旅の窓

平凡ながら列車の旅が好きで、その様子を紹介しています。
『閑雲野鶴日記』は日々の自由気ままな生活の記録。

晴耕雨読日記 2020年(令和2年)6月5日 金曜日 『おばこアマビエで応援セット第3弾』到着

2020-06-05 12:36:33 | 晴耕雨読日記
 今月1日から販売を開始した、由利高原鉄道の『おばこアマビエで応援セット第3弾』が、予定通り今日の昼前に届きました。


  第1弾は、「秋田の地酒と山菜」のセット。
 第2弾は、お酒や山菜が苦手な方もいるとのことで「コーヒーとお菓子」のセット。
 そして今回の第3弾は、「地元の味噌で旬の味わい」セット。
 今回は貼らずに、箱の中に入っていました。




 さて内容です。


◯真坂糀味噌店の「青豆味噌」450g
  「青豆味噌」は、矢島産の上質な米と枝豆(枝豆は多少庄内産も含)、赤穂の並塩を原材料とし、昔ながらの手作りで自然発酵させた無添加味噌で、ほのかに枝豆の香りがするそうです。


◯佐藤酒造店の「生貯蔵酒(アマビエラベル)」。齋彌酒造店の「雪の茅舎 奥伝山廃」。どちらかを選ぶというので「雪の茅舎 奥伝山廃」をオーダー
◯「タケノコ」
 太い・新鮮。今回も焼いていただこうか。もちろん「青豆味噌」をつけて。
◯「山菜又は旬の野菜」
 今回はアスパラガスが届きました。
 こちらも、太い・新鮮。美味しそう。
◯ゆりてつオリジナルポストカード2枚
 この他に、今回もアテンダント手作り「しおり」と「Lucky Star」が入っていました。
 お味噌が気に入ったら、佐藤酒造店の「生貯蔵酒(アマビエラベル)」バージョンを注文する予定です。

晴耕雨読日記 2020年(令和2年)6月5日 金曜日 朝の散歩『名所・旧跡10kmコース』 『常夜燈公園』③

2020-06-05 09:09:58 | 晴耕雨読日記


 今朝は寝坊しませんでした。


①今日の日の出時刻は4時4分24秒だそうで、4時半ともなるとお天道様も高くなっています。


②今日の「名所・旧跡案内」は、『常夜燈公園』その3
 ~栄えた野辺地湊~ 多少海岸線が埋め立てられていますが、『常夜燈公園』の東側に延びる海岸線が『野辺地湊』です。


 野辺地の地名由来は、アイヌ語の「ノンベチ」で「野中を静かに流れる清い川」という説と海岸に沿って延びた広い原野を意味する延地(のべち)からきているという説があります。
 野辺地の始まりは、町内の遺跡から縄文時代草創期の尖頭器などの石器が見つかっていることから、その頃までさかのぼるものです。
 「野辺地」という地名を初めて見る文献は、1335年(建武2年)の『北畠顕家国宣』です。後醍醐天皇により陸奥守に任ぜられた北畠顕家が、糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部まで)の郡奉行であった南部師行にあてた文書で、「七戸内野辺地」を伊達五郎宗政に与えるようにと書かれています。
 野辺地湊が利用され始めたのは1593年(文禄2年)頃という記録があります。その後、1647年(正保4年)に盛岡藩が江戸幕府に提出したの『南部領内総絵図』に「野辺地浦」とあり、「此所二丁沖ニテ深壱丈、船懸自由」とされている。また、松前城下前、下北半島九艘泊、津軽領外濱までへの航程が記されていることから、湊の発展が分かります。その後、盛岡藩の中国への輸出品である尾去沢の銅・煎海鼠(干しナマコ)、ヒバや大豆など、領内の主要産物は奥州街道を通って野辺地湊に集められ、上方へ積み出されるようになり、そして下り船は、さまざまな品物や文化を運んで来ました。明治に入ると西廻り航路の拠点湊町として北東北随一ともいわれたようです。

