予定原稿に ついて

 以前記したように今から40年前のサラエボ五輪のスピードスケート
男子500で北沢欣浩が、日本スケート界初のメダル=銀メダルを獲得
したのだが北沢の銀メダルが確定した時に記者席の反応は微妙だった
ようだ。

 というのも当時のマスコミは前年の世界スプリント選手権で初優勝
した黒岩彰しか知らず、予定原稿では‘黒岩悲願のメダル獲得’か‘無念!
黒岩メダルを逃す’と2つあったものの北沢の存在を全く知らなかった
という事らしい。

 だから北沢が銀メダルを獲得したにも拘わらず‘北沢?誰?’的な困
惑ムードに溢れていたようで、予定原稿すら書いておらず慌てていた
ようだ。

 サラエボ五輪スピードスケート男子500の当日はリンクに朝から激
しい雪が降り積もりスタート時間が大葉場に送れたわけで、こういう
時のために
予定原稿が威力を発揮すると思われた。

 予定原稿とは試合展開を予測して何種類か書いて先に本社に送るも
のだが、個人的に最も印象的なのは63年1月にタイのバンコクで行わ
れた海老原博幸ーポーン・キングピッチ戦。

 当時タイとは通信事情が悪いため3種類の予定原稿を書いており1:
海老原のKO防衛、2:海老原の判定防衛、3:ポーンの判定での返り咲
きの3種類を準備したらしいが東京での初戦で海老原が1RKOでタイト
ルを奪取しており海老原の負けるイメージが全く沸かなかったらしい。

 そこで記者の目から見た海老原の弱点を突いたポーンが試合途中か
ら気付いて…と書いたら結果的にその通りになって海老原は判定で初
防衛に失敗し、6年後にようやく奪回するも再び初防衛戦で敗れ1度も
防衛できずに引退したため‘タイで予定原稿が使えなくなっても海老原
に弱点を教えておくべきだった’と悔やんだ話を故・佐瀬稔氏は海老原
が亡くなった時に‘海老原博幸への詫び状’と追悼記事を載せていた。

 これを読んで記者の洞察力の凄さを実感したのだが、サラエボの頃
からマスコミの劣化は始まっていたという事だろう。

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