにもかかわらず、門田さんに原爆特有の症状が現れます。街に残った放射線の被曝。いわゆる『入市被爆』です。

長年、国は「入市被爆による人体への影響は無い」としてきました。しかし門田さんの手記に書かれていたのは、直接被爆した人と同じ症状でした。

門田さんの手記
「8月15日。熱は39度5分まで上る。8月17日。歯茎と喉の痛みが増してくる」

さらに8月19日。門田さんを不安に陥れる症状が襲います。体中に多数の出血斑が現れたのです。

門田さんの手記
「私も原爆の被害者なのか?いや、そうではない。8月6日。確かに私は広島にいなかったではないか?不安のあまりその日は眠れなかった」

8月30日。門田さんは被爆者の症状について解説した新聞記事を目にします。そこに書かれていたのは自分と同じ症状でした。

「髪全部抜ける 原子爆弾 被害者の臨床報告」の新聞の見出し記事

そこの新聞記事に書かれていたのは「全身に斑点状の出血があり」という、自分と同じ症状でした。

門田さんの手記
「私の症状は被爆者の症状と全く同じではないか?ああ、なんという事だ。私も原爆の被害者になってしまったのだ」

斉藤さんは、門田さんの報告書がありながら、国がこれまで入市被爆の影響を否定し続けてきた事に憤りを感じています。

斎藤医師
「今まで考えられてきた『入市被爆者には原爆症は現れ無いのだ、被害は無いのだ!』という考え方が根底から、実は崩れてしまうというような意味をこれは持っているんですね。そういった意味ではこれは65年も埋もれておったと、埋もれさせられておったと・・・」

原爆症訴訟で、長年国を訴えてきた被害者の中にも門田さんと同じように入市被爆した女性がいました。

斉藤泰子さん(享年65歳)です。3年前、被爆が原因とみられる大腸癌で亡くなりました。

当時4歳だった泰子さんが、母、幾(いく)さん(97歳)に連れられて疎開先から戻ったのは原爆投下の5日後のことでした。

親戚を探して爆心地近くに入り、一緒に歩き回ったといいます。暫くすると泰子さんに、高熱や下痢など被ばくによると思われる症状が現れました。

幾さん
「連れて来なければ、たぶんそんな事は無かったんだろうと思うんですけれども。ほんと、悪かったなあと今でも後悔しております」

その後、白血球が減少するなど原爆の後遺症に悩まされた泰子さん。59歳の時、大腸がんを発症します。原爆症と認めて欲しいと訴えましたが、国は「被爆はしていない」と退け続けました。
4年前、泰子さんは最後の法廷に臨みました。その時の言葉です。

(法廷に提出した書面)

「私は現在、末期がんで、余命いくばくもないことを医師から言われております。もう私には時間がありません。国は、私のような入市被爆者の実態を分かっていません。多くの入市被爆者が私以上に苦しんでいます」

勝訴判決が出たのは、泰子さんが亡くなって3ヶ月後の平成19年のことでした。 
幾さんは、門田さんの報告書の存在がもっと早く解っていれば、泰子さんが生きているうちに救済されたのではないかと思っています。

幾さん
「本当に、間に合いませんでした。可愛そうですよね。遅過ぎましたね・・・」

岡山 倉敷

一人の医学生が書いていた入市被爆の報告書。
筆者の門田可宗(もんでんよしとき)さんが、岡山倉敷で生きていました。 
どのような思いで手記を綴ったのか?医師の斉藤さんは同じ医師として聞きたいと訪ねました。

斉藤医師
「はじめまして。斉藤です」

門田可宗(よしとき)さん。84歳。65年間、原爆の後遺症の恐怖と闘い続けてきました。心臓や腎臓や患い療養中でした。

斉藤医師
「あの体の調子が悪い時は、先生、おしゃって下さい。日記を見ますと8月の19日にですね、体の出血に先生は気づかれておられますがご記憶にありますか?」

門田さん
「はい。はい。ありますよ。ええ・・・胸の辺りに皮下出血がありましてね。こりゃいかんなと、非常に危ぶんだんですね、その当時は解りませんのでね・・・」

斉藤医師
「これは先生自身は、日本語で書かれたんですね?」

門田さん
「そうです。日本語で書きました」

斉藤医師
「こういうふうに訳されて、アメリカにあることはまったく知らなかった?」

門田さん
「ええ・・・知らなかったですね」

門田さんによると、日記を書いたのは山口の医学学校に戻ってからでした。山口まで訪ねてきた東京帝国大学の都築教授に日記を書くように進められたと言います。

門田さん
「当時、研究者で名前がナンバーワンで出て来たのは都築先生ですからね。それでわざわざ山口医専までおいでになったんです。直接面談しましてね。いろいろ質問されたりしましてね・・・」

