新・空と鷹と鉄の間に

ヒコーキ、ホークス、鉄道好きのブログです。

新潟佐渡の旅〜7

2018-07-22 10:38:17 | 旅行

佐和田でお昼ご飯を食べて県道45号線と県道31号線を走って相川町へ。そしてやって来たのは佐渡金山です。

佐渡金山はかつて江戸幕府の直轄の金銀鉱山として発展をし、江戸時代としては世界最大の金鉱山で年間400kgの金を産出し、江戸経済を支えていました。明治に入り幕府直轄から官営、三菱と変わって行く間に近代化を果たし、さらに昭和に入りあとで訪れる予定の北沢浮遊鉱選場の操業開始により爆発的に産出量が増えました。しかし金相場と生産コストが見合わなくなり、1990年に採掘を終了、現在は坑道の一部が観光用に公開されています。
江戸時代の宗太夫坑と明治以降の道遊坑の二つが見学できるようになっており、それぞれ単独でも見学可能ですが、ここは両方とも見てみることにします。まずは宗太夫坑へ。坑内へ入ると一転、涼しい空気が体を包みます。 


江戸時代の坑内での作業の様子を人形を使って再現しています。江戸時代は手作業で固い岩盤を掘り、金鉱脈を見つけて掘っていました。

坑夫は一度入ると数日間は坑内で過ごしていたようで、休憩をする場所もあります。その休憩する場所で喋る坑夫が意外な有名人らしいです。ブラタモリでもタモリさんが真似をしていましたね。

佐渡の固い岩盤のおかげで縦横無尽に掘ることができ、下を見下ろすような坑道も見学できます。この坑道で近江アナが演技をしていました。
見学して歩いていると、涼しさを通り越して寒いぐらいに。半袖で見学するにはちょっと寒いです。一枚羽織るものを持って来ればよかったとちょっと後悔。しかし外の暑さを考えると、その発想は思い浮かびません。一度外へ出てから今度は道遊坑を見学します。

こちらへ来る人はほとんどいないと見え、誰もいない構内をのんびりと歩きます。とはいえ寒いくらいなので、あまりゆっくりはできません。

明治以後に掘られた道遊坑はさすがに近代的でトンネル掘削技術を使っていたり、トロッコの軌道が敷設されたりしています。操業していた頃に走るトロッコへ向けた標識も残っていました。

江戸時代に最初に金鉱脈が発見され、手掘りで掘り進めていた道遊の割戸の直下で金鉱石を採掘していた跡です。1990年の操業停止まで掘っていた場所だそうです。

こちらは坑内に残されている蓄電池機関車とトロッコ。このようなもので鉱石を運搬していたのでしょう。

涼しい坑内から一度出て、佐渡金山の象徴でもある道遊の割戸を見に行くことができます。涼しい坑内に慣れてしまった体には暑さが厳しいですが、ふうふう言いながらも登ってゆきます。

道遊の割戸の直下へ出て来ました。大きな穴が空いていますが、この穴は金鉱石を採掘するために掘った穴。ちなみに金鉱脈は現在でも露出しています。写真右側の白い岩のあたりが金鉱脈なのですが、言われないとわかりません。

こちらはあとから見た道遊の割戸の全景。元は一つの山でしたが、江戸時代の採掘のおかげで二つに峰が分かれています。人間の金に対する強い欲望が山の形を変えてしまいました。

道遊坑の出口へ戻って来ると、坑内から噴き出してくる冷たい風が非常に気持ちいいです。

かつて蓄電池式機関車の整備や、機械の整備点検に使われていた工場も見学できるようになっています。蓄電池式機関車の車庫も兼ね備えていたようで、数台の機関車収容されていました。向きを変えるターンテーブルも残っており、足で動かすと、ターンテーブルがちゃんと動くのにはびっくりしました。操業停止は30年前ですが、保存状態が良いのでしょう。
小一時間ほどの滞在で佐渡金山の見学を終えます。車でふもとの相川の街へ出て次の目的地へと向かいます。