昨日は、用が早く、済んだので横浜へ出かけました。
「日本新聞博物館」がリニュアルオープンしていたので、
野次馬根性で、出かけました。
横浜は、日本で最初に日刊新聞の「横浜毎日新聞」
(現在の毎日新聞ではありません)、を創刊した地です。
1989年(平成元年)電通の倉庫で見つかった、
社長供欄用アルバム81冊・15000枚の一部が、
2階で展示していて、新聞を中心に歴史を紹介しています。
が、あまりの情報に、「頭」はくらくら?
一度では無理、(カメラに収められたらいいのですが)
また来ようと!
そこで、数分の波止場に場所を変えました!
濱で止まるのは、せいぜいこんなところ!
あまり似合わないけど、これはこれなりに!
茶色の建物は、「赤煉瓦倉庫」
クリスマスの飾りの屋台が、エキゾチックでした。
日本郵船から1927年(昭和2年)
横浜船渠は北米シアトル航路用2隻を受注した。
これが本船(氷川丸)と「日枝丸」
1 赤い靴、はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
2 横浜の はとばから 汽船(ふね)にのって
異人さんに つれらりて 行っちゃった
3 今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
4 赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える
5 生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう)
異人さんに たのんで 帰って来(こ)
社会主義派の野口雨情が、札幌の新聞社(1907年から)に勤めていた時、
少女の両親の親交から、作った詩。
1922年(大正11年)本居長与世作曲で童謡に!
少女の両親も、社会主義者で、北海道の平民農場へ入植したのに、
貧しさで、宣教師ヒュエット夫妻に、
3歳の娘(きみ)を預けなければならなかった。
夫妻帰国の時には、すでに結核になっていた「きみ」は、
夫妻と一緒には、乗船できなかった。
その後、孤児院に預けられた「きみ」は、
母にも父にも、会えず、鳥居坂教会の
孤児院で9歳で短い生涯に。
母は、てっきりアメリカに渡っていたと思っていたという。
母の心情を詠った少女のブロンズ。
各地に「きみちゃん像」はおかれているようですが、
2010年、姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市の
海辺にも建てられいますね!
菊池寛の北海道テレビ記者時代、かなりの時間をかけ調査し、
1978年、ドキュメントにして製作、
テレビ放映をし、翌年は、ノンフィクション小説として
「赤い靴はいてた女の子」を現代評論社から発表しています。
絵柄では、ちょっと残念ですが!
前方の船は「氷川丸」1930年(昭和5年)4月25日に竣工ですので、
少女が「結核」にかからなければ、乗ったであろう「船」では
ありませんね!
もう、夕暮れです。
余分な写真ですが、よく磨かれていたので、
つい感心して!
ではまた!