斉藤医師
「ああ・・・そうですか」

門田さん
「それでその時に『今から日記を詳細につけるように』と言われたんですね。それで日記だけはずっとつけておこうと思ったんですね」

斉藤医師
「ああ・・・そうですか」

門田さん
「それで例のオーターソンという向こうの軍医が来て、熱心に僕の手記を求めているっていう事も解ったんですね」

報告書の最後に、門田さんは自らの思いを記していました。

斉藤医師
「『Atomic Bomb Disease(原爆病)の研究の為これを書いた。もしこれが役立つなら非常に幸せです』って、この報告書の最後に書いてありますね?」

門田さん
「そうですね。懐かしいですなあ。僕が残しておかないと誰が残すんだ?という気持ちがありましたね。医学に携るものとして多少、具体的な事を書いておかないとね・・・」

斉藤医師
「どうも有り難うございました」

門田さん
「はい・・・」

一人の医師の使命として自らの被爆体験を後世に残そうとした門田可宗さん。その思いは届きませんでした。
65年前に失われた多くの尊い命。そして生き残った人たちが味わった苦しみ。その犠牲と引き換えに残された記録が、被爆者の為に生かされることはありませんでした。
世界で唯一の被爆国でありながら自らの原爆被害に眼を向けてこなかった日本。
封印されていた181冊の報告書が、その矛盾を物語っています。

語り    伊東敏恵

声の出演  青二プロダクション

取材協力  笹本征男  吉田布布子
      常石教一  吉見義明
      松村高夫  日本学術会議       
      市民科学研究室低線量被曝研究会
      東京都原爆被害者団体協議会

資料提供  アメリカ国立公文書館
      広島市平和記念資料館
      広島市文化振興課
      平和博物館を創る会
      長崎原爆資料館 小川虎彦
         陸上自衛隊衛生学校 彰古館
      毎日新聞社 日映映像
      大塚文庫  神林隆元

撮影    坪内俊治
照明    馬渡規生 アレックス遠藤
照明    鈴木彰浩
映像技術  寺崎智人
音響効果  小野さおり
編集    山内 明
取材    土門 稔
リサーチャー ウィンチ啓子
コーディネーター 柳原 緑
ディレクター 松本秀文 五十嵐哲郎
制作技術  春原雄策

#封印された原爆報告書 #入市被爆 #被爆 #被ばく #被曝 #原爆症 #広島原爆 #原爆症 #原爆症認定訴訟 #被爆者

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明日に向けて(2447)アメリカは広島の子どもたちの死の記録からソヴィエト攻撃をシミュレートした-(再掲 NHK「封印された原爆報告書」より―2)

2024年08月16日 12時45分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)

守田です(20240816 12:45)

死亡率曲線

前回に続いてNHKスペシャル『封印された原爆報告書』の文字起こしの2回目をお届けします。
今回、出てくるのは「死亡率曲線」です。爆心地からどの地点にいた人がどれぐらい死んだのかを表したものです。アメリカが一番欲しかった原爆の殺傷能力を示すデータです。
この記録の対象となったのは、広島市内で被爆した17,000人の子どもたちでした・・・。

*****

封印された原爆報告書 (NHKスペシャル2010年8月6日放送) 文字起こしその2 

原爆投下から2カ月。アメリカの調査団が(日本に)入って来ると、日本はその意向を強く受けて、調査に力を入れるようになります。

小出中佐に変わってアメリカとの橋渡し役を務めるようになったのが東京帝国大学の都築正男教授です。
放射線医学の第一人者で、当初から陸軍と共に調査に当たってきました。

報告書番号14。都築教授と陸軍とが共同で作成したこの報告書の中に、当時アメリカが、最も必要としていたデータがありました。原爆がどれだけの範囲にいる人を殺すことが出来るかを調べた記録です。
対象となったのは、広島市内で被爆した17,000人子どもたちでした。どこで何人死亡したのか、70カ所で調べたデータが記されています。