 『浜町の常夜燈』は当時の繁栄を象徴するものです。

③『野坂ビル』の解体も進んでいるようです。


④町で設置している街灯です。やっぱり『常夜燈』は今でも町のシンボルです。


【余談】 「盛岡藩」と「南部藩」
 陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩が「盛岡藩」です。藩主が南部氏だったため『南部藩』と呼ばれることが現代でも多いように思います。
 盛岡の方のお話によると、盛岡は古くは『不来方(こずかた)』と言ったそうですが、盛岡築城の際、盛岡藩二代藩主南部利直が不来方の文字を嫌い「森ヶ岡」と改称し、いつの頃からか「森岡」となり、四代藩主重信によって1691年(元禄四年)に「盛岡」と改められたと伝えられ、現市名となったそうです。
 正式には、1817年(文化14年)に、十代藩主利敬が南部藩を盛岡藩と改称する旨を幕府に届けている記録があるそうです。

晴耕雨読日記 2020年(令和2年)6月5日 金曜日 ブログ開設2000日目

2020-06-05 03:00:00 | 晴耕雨読日記
「普通列車」
車窓を楽しみ 風を感じ 駅弁を楽しむ
列車の揺れに身体を任せ 日常を忘れ 時間が過ぎてゆく

旅の始まりは 小さな新聞記事
意を決して 初の「普通列車の旅」へ
2009年(平成21年)7月29日 「東京往復普通列車の旅」

この年 土曜日+日曜日+敬老の日+国民の休日+秋分の日
秋の5連休 「シルバーウィーク」が初めて出現
新婚旅行以来の二人旅
「世界ジオパーク&シルバーウィーク 洞爺湖の旅」


拙い文章と写真 センスと技術に乏しい編集
その後も幾つかまとめたものの
出来上がったときには旬が過ぎている「小冊子」
 
 そんな時 数少ない読者の友人に勧められた ブログ
 せめて 旬が過ぎないようにと心がけてはいるものの
編集能力の向上は見られず
ブログは 個人的な体験・日記・覚え書きと割り切って投稿する日々

                いつかは紀行「旅の窓」 そんな「想い」が続く限り

 今年は新型コロナウイルス禍。
 2月1日の『秋田内陸線の利き酒シリーズ「秋田の日本酒」の旅』以降、所謂『旅の自粛』。
 もっぱら『晴耕雨読日記』での投稿となっています。
 言うまでも無く、『晴耕雨読』は、晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家で読書するような充実した様子から、「世間の煩わしさを離れて自由気ままに生活すること」や、「悠々自適として自然のままに生きること」そして「田園でのんびりとする文化的な生活」という意味で使われています。
 実際、退職後しばらくは文字通りの「晴耕雨読」生活でしたが、農作業を離れて間もなく2年になります。
 最近の生活は、天気が良ければ「朝の散歩」。あとは、趣味の雑誌を読んだり、旅の計画を立て誌上旅行を楽しんだり。時間にも、誰にも拘束されない、自由気ままな毎日です。 『閑雲野鶴(かんうんやかく:空にのんびりと浮かぶ雲と、野にたわむれる鶴ということから、自然に親しみながら自由気ままに暮らすことをたとえていう。)日記』とでも言ったほうが良いのかも知れませんね。

