箱根の坂道が始まる、塔ノ沢の「函嶺洞門」
関東大震災によって、崩壊した断崖の直下に築かれたもので、
箱根路の近代化を象徴する落石防護施設。
この施設は、日本のあちこちで見ますが、
昭和6年に完成した、
国道1号線箱根湯本道路施設は、
自動車交通に対応した、我が国、初期の幹線道路施設として、
昨年7月8日。重要文化財に指定されていました。
洞門は通行禁止になっていて、
箱根駅伝では、2015年バイパスが開通してから、
この洞門内は、走ることができなくなってしまいました。
小田原中継からの平坦地から、この塔ノ沢から、「山上り」
過酷なレースが始まり、
エキサイティングな区間になります。
写真は11月28日のファインダーからです。
洞門から50メートル程上りますと、
軟弱基盤を考慮して、基礎への負荷を軽減できる、
鉄筋コンクリート造タイドアートアーチ形式の
「千歳橋」がどっしり構えています。
この辺りから、景観楽しめる箱根街道のはじまり。
渓谷の景色を楽しむための、駐車する場所はほとんどなく、
一気に登ることになるけど、
ドライバーさんにはまこと気の毒ですが、
登りは、後部座席、下りは、助手席が特等席になります。
ではまた!
駅伝のエピソード
箱根駅伝の始まり、第1回大会は、
1920年2月14日アメリカ大陸の継走での横断を実施するための
代表選考会という位置付けでに行われ、
1912年のストックホルムオリンピックに出場した
日本人五輪選手第1号の金栗四三が、
「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と
発案したことがきっかけだといいます。
金栗氏のエピソード
ストックホルムオリンピックは講道館の館長、嘉納治五郎を団長に、
短距離の三島弥彦氏、マラソンで金栗四三氏の3名が参加したが、
マラソンで、「途中棄権」を提出しなかった為「行方不明」の記録になり、
後年、組織委員会はこの「行方不明」の記録を発見し、
55年後1967年、ストックホルムオリンピック55周年記念式典に金栗氏を招待。、
金栗氏は競技会場内に用意した、ゴールテープを切った。
その瞬間、
「54時間8ヶ月6日5時間32分20秒。これで第5回ストックホルムオリンピックは、
すべての競技をいたしました」と放送し、
運営委員の粋な計らいに、観衆は大喝采したという、微笑ましいエピソードでもあります。
参照・・・●ウィキ●嘉納治五郎●講道館