ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
北九州市民球場で33年前の記憶が甦る
28日に息子達を連れて北九州市民球場に行き九州国際大付が北筑に
16-0で勝った夏の甲子園 福岡県予選の決勝を観戦した。
観戦したのはネット裏の最上段で球場全体が見渡せるのだが、つい
見入ってしまうのは3塁側のネクストバッターズサークルで1塁側が
九国大付という要素を含めて33年前の私達の高校ラストゲームを思い
出してしまう。
北九州市民球場もスコアボードが手書き式から電光掲示板になって
いるし、キャッチャーの後ろも舗装されるなど我々がプレーしている
頃とは大きく様変わりしているでネクストバッターズサークルの位置
も打席寄りになっている。
私がプレーした西田川は今年同様Aパート最初の試合で九国大付と
3塁側ベンチに入って対戦し0-7の7回コールドで敗れているのだが、
当時 右投手が先発したので2年生の左打者が5番レフトで先発し私は
外れていた。
ところが6回表終了時点で0-5になり九国大付は2年の左投手が
起用された事から5番に回ると私が代打で出場する予定になっていた
ものの7回表に2ランを打たれて7点差が付き、その裏の攻撃が2番
から3者連続三振だったので私はネクストバッターズサークルで試合を
終えたのだった。
つまりネクストバッターズサークルから打席まで届かなかったと
いう結末だったわけで、今でもOB会ではネタにして盛り上がって
いる。
今にして思えば負けた相手が翌年春夏甲子園出場する九国大付で
球場もプロが使う北九州市民球場だったので最後の打席に立てずに
終わっても思ったほど無念ではなかったが、これが勝てる相手に敗
れ球場もサブ球場での試合だったら この思いも随分違っていただ
ろう。
などと北九州市民球場の観客席最上段から3塁側ネクストバッタ
ーズサークルを見ながら思うのだった。
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我々の時代までは小倉球場という呼称でしたしスコアボードも手書きでした。
原辰徳のプロ入り初のサヨナラHRはここで、試合前に
フェンス際をランニングしていて‘原が打ち込んだサヨナラHRはここらへんに入ったのか’などと友人達と言って盛り上がったのを覚えてます。
負けた悔しさは不思議となかったですし、打席に立てなかったのも最初こそ残念でしたがすぐに切り替わりましたね。
ちなみに九国大付のユニは若生氏が就任した時に‘仙台育英みたいだからダメ’という事で旧来のグレーから
ピンストライプに変更されたようです。
作新の縦ジマは何かの写真で見たことがあります。
77年の天理-作新戦は第1試合だったためコチラでは
殆どラジオ中継だったから今ひとつ記憶がないのですよ。
銚子商はグレーの時と法政カラーの時の2種類ありましたけど、倉敷工も86年に川辺から抑えられた時と96年などの時と違いましたし旭川竜谷が春用のグレーと夏用のアイボリーの2種類という話を聞いたことがありますね。
次週予告でチラッと映像を見たけど、両チームのユニフォームは判別が全く出来ないくらい殆どソックリだねw
岡山南は初出場の時はアイボリーでしたけどブルーの
イメージが強いですね。
倉敷商は確かに倉敷工と似た雰囲気のユニですね。
旭川竜谷が87年に広島商と対戦した時にグレーを着用してましたが、その時にNHKのアナが旭川竜谷の春と夏で
ユニを換えるという話を聞いて驚いた次第です。
ちなみに倉敷工-中京大中京は75年の試合をまともに
見てなかったので(当時は完全中継ではなかった)まぁ
こんなものかぐらいでしたけどスコアは10点少ない6-5には感心したものです。
02年が最初で最後ですね、ああいう全く同じユニでの対決は。
サッカーやラグビーではこういう時にセカンドユニを着用させますが、野球はそこまでないですからね。