爆心地から1.3キロにいた子どもたちは132人中50人が死亡。0.8キロでは560人全員が死亡しています。8月6日の朝、広島市内の各地に、大勢の子どもたちが、学徒動員の作業に駆り出されていました。
同じ場所で、まとまって作業をしていた子どもたちが、原爆の殺傷能力を確かめる為のサンプルとされたのです。

調査の対象となった一つ。旧広島市立第一国民学校(現段原中学校)。
そこに通っていた佐々木妙子さん。77歳です。
当時1年生だった佐々木妙子さんたちは、空襲に備えて防火地帯を作る「建物疎開」の作業に動員されていました。
学校に建てられた慰霊碑です。

屋外で作業に当たっていた175人が被爆しました。佐々木さんのすぐ隣にいた親友、上田房江さんも亡くなりました。

佐々木妙子さん(77歳)
「ほんとごめんね。うちだけが生き残ってから。一生懸命、それこそ、お国のためじゃないけど・・・疎開の作業に出て、帰る時にはもう姿も無いようなことでは、あまりにもむごいですよ・・・8月、来るけんね・・・」

報告書によると、第一国民学校の1年生175人のうち108人が死亡。佐々木さんを含む67人が重傷となっています。
都築教授たちが調査を行った背景には、アメリカからの要請がありました。アメリカ調査団の代表、オーターソン大佐が、このデータに強い関心を示していたのです。

アメリカ陸軍病理学研究所(ワシントン郊外)
ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所。日本からのデータはすべて、ここに集められました。オーターソン大佐は、調査の結果を、『原爆の医学的効果』と題する6冊の論文にまとめていました。

アメリカ陸軍病理学研究所の職員(英語)
「第6巻には、子どもたちの被害のデータがあるので、政治的配慮から機密解除が遅れました」

17,000人を越す子どもたちのデータから導かれたのは1つのグラフでした。爆心地からの距離と死者の割合を示す『死亡率曲線』です。
原爆がどれだけの人を殺傷できるのか、世界で初めて具体的に表したこのグラフは、アメリカ核戦略のいしずえとなりました。

こうしたデータをもとに、当同時、アメリカ空軍が行っていたシミュレ―ションです。ソビエト主要都市を攻撃する為に、広島型の原爆が何発必要かを算出していました。

オーターソン大佐の研究を引き継いだ、カリフォルニア大学名誉教授ジェームズ・ヤマザキ氏(94歳)です。死亡率曲線は、広島と長崎の子どもたちの犠牲がなければ得られなかったと言います。

カリフォルニア大学名誉教授ジェームズ・ヤマザキ氏(94歳)
「革命的な発見でした。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのですから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。まさに日本人の協力の賜物です。貴重な情報を提供してくれたのですから。」

建物疎開の作業中被爆し、多くの同級生を失った佐々木妙子さん。友人たちの死が、日本人の手によって調べられ、アメリカの核戦略に利用されていた事を、初めて知りました。

佐々木妙子さん
「馬鹿にしとるね・・・言いたいです。私は・・・(長い沈黙の後で)残念ですね・・・手を合わせるだけのことです。私にはもう何も出来ません・・・(深ため息と合掌黙祷する佐々木妙子さん)」

日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師はどのような思いで被爆者と向き合ったのか?
山村秀夫さん。90歳。都築教授ひきいる東京帝国大学調査団の一員でした。当時、医学部を卒業して2年目だった山村さん。調査は全てアメリカの為であり、被爆者の為という意識は無かったと言います。

元東京帝国大学調査団 山村秀夫さん(90歳)
「だって、結果は、日本で公表することも、勿論ダメだし・・・お互いに、持ち寄ってですね、相談するって事も出来ませんから。とにかく、自分たちで調べたら、全部、向こうに出すということ・・・」

山村さんが命じられたのは、被爆者を使ったある実験でした。報告書番号23。山村さんの論文です。
被爆者にアドレナリンという血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人のうち6人は、僅かな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係ない調査を、毎日行っていました。調べられる事は全て行うというのが、調査の方針だったと、(山村さんは)言います。

元東京帝国大学調査団 山村秀夫さん(90歳)
「とにかく、生きている人が生体に、どのような変化が起きているか。少しでも何かの手がかりを見つけて調べるという事だけでしたから。それ以外はもう何も無いですよね。あんまり他の事も考えられなかったですよねぇ・・・。とにかく、それだけ(言われた通りの事だけを)やるっていうことで」