晴耕雨読日記 2020年(令和2年)6月4日 木曜日 朝の散歩『名所・旧跡10kmコース』 『常夜燈公園』②

2020-06-04 09:57:16 | 晴耕雨読日記
 私的には『寝坊』です!
 今朝はいつもより遅い、4時起き。
 地上波は、珍しくテストパターン。


 短い時間ですが、衛星波でかろうじて今朝のカメラ映像を見ることができました。


 いつも散歩の出発は、起床してから1時間から1時間半後。身体が完全に目覚めてから10kmを歩いています。


①今朝は5時過ぎの出発。日の出から1時間程過ぎています。


②今日の「名所・旧跡案内」は、『常夜燈公園』その2
 『復元北前型弁才船みちのく丸』。通称「北前船」です。
 見方によっては、『常夜燈』が霞んで見えます。


 所謂「北前船」は、江戸時代から明治時代にかけて、日本海の海運の主力となって活躍していた船で、この復元船は全長32.0m、載貨重量150t、帆柱までの高さが28mの帆船です。
2005年(平成17年)に完成したこの船は、2014年(平成26年)まで青森市にあった「みちのく北方漁船博物館」が、日本古来の和船建造技術、そして海の歴史を現代に伝えるために復元したもので、建造に携わった船大工は16名にものぼったそうです。
 博物館に伴い町が無償譲渡を受けましたが、屋外保管されていた船体は、先端部分の腐食・破損や帆柱の破損など傷みが想定以上で、修復しても移動に耐えられない状態になっていたため、修復後の2018年(平成30年)4月に台船に乗せて運搬し陸揚げされました。




③あとは、漁船用巻き上げクレーンを設置すれば完成でしょうか。


④いつもより遅いスタートなので、神明宮にさしかかったのが6時過ぎ。『朝拝』前の『号鼓』が聞こえました。


⑤今は心地よい風と青空。今日は午前中には20度を越える暑さになるようです。



晴耕雨読日記 2020年(令和2年)6月3日 水曜日 朝の散歩『名所・旧跡10kmコース』 『常夜燈公園』①

2020-06-03 10:50:42 | 晴耕雨読日記
 今朝は、小田原駅『アップ』です。


 今朝も『名所・旧跡10kmコース』を歩きます。


①4時30分です。
 今日の日の出時刻は4時5分3秒。日の入り時刻は19時2分19秒。よって日長は14時間57分16秒。


②ラーメン屋さんは、テイクアウトをやめたのではなく、新しいのを作っていたようです。今朝初めて見ました。


③今日の「名所・旧跡案内」は、『常夜燈公園』その1
 2007年(平成19年)。町制110周年を記念して、漁港環境整備事業として進められてきた『常夜燈公園』がオープンしました。
 ここは海だったところを埋め立てて整備した公園です。


 この公園のメインは、なんと言っても日本遺産構成文化財にも指定されている『浜町の常夜燈』です。
案内板には次のようにあります。
 「浜町の常夜燈は、文政10年(1827)、野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられた。関西の商人橘屋吉五郎の協力を得て海路運ばれてきたものである。常夜燈には、毎年3月から10月まで灯がともされ、航海の安全を守る灯明台として野辺地湊に行き交う船を見守ってきた。江戸時代に物資輸送の大動脈であった大坂と蝦夷地(北海道)を結ぶ日本海航路。野辺地湊はこの航路への盛岡藩の窓口であり、領内の海産物・大豆・銅などを積み出す船や、塩・木綿・日用品などを積み入港する船でにぎわった。湊には湊役所・遠見番所・銅蔵・大豆蔵などの施設や廻船問屋の船荷蔵があり、船は沖合に停泊し、はしけ船によって船荷を運んでいた。この常夜燈は、かつての野辺地湊の面影を伝える貴重な史跡である。 野辺地町教育委員会」
 常夜燈は高さ380cm、基礎部は約220cm四方、常夜燈の正面には「常夜燈」の文字。


 背面には「金比羅大権現」の文字と、基礎部には常夜燈の建立に携わった「野村治三郎」、「橘屋吉五郎」の名前が刻まれています。


 側面には「文政十丁亥歳」。


 もう一方の側面には「正月吉良日」。

 なお、この『常夜燈』は「現存する日本最古の常夜灯」として貴重な事から1997年(平成9年)に野辺地町指定史跡に指定されています。

④『愛宕公園」は今朝も最短距離で頂上へ。
 振り向けば町並みが見えます。


⑤町内では、『浜町の常夜燈』のレプリカを見ることができます。
 「介護老人保健施設 のへじ」。


⑥野辺地駅隣の「野辺地町観光物産PRセンター」。


 未だ何処かにあったような~