-昭和20年代のマッチ箱-
外箱も中箱も経木製です。
<鉄道弘済会>
鉄道弘済会は1932年(昭和7年)に国鉄の職域福祉事業を目的として設立し、上野駅と東京駅構内の10箇所で物品販売を行う売店、キヨスクの前身を開きました。
売店の他、旅行中のけがや病気に対応する旅行者援護事業として全国各地の主要駅での援護所運営や、駅構内売店への新聞、雑誌の取次ぎなどを行っていましたが現在は全て撤退して、公益財団法人鉄道弘済会として、公益事業として障害者、児童、老人への福祉事業、収益事業として不動産賃貸等を行っている団体です。
1948年(昭和23年)、第二次世界大戦時に公布された「マッチ配給統制規則」が撤廃され、マッチの自由販売が復活しました。当時の標準販売価格が1円50銭と言われていますから、その頃のマッチ箱と思われます。
裏は無地です。この時代よく見られます。
<上野駅 日本食堂>
日本食堂はNRE(日本レストランエンタプライズ)の前身で、国鉄とJR東日本管内車内販売、食堂車、駅構内の食堂などを営業していた会社です。
裏。
<日本通運株式会社 古間木支店>
日本通運株式会社。「赤丸に白抜きの旧字体『通』」マーク」は、昭和生まれにとっては「マル通」の名前で親ししまれた、日本最大級の総合物流業者。今は「ペリカン便」の方が馴染みがあります。
1937年(昭和12年)の、日中戦争中に戦時物資を円滑に供給するため、トラックと貨物列車での集荷・配達業務を行う全国の通運業者を統合して、日本通運法を制定し国営企業として発足した会社です。
1950年(昭和25年)、日本通運株式会社法を廃止する法律が施行され、民間企業として現在に至っています。
発足の経緯から、国鉄の流れを残す会社です。
裏。
<野辺地 伯養軒>
1949年(昭和24年)に設置された、「株式会社ウェルネス伯養軒」の前身、「有限会社伯養軒」野辺地営業所。
野辺地駅名物の「とりめし」は、1952年(昭和27年)からここで製造していました。

裏。
-鉄道開通80年記念マッチ箱-
1952年(昭和27年)10月14日に迎えた、鉄道開通80年記念のマッチ箱。
<鉄道弘済会>
裏。
<盛鉄管内鉄道構内営業会>
国鉄時代はこの団体に所属していないと国鉄施設内での販売行為は認められ認められませんでした。会員の多くは駅弁業者で、駅弁や店に駅弁マークを表示することが許可されていました。
JR移行後の構内営業にはそのような縛りが無くなり、その結果同会を脱退する業者や入会しない業者が増えました。
国鉄盛岡鉄道管理局管内の構内営業会のマッチ箱です。
裏。
<日本食堂>
裏の広告は「ニッポンビール」。簡単に言えば、今の「サッポロビール」です。
-昭和30年代のマッチ箱-
経木製から紙製の箱になったのは、昭和30年代に入ってからと言われています。
現在のように、板紙に直接印刷した物ではなく、紙を貼っていますから初期の物と思われます。
<鉄道弘済会>
裏。