NHKスタッフ
「今となってみたら、どうお感じですか?」

山村秀夫さん
「今となって見たらねぇ・・・、そうですねぇ・・・まぁ、他にもっと良い方法があったのかもしれないけれど・・・だけど今とは全然、違いますからね。その時の社会的な状況がね」

亡くなった被爆者も調査の対象になりました。救護所で亡くなった被爆者は、仮設の小屋などに運ばれて次々と解剖されたといいます。200人を越す被爆者の解剖結果は14冊の報告書にまとめられています。
その1冊に子どもの解剖記録が残されていました。報告書番号87。
解剖されたのは長崎で被ばくし亡くなったオノダマサエさん。まだ11歳の少女でした。

マサエさんの遺体はどのようないきさつで提供されたのか?長崎に遺族がいる事が分かり訪ねました。

マサエ(政枝)さんの甥に当たる小野田博行さんです。
「これが、ただ一枚のですね、政枝おばさんが4歳の時の写真なんです」

政枝さんが解剖された経緯を、博行さんは、父、一敏さんから聞いていました。

被爆した政枝さんは長崎市中心部の救護所に運ばれていました。兄、一敏さんが駆けつけた時、政枝さんは高熱にうなされ、衰弱しきっていたといいます。

小野田博行さん
「亡くなる前にですね・・・まぁ、何時間か前ぐらいじゃないかと思うんですけれども・・・『兄ちゃん、家に連れて帰って』その言葉が、最後の言葉だったらしいですね・・・」

一敏さんが政枝さんの遺体をおぶって連れて帰ろうとした時、救護所の医師たちが声をかけてきたといいます。

小野田博行さん
「病院の先生たちが『将来のために、妹さんを、その・・・解剖のほうに預けて頂けないか』という話を、オヤジ(父親)のほうにしたらしいですね・・・。一応は断わりを入れたらしいですけど、やはりオヤジもたくさんのああいう亡くなった方たちを見ておりますもんで、やっぱりお渡しする気になったんではないかと、思うんですよね。将来のためにもという思いで・・・」

「被爆者の為に役立てて欲しい」と医師に託された政枝さんの遺体。その後、どうなったのか?家族に知らされることはありませんでした

正枝さんたち被爆者たちの解剖標本は、報告書と共にアメリカに渡っていました。放射線が人体に及ぼす影響をより詳しく調べるために利用されました。そして昭和48年、研究が終わった後に日本に返還され、今は広島と長崎の大学に保管されています。

小野田政枝さんの標本が、長崎大学にあることが分かりました。
博行さんが写真でしか知らない政枝おばさん。

長崎大学 医学部職員
「ご説明させて頂きます。これが政枝さんのプレパラート標本5枚になります」

小野田博行さん
「ははぁ・・・」

政枝さんは肝臓や腎臓等を摘出され、5枚のプレパラートになっていました。

小野田博行さん
「はぁ・・・(しばしため息)・・・これがおばさんですかねぇ・・・こんな形でお会いするとは思いもしませんでした・・・はぁ・・・(嘆息)」 

アメリカでつけられた標本番号は249027。
原爆被害の実態を伝えて欲しいと提供された11歳の身体が、被爆者の為に生かされることはありませんでした。

続く

#封印された原爆報告書 #広島原爆 #死亡率曲線 #子どもたちの死が殺傷能力を確かめるサンプルに #都築正男 #原爆の医学的効果 #ジェームズヤマザキ #東京帝国大学調査団 #被爆者 #解剖標本

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明日に向けて(2446)日本陸軍は原爆被害をすぐに調査しアメリカに差し出していた-(再掲 NHK「封印された原爆報告書」より―1)

2024年08月16日 12時30分00秒 | 明日に向けて(2401~2600)

守田です(20240816 12:30)

NHKスペシャル『封印された原爆報告書』(2010年放映)をご紹介します

この間、過去にNHKが報じた原爆に関するすぐれた番組の全文文字起こしの再掲を進めています。すでに『原爆死 ヒロシマ 72年目の真実』(2017年放映)、『原爆と沈黙~長崎浦上の受難~』(2017年放映)、『原爆初動調査 隠された真実』(2021年放映)を掲載しましたが、今回、続いて『封印された原爆報告書』を掲載します。2010年8月6日に放映されたものです。

「明日に向けて」や講演でたびたび触れてきたものですが、2020年11月に、ちょうど発効を前にした核兵器禁止条約の批准を日本政府に迫るため全文文字起こしを掲載しました。
なお文字起こしは、「パレスチナに平和を京都の会」の諸留能興(もろとめよしおき)さんが行ったものをベースにさせて頂いています。諸留さんに深く感謝申し上げます。

