融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

核兵器は非人道兵器で反対!でもクラスター爆弾ならOK?

2017年04月12日 | 日記

 〝唯一の被爆国〟を自称する日本は、同時にクラスター爆弾を製造する会社の株で儲けたいと欲しています。「戦争の痛み」はおろか、「人の痛み」までも忘れてしまったのでしょうか。

 言っていることと、やっていることが支離滅裂なように思います。頭がクラクラします。きっと、海の向こう側からは、「日本人はイエロー・モンキーだ」と言われて、笑われているのではないかと想像します。

 お金のためなら、何だってする。人殺しでもする。株で儲けるためには、非人道的な兵器を製造する会社にだって投資して儲けたい。人殺しに協力していることになるなんて、考えもしないし気にも留めない・・・これって、品性下劣と言うものではないでしょうか。

 つくづく、聖書の「サタンの誘惑」に負けてしまった姿のように思えます。今の政権の金儲け主義、人道軽視、冷血ぶりには、ほとほと呆れてしまいます。

 私が甘ちゃんなのでしょうか。何とも恐ろしい時代になったもんだ。こうなった責任の一つは、愛の教えを説く力が足りない私のせいでもあるかも知れません。

 

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祈りのパンフレット 4月12日(水)

2017年04月12日 | 聖書のお話

 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」(マタイによる福音書 26章17~25節)

-以上、聖書の引用-

 

 イエスさんは、過越祭の食事の席で12弟子に向かって、一人が裏切ろうとしていることを告げらました。
 過越の食事は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出する際に摂った食事のことです。過越の食事は、奴隷の状態から脱出し、神の民として選び出されたことを思い起こすという、自分たちの信仰のルーツを確認するための大変重要なひと時のことです。

 私たちもまた、受難週に自らが罪の奴隷であるという自覚を持ち、イエスさんの十字架による罪の赦しと、愛の教えに従って新しい歩みを始める者となったことを思い起こすひと時として過ごしたいものだと考えます。
 イエスさんは、そんな過越の食事の時、自分を裏切る者がいることについて告げられました。それに対して、12人の弟子は、「主よ、まさかわたしのことでは」と言い始めました。考えてみれば、イエスさんを信頼して裏切る気もないならば、黙っていたら良いのです。それなのに、12人全員が代わる代わる「主よ、まさかわたしのことでは」と言い出したという姿は、12弟子一人ひとりの自信のなさの表れであり、何とも頼りない姿なのかも知れません。

 イエスさんと共に歩んだ12弟子が頼りなかったというのなら、私たちはもっと頼りない存在なのかも知れません。私たちも、自分の信仰のルーツをしっかりと見失わないようにしたいものだと思います。

 


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祈りのパンフレット 4月11日(火)

2017年04月12日 | 聖書のお話

 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコによる福音書 14章3~9節)

-以上、聖書の引用-

 

 当時の習慣では、亡くなった人への敬意と愛情から、遺体に防腐措置が施されることもあったようです。ナルドの香油とは、防腐作用があると考えられ、葬りの際に遺体に塗られていたようです。

 イエスさんにナルドの香油を注ぎかけた女性は、近いうちにイエスさんが人々の罪のために、十字架に架かって死ぬことを理解していたのかも知れません。少なくとも、イエスさんにその覚悟があることを感じていたのではないでしょうか。だからこそ、前もって葬りの準備をするために、自分ができる時に、できる精一杯のことをしようと考えていたのではないでしょうか。それが、非常に高価なナルドの香油、それこそ全財産をはたいて用意したのかも知れないナルドの香油をイエスさんに注ぎかけるという行為へとつながったのではないかと思います。

 彼女がなぜそのような大きなことができたのかを考えたとき、彼女は自らの罪の大きさを自覚していて、そんな大きな罪でもイエスさんは赦してくださるという確信を持っていたからではないかと思います。そうでなければ、非常に高価なナルドの香油などを用意することなどできないように思います。

 イエスさんにナルドの香油を注ぐ女性を見て、「無駄遣い」に思い、「その香油を三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と威勢の良いことを言った者は、罪の自覚も薄く、イエスさんが罪を赦してくださるという思いがなかったとまでは言いませんが、イエスさんが死ぬなんてことを夢にも思わなかったに違いありません。

 


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祈りのパンフレット 4月10日(月)

2017年04月12日 | 聖書のお話

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
  ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」
 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。(マタイによる福音書 21章12~14節)

-以上、聖書の引用-

 

 イースターは、イエスさんが十字架によって私たちの罪を赦してくださった大きな恵の出来事のことです。受難週は、そんなイースターを迎えるために、私たちの信仰生活を整え、罪を赦された者としてふさわしく歩めるように、自らの信仰生活を整えることが求められているように思います。

 イエスさんは、神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。その行為は、「宮清め」と呼ばれています。
 両替人や鳩を売る者は、エルサレム神殿で礼拝を捧げようとする人々を相手に商売をしていました。礼拝を捧げる人々は、自分で犠牲の動物を探して来るのも大変なので、手っ取り早く、お金で犠牲の動物を手に入れていました。礼拝があることによって、そこで商売が成り立っているのですから、良いことではないかと考える人がいるかも知れません。

 一方で、商売には利権などの難しい部分がつきものであり、それらは必ずしも信仰的であるとは言い難いものがあります。商売と礼拝が一緒になることは、難しい問題であると考えるべきなのかも知れません。

 イエスさんの「宮清め」は、両替人や鳩を売る者を神殿から追い出すというものでした。それは、礼拝を商売と切り離し、純粋に礼拝のみとすることを意味していました。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』と言われた通りです。すると、目の見えない人や足の不自由な人たち、すなわち貧しく弱い人たちが集まって来ました。ここに注目したいと思います。彼らは、「罪人」と呼ばれ、礼拝から排除されていました。イエスさんは、貧しく弱い人たちの病を癒やされて、彼らが礼拝に出席できるようにされました。それが、イエスさんの「宮清め」の目的であったのではないでしょうか。

 


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祈りのパンフレット 4月9日 しゅろの主日

2017年04月12日 | 聖書のお話

 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。(マタイによる福音書 21章1~11節)

-以上、聖書の引用-

 

 この物語から、二つの文脈について受け止めたいと思います。

 まず一つは、エルサレム入城にあたり、子ろばが備えられていたということです。つまり、必要なものが備えられたということです。子ろばは、勇ましい軍馬のようではありませんでしたが、貧しい人々の労働を助ける大切な存在でした。私たち一人ひとりもまた、神さまが必要なものを必ず備えてくださるという信仰をもって歩むようでありたいと思います。たとえ最低限であったとしても、必要が満たされているということは、大きな恵です。そのように受け止めることができる信仰生活は、豊かな人生でもあるというものです。

 二つめは、子ろばに乗ってエルサレムに入城されるイエスさんを、喜んで迎えた人たちがいたということです。私たちは、往々にして勇ましい軍馬の方が格好いいと思い、子ろばを低く見たりしませんでしょうか。けれども、本当に大切なことは、外面ではなくて、内面の信仰ではないかと思います。エルサレムに入城されるイエスさんを見て、外面に囚われることなく、素直に喜んで迎えた人たちがいたということは、私たちの信仰生活にとっても大きな励ましではないかと思います。私たちもまた、外面に囚われるのではなく、内面にある見えない信仰によって生きる一人ひとりでありたいものだと思います。

 


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