宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「供養と土饅頭」

2005年04月28日 | Weblog






しばしば 供養塔に失礼をして 祟りを受けたという体験談が見られますが、
それは 供養塔に鎮まっている魄が怒るからであるようですが、

またそれとは逆に
敢えて 供養塔や墓を造らずに
殺された霊に 陰魄を供給するような作法をする場所があるようです。

以下 ネットに投稿されていた体験談のコピペです。


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父方の田舎に帰省したとき、山歩きした。小5ぐらいだったかな
墓が二ヵ所ある家で町を通る道路を見下ろす開けた斜面にある
ごく一般的な墓地の他にもうひとつ墓地がある。

本家の裏の竹林脇の道から入っていくんだけど男手が足りなくなって手入れが出来てないんで、
蔦やら腐った倒木放置ですごい迫力あるロケーションになってた。
本家のおばさん二人は途中にある物置小屋から鉈と鎌を取ってきた。
墓の草取りに使うんだと思った。

昔は山の向こうに続く道や寺や石の階段なんかもあったらしい。
寺は明治維新のごたごたで、どうにかなってしまい荒れたあと、他所から来た尼さんが住んでたんだって。



健脚な年寄二人に両親、叔父、自分の順で草延び放題の山道を黙々と小一時間

すると長いしめ縄みたいのが蔦にからまっているのを見つけた。
本来墓の入り口にある大きな石に掛けてあるものが、蔦の成長に巻き込まれてはずれ、
木の幹の辺りにぶら下がる変なことに。
なんだか気持ち悪いなあと思った。で、そんな気分をぶっ飛ばすトンでも行動に老婆二人は出た。

鎌と鉈で草を払った土の上に振り上げた鎌をグサツ、鉈をズブリと刺すように叔父と父に指示。
黙って従い言う通り叔父と父は力を込めてグサツズブリ。
戸惑いの母とおれ。

そこから三メートルほど離れて苔むしてヤバイ風情の家の山墓があって、
掃除して線香あげて合掌して山を降りた。
あれは何なのか聞いてもその時は説明してくれなかった。
中学に入ってから、あの鎌と鉈を突き立てた所は土まんじゅうという古い墓だと教えてもらった。
鎌と鉈はまじないなんだが、廃された古い寺が関係してる話


山中の廃れた寺に住み着いた尼さんは集落の男衆からもてたけど自分は尼だから、そういうことはしない、
と断っていたんだと。
なのに他所から来た中年の学者とそういう関係を持った。
反感買ったのがかなり堪えた尼さんは、村の男衆を受け入れるようになった。

よそ者の学者と村男が尼さん巡って揉めて、などがあって、人が死んでしまった。
あの土まんじゅうは、その人のものだって。
鎌と鉈のまじないにどんな意味があるのか、そういやまだ聞いてない。
山奥の村ってどこもこんな感じなのかな


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登場人物のうちの誰が土饅頭の中の人になっているのかよくワカン


事件のあった時代がいつかは分からないけど、昔は流れ者の尼さん(比丘尼)は
春をひさぐ者であった場合もあるというから、そういう目で見られたのかもしれないね。

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江戸時代は、本来私娼(岡場所や小屋掛けの売春婦や夜鷹)は禁止されていた。
摘発された場合、女達は「公娼窟=吉原」に送られた
岡場所の場合、その筋に賄賂をおくって存在を黙認してもらっていたけど、
小屋掛け(橋の下等に簡易な小屋を作っていた)や夜鷹の場合はそうはいかない
そこでお上の目をごまかす為に、さまざまな変装をしたりしてた。

・呉服・小間物の行商をしながら出会い茶屋等で客と落ち合い売春(すあい。数間)
・托鉢をして歩く尼(比丘尼)になり、出会い茶屋や共同の住家(比丘尼宿)で売春したり




尼さんが「尼だから、そういうことはしない」ってのは、自分は売春婦じゃなって意味
なのに村の男が懸想をして、結局売春婦になった

他所から来た学者も、村の女も、取り合っていた村の男ども、それぞれ恨みあった
その結果、事件まで起きてしまった
墓が土饅頭(卒塔婆や墓石を立てて供養するものがいない)のは、かなりの反感を持たれていたからだろう
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