*****

封印された原爆報告書(NHKスペシャル2010年8月6日放送)

ナレーション
アメリカ国立公文書館の映像資料室。ここに終戦直後に日本で撮影されたフィルムが残されていました。映し出されたのは原子爆弾が投下され、焼け野原となった広島。
被害の実態調査にあたる日本の医師と科学者たちです。広島・長崎に送りこまれた調査団はあわせて1300人。被爆地でしか得ることのできない原爆の詳細なデータを集めていたのです。

アメリカ国立公文書館
日本の調査団がまとめた膨大な記録が、GHQの内部文書を集めた書庫の中に眠っていました。

書庫の職員(英語)
「これが日本の科学者が作成した181冊の原爆報告書です。」

報告書は全部で181冊。あわせて1万ページにおよびます。今回私たちは初めてそのすべてを入手しました。そこに記されていたのは被爆国日本が自ら調べ上げた生々しい被害の実態です。
学校にいた子どもたちがどこでどのようになくなったのか。教室の見取り図に丸印で書き込まれています。
放射線が人間の臓器をどう蝕んでいくのか。200人を超す被爆者の遺体を解剖した記録もありました。
調査の対象となった被爆者は2万人にのぼりました。治療はほとんど行われず、原爆が人体に与える影響を徹底的に調べていたのです。

調査された被爆者
「『立て』と言われたら『はい』 『向こう向け』と言われたら『はい』」
「『お前、モルモットじゃ』と言われたような気になりました。」

報告書はすべて日本人の手で英語に翻訳されていました。被害の実態を調べた貴重な記録はすべて原爆を落とした国、アメリカへと渡されていたのです。
私たちは原爆調査を知る数少ない関係者を日本とアメリカで取材しました。ていった。そこから浮かび上がってきたのは、被爆者の治療よりもアメリカとの関係を優先させていた日本の姿です。

元アメリカ調査団医師
「日本の報告書の内容はまさにアメリカが望んでいたものでした」

元日本陸軍軍医少佐
「早く持っていった方が心証がいいだろうと。原爆のことはかなり有力なカードであったのでしょうね」

唯一の被爆国として原爆の悲惨さを世界に訴えてきた日本。その一方で被爆者のために活かされることのなかった181冊の報告書。
被爆から65年。封印されていた原爆報告書は何を語るのか。今、明らかになる原爆調査の実態です。

タイトル
封印された原爆報告書

65年前世界で初めて原爆が投下された広島。あの日、街は一瞬にして焼け野原となりました。
爆心地から4キロ離れた海沿いに、戦火を逃れ、当時のままに建っている建物があります。
旧陸軍病院宇品分院。のちに181冊にまとめられる最初の調査が、ここで行われました。

収容された被爆者は2ヶ月間で、延べ6000人にのぼりました。
みな、むしろのような布団の上に寝かされていたといいます。


大本営のもと、宇品での調査を指揮したのは陸軍省医務局です。原爆投下からわずか2日後の8月8日。広島に調査団を派遣し、敵国アメリカが使った新型爆弾の調査に乗り出していました。
調査の結果は、1冊の報告書に纏められました。タイトルは『原子爆弾に依る廣島戦災医学的調査報告』。
被爆した人が、どのように亡くなっていくのか?放射線が体を蝕んでいく様子が、詳細なデータと共に記録されています。

調査を受けた被爆者の一人が、生きていました。
沖田博さん。89歳です。宇品の病院で生死の境をさまよいました。
当時、広島の部隊にいた沖田さんは、爆心地から、およそ1キロの兵舎にいて被爆。
突然、体に異変が現れ、宇品に運ばれて来ました。病院に入っても治療はほとんど受けられず、毎日、検査ばかりが続いたといいます。


沖田博さん
「いつまで命があるかなぁ?・・・と、確めるためだったと思います。次々と死んでいくからね・・・。『こいつはいつまで生きんかな?』って、確認するためだと思いますね」

報告書には沖田さんの記録もありました。当時の危険な様子が克明に記されています。沖田さんの体温は、40度近くまで上がった状態が続いていました。白血球の数は1300。通常の4分の1程度にまで下がっていました。
家族の必死の看病で一命をとりとめた沖田さん。その後は恢復の過程が調査の対象となりました。
その時、撮影された沖田さんの写真です。放射線の影響で抜けていた髪の毛は、少しずつ生え始めていました。嫌がる沖田さんにかまわず、様々な検査が2ヶ月間、続けられたといいます。




沖田博さん
 「『お前、モルモットじゃ!』って、言われたような気になりました。
『こん畜生!』言いたいんだけれども、言えない・・・。僕自身の中で、『ええい、くそっ・・・!』思いながら、あんまり、態度なんかには出せませんでしたけんね・・・」

広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾
その年だけで、合わせて20万人を越す人たちが亡くなりました。
原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共にその規模を一気に拡大します。国の大号令で、全国の大学等から1300人を超す、医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。

2年以上かけた調査の結果は181冊。1万ページに及ぶ報告書に纏められました。
大半が放射線によって被爆者の体にどのような症状が出るのか調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。

ワシントン アメリカ国立公文書館
何故、自ら調べた原爆被害の記録を、アメリカへと渡したのか。その手がかりをアメリカ公文書館に保管されている報告書の中に探しました。
日本が提出した調査記録の片隅に、ある共通するアメリカ人の名前がありました。
「to Cal Oughyerson」 オーターソン大佐へと書かれた、その人物とは?

アシュレー・オーターソン大佐。(アメリカ陸軍)
マッカーサーの主治医で、終戦直後に来日した、アメリカ原爆調査団の代表です。


オーターソン大佐と共に日本で調査にあたった人物が、カリフォルニアにいました。
フィリップ・ロジ氏92歳。アメリカ調査団のメンバーに抜擢された最も若い医師でした。
ロジ氏はアメリカ調査団が(日本に)到着するとすぐに、日本側から報告書を提出したいという申し出があったと言います。

ロジ氏
「オーターソン大佐は、大変喜んでいらっしゃいました。日本がすぐに協力的な姿勢を示してくれたからです。
日本は、私たちが入手できない重要なデータを、原爆投下直後から集めてくれていたのです。まさに被爆国にしかできない調査でした」

オーターソン大佐に報告書を渡していたのは、原爆調査を指揮する陸軍省医務局の幹部でした。
小出策郎軍医中佐。30歳代の若さで医務局に入ったエリートです。陸軍が最初に行った調査の報告書も、すべて英語に翻訳されてオーターソン大佐に渡されていました。

何故、小出中佐は終戦前から軍が独自に調べていた情報をアメリカに渡したのか?
当時の内情を知る人物が生きていました。陸軍の軍医少佐だった三木輝雄さん。94歳です。陸軍軍医のトップ、医務局長を勤めた父を持つ三木さん。終戦時は軍全体を指揮する大本営に所属していました。
報告書を提出した背景には、占領軍との関係を配慮する、日本側の意志があったと言います。

「いずれ要求があるだろうと・・・。その時は、どうせ、持っていかなけりゃいけんくなる・・・と。それなら、早く持って行ったほうが、いわゆる心証が良いだろう・・・という事で。それで要求が無いうちに持っていった・・・」

NHKスタッフ
「その『心証を良くする』っていうことは、何のために心証を良くしようとしたのでしょうか?」

・・・長い沈思の黙考・・・

「731(石井細菌部隊)のこともあるでしょうね・・・」

化学兵器の訓練をする日本軍の白黒写真


三木さんが言う731部隊は、生物・化学兵器等の効果を確認するために、満州で(中国人や満州人・朝鮮人などの)捕虜を使った人体実験を行ったとされる特殊部隊です。
終戦を前にしたポツダム会談で、アメリカを初めとする連合国は、捕虜虐待などの戦争犯罪に対し、厳しい姿勢で臨む事を確認していました。

小出中佐は陸軍の戦後処理を任された一人
終戦を迎えた8月15日。小出少佐に極秘命令です。
「敵に証拠を得られる事を不利とする特殊研究は、すべて証拠を隠滅せよ」


大本営にいた三木さんは、動揺する幹部たちの姿を間近で見ていました。
戦争犯罪の疑惑から逃れるためにも、戦後のアメリカとの関係を築くためにも、原爆報告書を渡すことは「当時の国益に叶うものだった」と言います。

三木輝雄さん
「新しい兵器を持てばその威力っていうものは、誰でも知りたいものですよ。
カードで言えば有効なカードがあまり無いので、原爆のことはかなり有力なカードだったんでしょうね」

自ら開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ。そして、戦争に負けた日本。原爆を落とした国と、落とされた国。二つの国の利害が一致したのです。

続く

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